9 授業は、予想に反して
「待たせて悪かった。今回の教官をつとめるジャーイルだ。よろしく頼む」
自己紹介はそれだけでした。先のコアッドル教官と同じく、自分の地位も来歴も、なにもなしです。
けれど生徒たちの張りつめた様子からみて、みんな教官の素性を知っているようでした。
室内に漂う緊張感に気づいているのかいないのか、大公閣下は自然体で教卓に立ちます。
けれどもその様子は、なんだか昨日に比べて覇気がないように見受けられました。
まさか大公閣下ともあろう者が、わずかな遅刻を気にしているわけはないでしょう。
しかし、おかげで姉は相手からの威圧感が、昨日より幾分かやわらいで感じられることに、ホッとしていました。
「補佐を務めるオットゥスです」
オットセイ顔の教官は淡々とした口調で名乗ると、ジャーイル大公の背後に控えるように立ちます。
「半分は、さっきまでと同じ顔ぶれだな。未成年は六名か」
大公閣下が教卓に置かれた紙に視線を落としつつ呟きます。どうやら見ているのは名簿のようです。
姉妹からは全員大人に見えましたが、ケルヴィスと同じで、ほかにも二名、成人に見える未成年参加者がいるようです。
「今回は造形魔術を学んでいくわけだが……まずはオットゥス。点呼を頼む」
ジャーイルが促すと、オットセイ教官が手に持っていた名簿から、生徒の名を読み上げます。
ジャーイルは金色に輝く瞳で、呼応する生徒の顔を確かめるよう、見渡していきました。
ケルヴィスには苦笑を向けたように見え、ハイラマリーを確認し、姉妹の上では視線を止め、「ああ」という表情を浮かべます。
どうやら昨日、大階段で出会った子供たちであると、覚えてくれているようです。
生徒たちからの自己紹介は、やはりなしでした。
「この授業では実践はもちろん、座学も、まぁある。わからないことや、ひっかかるところがあれば、どんなタイミングでも気にせずどんどん質問するように。中断は気にしなくていい。それに今回は造形魔術なんで、特に危険なこともないと思うが……うん、無理はしないように」
その言い方では、どうやら先の二コマでは、何らかの危険があったようです。
「最低でも二層三十五式の魔術を使うから、できない者は見ているだけでもいい。できることだけ参加するように。造形魔術は複合的な魔術だから、今日はできなくとも、いつかはできるようになるかもしれない。焦らなくてもいいからな」
そう言って、ジャーイルは幼い三名の子供に優しげな視線を向けました。
しかして、結論からいうと、あれだけみんなが心配していたにしては、教え方に厳しいところは全くありませんでした。
遠慮のためか、それともとっくに既知の事実であるからか、大人の参加者のほとんどからは質問がとばず、逆に子供たちからは文様それ自体の意味や配置の効果について、よく挙手があがりました。
中断は気にしなくていいと言ったとおり、どれだけ時間がかかっても、二人の教官は一度もイラッとした様子をみせませんでした。
授業はお手本となるたった二つの術式を、まずはジャーイルが黒板に書いてみせ、それを生徒たちが配布された白紙に自分で書き写し、補佐のオットゥスが文様の解説をします。それから実践場に移って、今度もまた実際の術式をジャーイルがゆっくりと描き、生徒たちが模倣するのです。
授業スタイルは、どちらかといえばコアッドル教官寄りではありましたが、失敗したりうまくいかなかったりしても叱責などは飛ばず、むしろそのたびにジャーイルかオットゥスが助言をくれたので、和やかな雰囲気の中、時間が進んでいきました。
もっとも、ジャーイルの場合は実際にここをこうすればいいんじゃないか、というのを術式で示してみせることがほとんどで、言葉を尽くしての理論的な助言は、どちらかというとオットゥスの役目でしたが。
最初は力ある大公閣下を前に、畏怖の念が強かった姉も、何度か横についてもらっているうち、相手から感じる魔力圧ともいうべきものにもだんだん慣れてきました。
しかも――
「そうそう。ニラリヤはうまいなぁ。造形魔術を使いこなすには、いろんな要素をバランスよく入れる必要があるんだが、君はその感覚が優れているのかもしれないな」
こう誉められた上、頭まで撫でられるに至り、最後に残っていた苦手意識はどこかに霧散しました。
そうなると、相手は普通に綺麗な顔立ちの優しいお兄さんなので、今度は違う意味での緊張が生じます。
「あ、ありがとうございます」
さっきよりむしろ、自分の声が固くなったような気がして、途端に気恥ずかしい思いがわき上がるのでした。
「もしかして、普段から自分でも造形魔術を使ったりしてた?」
ジャーイル大公は膝をおって視線の高さを合わせてこようとするのですが、その顔を直視することができません。
「えっと……はい、そんな感じのことはちょっと……こんな大きなものを造ったことはないですけど……」
今回の授業では、蔦をはわせ、花を咲かせた土柱と、鉄の如き強度を誇る巨大な蜘蛛の巣を造る術式を習っていました。
ニラリヤは、家では部屋に飾る造花や、それを入れる花瓶などを魔術で造っていたので、なんとなくこつがわかるのでした。
「だろうなぁ。なら、基礎はできているようだから、少しアレンジしてみてもいいぞ」
「……はい!」
父母以外の大人に造形魔術を認めてもらえたのが初めてだった姉は、このとき、震えるほどの喜びを感じました。
その瞬間、何かが自分の中で目覚めたような感覚を憶え、視界の中心が、チカチカと瞬いたような気がします。
