1 とある大公領の、片隅で
そこは、サーリスヴォルフという魔族の大公が支配している一地域の片隅。山に繋がる鬱蒼とした森にほど近い平地の一軒家に、両親と、幼い二人の姉妹が住んでいました。
「ねぇねぇ、お母さん。大切なものを守るためには、どうすればいいの?」
姉妹が母の膝にすがって尋ねます。
母は編み物の手を止め、少し首を傾げてから、こう言いました。
「そうね……大切なものを守るためには、強くなるのが一番ね」
「そっかぁ。強くなればいいのかぁ」
強さこそすべて、というのは魔族における通説です。その答えに、妹は納得して頷きました。
「でも、みんながみんな、強くなれるわけじゃないよね? 訓練しても強くなれない子は、どうすればいいの?」
強くなるにも生まれもっての才能が必要なことを知っている姉は、更に問いかけます。
必ず魔力を帯びて生まれる魔族といえど、全員がその魔力を強くできるわけでは決してありません。確かに人間などという、ひ弱な生物に比較すれば、彼ら魔族の生命力や身体的能力は、はるかに強いといえるのかもしれません。
しかし数多の魔族の中にあっては、その魔力量の多寡などによって、それなりに強弱が分類されるのです。その結果、男爵から始まる爵位を得られる『強者』は一部のみ、圧倒的大多数は無爵者と呼ばれ、『弱者』と分類されているのです。
「うーん……。そういう時は、何か一つ、技術を磨くのもありね。簡単に殺されないためには、自分しかできないことを見つければいいわ。強者だって、一人でなんでもできるわけではないからね」
「技術、かぁ。お父さんみたいに庭を整えたり、お母さんみたいにお料理をしたりっていう?」
「そうね」
姉妹の父母も、多数の例に漏れず無爵者でした。
両親は、とある伯爵様のお城に勤めていた時に出会い、結婚して独立し、世界に七名しかいない大公閣下の領地の片隅で、一軒家を構えていたのです。
無爵者ではあるものの、庭師の技能を持つ父と、料理の技能を持つ母は、今でもその手業をそれなりに重宝され、あちこちのお城にかり出されて仕事をしたりして、姉妹を養っていたのでした。
「そういう技能を修得するための、何か特殊魔術でもあればいいんだけどね」
母は編み物に戻ります。
二人だけで出かけることの多い姉妹のため、母は娘たちの小さな手が万一にでも凍えてしまわないよう、姉には薄紅梅の、妹には葦葉色の、それぞれの髪色を映した、揃いのデザインの手袋を編んでくれているのでした。
ほかの生物に比べれば、魔族は確かに寒暖差に強いのですが、その感じ方も魔力の強弱によって違うとされています。無爵者でも氷点下に裸で放り出されたからといって、人間のようにすぐさま凍死するということはありませんが、それでも冬の寒さは多少、堪えるものがあるのです。
「でも、お母さんだって別にお料理の魔術があるわけじゃないんだよね?」
「ええ、ないわね。お母さんもお父さんも……あ、でも気をつけてちょうだいよ、ニラリヤ」
母は再び編み物の手を止め、気遣わしげに姉の瞳をのぞき込みます。
「そんな風に、外では簡単に特殊魔術の話をしないでね。相手の特殊魔術を聞いたり、自分の特殊魔術のことを話したりというのは、禁忌に近いものだからね。下手をすると、殺されてしまうこともあるんだからね」
「うん、わかってる」
姉は神妙に頷きました。彼女からすれば、心配なのは妹です。
「きいてる、ナル! とくしゅ魔術の話はしちゃだめなんだよ!」
「……うん、わかった」
頷きはするものの、幼い妹が本当に理解しているのか、姉は不安になりました。
特殊魔術というのは、一部の魔族にあらわれる、その人ならではの特別な能力のことです。それは術式という陣を描けば誰にでも再現が可能な魔術とは違い、その人ならではの能力なのです。
たとえば、怪我や病気――魔族はほとんど病気にはなりませんが――を治すための『医療魔術』は、有名な特殊魔術の一つです。また、とある一族にのみ発現するといわれる『血統隠術』というものもあります。
その能力も、魔術のようになんらかの目に見える効果のあるものから、術者の身体的能力を補足するものまで、種々様々あると言われており、世の中に存在する『特殊魔術』をすべて知ることは、世界を統べている魔王様にだって無理なことなのです。
その能力によっては、魔力の多寡によらず、自身を強力な存在に押し上げてくれるものもあります。
