4 無爵の、正しい振る舞い方について
「すごいね! 広いね! とぉと、およいでもいい?」
「浅瀬で足をつけるくらいにしておきなさい。でないと、また服を借りないといけないからね」
「はーい!」
翌日は、修練所が開いていないというので、姉妹は父母と、魔王城のほかの場所を見て回ることにしました。
そもそも、一家が割り当てられていた部屋の様子だけでも、姉妹にとっては十分、興味の的になっていたのです。
けれど、子供の興味はすぐに移ろうもの。一通り、自分たちの部屋を見て回ると、昨日の湖に遊びに行きたいと言い出しました。
それで父母はお風呂に入って身体を清め、全員の分を一式、借りていた服に着替え――魔族が宿泊者に衣服を貸し与えるのは、当たり前の慣習です――、一階の食堂で朝食をとってから、魔豹に乗ってではなく、歩いて西面に向かうことにしたのです。
ちなみに昨夜、宿泊所を教えてくれた青年は、まだ扉の前にいました。まさか夜通し立っていたのだろうか、とも思いましたが、会話をしに寄るほど親しくもなっていなかったので、黙礼して通りすぎました。
魔王城は大変に広いので、すそ野を横切るだけでもずいぶん時間がかかります。けれど一家の泊まった宿泊所は、まだ西面にほど近い場所にあったので、幼い子供の足でも、三十分も歩けば湖にたどり着くことができたのは幸いでした。
改めて、日の光のもとで目にする大瀑布は壮大です。数百の潜流瀑が、段瀑や分岐瀑も作りつつ滝壺に向かって落ちており、その最大直瀑箇所は百mを超します。それが、幅は数キロに及んでいるのだから、圧倒されるのも当然です。
分厚い水のカーテンの奥には〈官僚区〉と呼ばれるお役所や、魔王城の勤め人が住む住居があるそうですが、外からではそんな様子はちっとも見通せません。
前面の湖は、一家のような観光目的と思える親子連れや恋人たちの姿もあって、すっかり臣民の憩いの場になっているようです。
「以前は魔王城なんていうと、私たちにはお役所くらいしか縁がなかったけど、こうしてあっちこっち見所をつくってくださっているのは有り難いわね。これも、魔王様が変わるとどうなるかわからないんでしょうけど」
「そうね。やっぱりルデルフォウス陛下は慈悲深いお方よね。単に凛々しいお顔も素敵だけど」
「お顔だけじゃなくて、筋肉質なお身体も素敵だけど」
「ずっと魔王様で居てほしいわねぇ」
「ねぇ!」
魔王領の臣民なのでしょう。そう話している声が聞こえます。途中、涎をすすり上げるような音がしたのは、魔族らしいといえばそれまでですが、気のせいと思うことにしました。
「ニラリヤ、ナルテラ、昨日の階段をあがってみないか?」
「いくー!」
姉妹が裸足でかけてきます。
「また、てんいじん、つかう?」
「そうだね。さすがに使おうか」
姉妹はすっかり転移陣が気に入ったようです。父母が感じたヒヤッとする感覚も、姉妹は全く感じていないようでした。
それが子供ならではの、物怖じのなさのおかげか、それとも姉妹ともに強者への素質があるためか、父母には判断がつきませんでした。
いずれにせよ、三度目には父母も転移陣になれてしまいました。
そうなると、この広い魔王城を移動するのに、確かに転移陣は便利です。逆に、それがなければこれほど臣民たちも、観光目的での来城には及ばなかったことでしょう。
湖中の島の四阿に置かれた転移陣に足を踏み入れ、一家は南面に移動しました。
この魔王城の正面は、〈大階段〉のある南だといわれています。
暗い中、人気なく灯りをともして浮かび上がる大階段も、どこか威圧的で空恐ろしいものを感じたものですが、明るい日差しの中で見上げると、それはそれで、単純にどこまでも続くかのような錯覚に襲われ、圧倒されます。
ところが、そう感じているのは父母だけのようでした。
「ねえ、あのベンチのところまで、競争しようか!」
「うん!」
元気なもので、姉妹は一つ目の踊り場を目指して駆けだしていきました。その後を、父母はゆっくり上ることにします。
「もう、二人とも! 前をよく見て、気をつけるのよ! 頂上には勝手に登っちゃだめだからね! ちゃんと途中で待ってるのよ!」
「はぁい!!」
頂上まで、階段は数にして千、高さにして百五十はあるといわれています。定間隔で設けられた踊り場から振り返るにつれ、だんだんと、遠くの景色まで見渡せるようになるのが、二人には面白くてたまりません。もっと高度のある山を登ることだってありますが、これだけ目の前が開けた風景を見るのは、初めてといっていいでしょう。
その感動は別として、姉と妹は、わずか二十歳ほどとはいえ、年齢の差の分、身長にも差があります。特別、早足だというわけでもない妹は、姉には追いつけません。いくら競争しても、必ず妹が負けてしまうのでした。
「わたしも勝ちたい!」
そうだ、足の速い動物――豹にでもなれば、きっと勝てるはずだ。
そう考えた妹は、転身を試みます。いつもするように意識を集中させ、なりたい姿を思い浮かべ――
「ぎゃん!」
そのとき、誰かにぶつかっていなければ、彼女は変化を終えていたでしょう。けれど、目の前の相手におでこをぶつけて集中力がとぎれてしまったため、身を転じずにすんだのでした。
「おっと、危ない――」
転ぶ覚悟をした彼女の手を、力強い大きな手がつかんで引き寄せます。
そればかりではありません。身体がふわりと宙に浮いた、と思ったら、彼女は見知らぬ男性に、抱き上げられていました。