まさにそれが、ニラリヤが自身の特殊魔術に目覚めた瞬間だったのです。
彼女の能力は、造形魔術に特化したものでした。その瞬間から、造形魔術に関して直感が働くようになり、たとえ習っていなくとも、必要な文様がひとりでに脳裏に浮かぶようになったのでした。
もっとも周囲の人びとのみならず、彼女自身さえ、その特殊能力の存在に気づくのは、もっと後のことなのですが。
教室では、二人の教官がまんべんなく生徒たちを指導しようとしていました。
ところが、一人だけ――
「だから、私は閣下じゃなくって、ジャーイル様に教えてもらいたいんですってば!」
オットゥス教官にはいらだちを隠さず、ジャーイルには媚びた声音で呼びかける、あきらかに成人していると思われるデーモン族の女性がいたのです。
「んねぇ、ジャーイルさまぁ。私、ここがわからなくって……手取り足取り、教えてくださいません?」
この場には不似合いな、大きい胸をやたらと強調するぴっちりした布面積の少ない服を着て、くねくねと、身体を捩りながら甘えた声で訴えます。
大公閣下の目の前でも二面性を隠そうともしないその様子に、姉妹はあきれるよりむしろ感心したくらいです。
「エミリー、真面目に学ぶつもりがないのなら、放り出すぞ」
「えぇ~。そんなぁ、ひどぉい……」
女性はクネクネと、しなをつくります。
「はるばるここまで来たんですよ。それなのに、追い返すなんてひどいわ。あ、でも、後でお時間をつくっていただけるなら、出て行ってもよろしいですけど。ジャーイル様と私の仲、で・す・し」
「あのなぁ……」
ジャーイルが長い指を額に当て、ため息をつきます。
その瞬間、ぷっつんと、何かが切れたような音がしたと思ったのは、気のせいでしょうか。
「あなたねぇ、こちらは真剣に魔術を習いに来てるんですのよ! 不真面目な態度で授業の邪魔をするなら、閣下の代わりに私が追い出してやりますわ!」
腕まくりをしながらそう叫んだのは、ハイラマリーでした。
相手は無爵とはいえ、成人しています。それを、まだ幼い子供でありながら、こうもハッキリ宣言したのは天晴れでした。
思わず拍手をしてしまったのは、姉妹だけではありません。ジャーイル当人も、ハイラマリーを見ながら「おー」っと感じ入ったように呟きます。
「ごほん、閣下。いかがいたしますか?」
オットゥスに促され、ジャーイルはハッとした表情を浮かべます。
「お、おお、そうだな。ほかの生徒に迷惑をかけるのは本意じゃない。オットゥス、つまみだしてくれ」
「御意」
オットゥス教官は、エミリーに歩み寄りました。
「なによ、嘘でしょう……やめて、近寄らないで! 嫌よ、私は出て行かないわよ! ちょっと、乱暴しないでよ!!」
オットゥスは問答無用とばかり、ギャアギャアわめく彼女の首根っこをつかみ、廊下に放り出します。
「ちょっとぉ!」
扉を叩く音と、叫び声が中まで響いて聞こえたのは、そこまででした。
ジャーイルが結界を張り、出入りと音を遮断させたのです。
「すまない。気がそがれたな。ハイラマリーも、君にあんなことを言わせる前に俺が対処すべきだった。悪かったね」
「いえ、そんな……わたくしの方こそ、出過ぎまして、申し訳ありません」
高位魔族といえば、白でも黒と通して弱者には我慢を強いるもの。傍若無人が当たり前です。
なんなら授業の邪魔をしたと、注意をしたハイラマリーが罰せられてもおかしくはありませんでした。
それなのに大公閣下に謝られ、ハイラマリーが心底驚いたのも無理はありません。
けれど、おかげでその後は静かなものでした。
早々に課題をクリアして、応用に取り組んでいるケルヴィスまでとはいかずとも、誰も彼も真剣に、かつ熱心に、指導を受けていたからです。
それに、コアッドル教官と違い、今回は完璧な模倣ではなく、自分なりのアレンジをした結果でも、ある程度のものが作れた場合、合格とみなされました。
それで造形魔術を得意とする姉はもちろんのこと、妹も苦もなく二つの課題をクリアし、姉妹はどちらも応用に進むことを許されたのです。
しかしそれは姉妹にその素質があったからのようです。
やはり造形魔術は一般的な魔術よりは難しいらしく、姉妹と同じようなレベルと思えるハイラマリーであっても、今回の術式の習得にはかなり苦労をしているようでした。
結局、時間内に造形魔術をきちんとものにしたといえるのは、ケルヴィスと姉妹の三名だけだったのです。
「まぁ、そんなものだろう。最初に言ったが、今、できないからといって落ち込まなくてもいい。練習を続けていれば、いつかはうまくできるようになるかもしれないからな。それに、教官は俺ではなかろうが、今後も造形魔術の授業はあるだろうし、習得を目指す者は、また挑戦すればいい。もちろん、自分にはあっていないと判断したら、早々に諦めるのも一つの道だ」
確かに、魔術には向き不向きがあります。たったの一分野、苦手なものがあるからといって、強くなれないわけでもありません。
無理に苦手な魔術の習得に時間を使うより、得意分野を延ばすことに尽力する方が、強くなるためにはきっと有意義であるに違いないのでした。
もっとも――そうはいっても有爵者は、どの魔術も最低限はこなすことが多いのも事実です。
「保護者たちも心配しているころだろう。そろそろ終わるか」
「そうですね」
少し遅れて始まった授業は、その分時間を延長して終わったのでした。