それだけに『特殊魔術』に関する話題は、魔族の中でも非常に繊細な扱いを受けているのでした。
彼女は識っています。妹が、いずれ強者の仲間入りをするであろうことを。別に予知能力があるというわけではありませんが、漠然と、わかるのです。
妹の、周囲の無爵者とは違う振るまいが、そう思わせるからでした。
母の「強くなれば」という言葉に、すんなり納得したのもその片鱗の一つだと、姉には思われました。
自分が強くなれると疑わない心……自分にはないものだからです。
しかし、いずれそうなるであろうといっても、今はただの魔力の弱い子供。だから今の段階で、妹が羽目を外してとんでもない目にあわないか、心配でたまらないのでした。
実際に、半年ほど前、彼女が目をはずした隙に、妹は死に面した危険に出会っています。そのとき特殊魔術が発現したため、危うく生き延びていますが、そうでなければ少なくとも、かなりの重傷を負っていたことでしょう。
妹の特殊魔術は『転身』。彼女が認知したことのある動物に、その姿を変えられるのです。
ある日、気の立った手負いの竜を目の前にした妹は、その鋭い爪に引き裂かれるところでしたが、直前に空を飛んでいた隼を目撃していたため、それに変化して、危機を免れたのでした。
一見、便利な能力のようですが、姉からすれば、転身できるのが単なる『動物』であるところが不安の種です。せめてもっと力ある魔獣にでも身を転じることができたなら、安心していられたでしょうに。
けれど妹にはそんな気がかりは一つもないようで、かの能力が発現して以降、楽しげにいろんな動物に変化するのでした。
「そうそう。今度、新しい魔王城ができたでしょう? そこに、魔術の練習ができる〈修練所〉というものができているんですって。子供に向けた施設もあるらしいから、今度、行ってみる?」
「いってみたい!」
妹は瞳をキラキラ輝かせます。
姉も、強くなれればそれにこしたことはないと思っているので、積極的に頷きました。
「お父さんが帰ったら、相談してみましょうね」
父は少し向こうの男爵邸の庭を整えに、朝早く出かけていったきり、帰るのは明日の予定でした。
「お父さんがかえってきたら、明日、いけるかなぁ!?」
妹はずいぶん乗り気です。
「どうかしら。魔王城は遠いし、明日は無理かもしれないわね。それにお父さんが疲れていたら、休ませてあげましょうね」
「うん、そうだね……」
妹は頷きながらも、少しがっかりした風です。
「さあ、もう遅いわ。ふたりとも、寝なさい」
母は姉妹にそう宣言すると、また編み物に没頭し始めました。
「ナル、おへや行こう。お休みなさい、母さん」
「うん。かぁか、おやすみなさい」
姉妹は母の頬に口づけをし、姉が食卓から小さな燭台を一つもって、そろって階段をあがっていきました。
一家の家は小さな一軒家ですから、お城のようにいくつも部屋があるわけではありません。二階にも、両親の部屋と姉妹の部屋の二部屋が、あるきりでした。
姉妹の部屋には共同で使っている素朴な木の机と二脚の椅子が一揃い、小さな衣装棚がそれぞれに一棹ずつ、二段ベッドが一台、そうしてそのベッドの下に、宝物などが入ったお道具箱が一箱ずつ、大事にしまってあるきりです。
姉は燭台を机の上に置き、下段の寝具に潜り込みました。
「ナル、もう、火を消してもいい?」
妹が上段で横になったのを感じ、問いかけます。
少し離れた机上の火を魔術で消すのは、姉の役割でした。
「ねぇね。明日、とぉと、つれていってくれるかな?」
「どうだろう。つれていってくれるといいね」
姉は火を消します。
「明日はだめでも、明後日はいけるかな?」
「ナルテラ、いっておくけど、そのしゅうれん所? にいっても、転身はしたらだめだからね!」
「え? どうして?」
ほら、やっぱりわかっていない、と姉はため息をつきます。
「母さんのお話、きいてなかったの? とくしゅ魔術は使っちゃだめなんだって!」
「はなしちゃだめとはいってたけど……」
「それって、使ってもだめってことだよ! いつも言われてるんだから、わかるでしょ?」
「……わかった」
「ホントにわかってる?」
「わかってる!」
妹はすねたように叫んで、それきり姉が声をかけてももう応えませんでした。
静かな部屋で少しの間、姉妹はそれぞれに思いをはせていましたが、そう間をおかず、二人ともあどけない寝息をたてはじめたのでした。