まるでそれは、父が彼女を抱き上げるように。
「ふぇ?」
ところが目の前にあったのは、梅鼠色の父の瞳ではなく、吸い込まれるような、キラキラと輝く黄金色の瞳でした。
魔族には様々な色の瞳の人がいます。姉妹は父に似た梅鼠色の瞳だし、母の瞳は柿色です。ほかに紫だとか、桃色をした人だっています。
けれど妹を抱き上げたその人の瞳は、ほかに一度として、見たことがない色――単に色目が黄金というだけでなく、本当に瞳それ自体が発光しているかのように、輝いて見える瞳なのでした。
「ナル!」
姉があわてた様子で駆け寄ってきたと思ったら、どうしたことか、離れた場所でピタリと足を止めてしまいます。まるでそこに、見えない壁があるとでもいうように。
その表情はこわばって、どこか恐怖を感じているかのようです。
妹は不思議に思いました。
その青年は姉妹と同じデーモン族で、だから見当がつくのですが、妹が今までに見た誰よりも、綺麗な顔立ちをしていました。
髪は金色で背は高くすらりとして、表情だってちっとも怖いところなんてありません。むしろ、愉快そうに笑ってさえいます。
けれど姉はそんな青年を前に、少し青ざめたといっていいような顔色で、固まってしまっているのです。
「ニラリヤーナ! ナルテラーナ!」
父母がいつもは呼ばない姉妹のフルネームを呼び、慌てて駆け寄ってきました。
母の頬はやや紅潮していましたが、父は姉より一層はっきりと青ざめていました。
すぐさま、母は姉を抱いたその場で両膝をついて頭を垂れ、父は青年の足下に片膝をつきます。
それで妹は、自分を抱き抱えるその青年が、有爵者であると気づきました。
そういえば、着ている白い服はとてもなめらかな生地で、立派な軍服のようだし、内側に薔薇を刺繍した、ツヤツヤの青いマントが、その権威を表すかのようにたなびいています。お城勤めでもない父母が知っているのだから、きっと高位の魔族です。
「申し訳ありません、閣下! 娘が大変、失礼なことを――」
「いや、こんな小さな子にぶつかられたくらい、失礼というほどのことはない。だからそんな風に跪かなくてかまわない」
青年は優しい声でそう言うと、ふわりと妹をおろして、彼女の低い視線にあわすべく、腰を落としました。
マントが地面につくのもおかまいなしで、金色の瞳の真正面から妹をとらえます。
「だけどお嬢さん、君は前を見て走ろうな。ここには怖いお兄さんやお姉さんがたくさんいる。うっかり気の短い相手にぶつかったりでもしたら、子供とはいえ大変だぞ」
「はい、ごめんなさい」
妹は素直に謝りました。目の前の青年の美貌に感嘆こそすれ、恐怖など一片も感じませんでした。
「よし、いい子だな」
青年はそう言って妹の頭を優しい手つきで撫でると、裾まである空色のマントを翻し、頂上に向かって颯爽と歩いていってしまいました。
その背中が豆粒ほどに小さくなってはじめて、父は姿勢を崩して尻餅をつき、深い息を吐ききります。まるでそれまで、息をすること自体を忘れていたように。
「生きた心地がしなかったよ……」
「ククノス、あの方は――」
「ああ、大公閣下だ」
両手で顔を覆った父は、相手に感じた恐怖のためか、暫く立ち上がれないようでした。
両親のおびえは感じていましたし、自身も青年が目の前にいたその時には怖くて足が動かなかった姉ですが、青年が離れていってしまった今、ほかに気になることがあります。
「ナル、転身しようとしたでしょ」
姉が、ボソリと低い声で妹を責めました。
「本当なの、ナルテラ。他人の目があるところでは、変化してはだめってあれほどいってるのに!」
母が姉を離し、青ざめた顔で妹に詰め寄ります。けれど、なにせ特殊魔術のことですから、怒っている声音でも大声は出さないよう、気をつけてのことでした。
「……だって……」
ずっと負けてばっかりで、悔しかったんだもん。
その言葉を、妹はうつむき、ぐっと飲み込みます。
「どうしましょう? やっぱり修練所への参加は諦めて、帰りましょうか?」
「え、やだ……」
妹ははじかれたように顔をあげ、涙目になって母にとりすがりました。
「ごめんなさい、もうぜったい転身なんてしようとしないから、お願い、かぁか、とぉと! ぜったいいい子にしてるから!!」
泣き出してしまった娘を前に、父は顔から手をのけると、苦笑を浮かべて娘の涙を拭います。
「俺たちも注意が足りなかった。ここは恐ろしい魔王城であって、風光明媚な観光地ではないんだ。ちゃんと子供たちに相応しい態度っていうものを教えてやるべきだったんだよ。これは、子供たちが走るに任せた俺たちの責任でもある」
「それは……確かにそうだけども」
「うん、だからね、帰らないでもいいと思うんだ。せっかく、家族みんなでここまで遠出してきたんだからね。ちゃんと、子供たちがその場その場に応じた振る舞いをできるよう、これからはきちんと教えていこう。君と俺とで」
「まぁ、そうね……」
母は姉と妹を見比べて、二人ともが自分の出す答えを絶望と期待半々で見守っているのを察すると、父と同じような苦笑で応えました。
「頂上までは、手をつないでいきますからね! あと、手を離しても、急に走り出したりしないこと。わかった?」
「ええ」
「はい!」
妹は父母のおびえた様子に、心底、反省したらしく、それ以後は必ず母と、あるいは父と手をつないで移動し、返事も元気よく「はい!」と応えるようになっていたのでした。
もっともそれも、この日限りのことではありますが。




