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兆し


 私は高校生になった。母は現在もパートとスナックを掛け持ちし、周囲の悪口を家中にまき散らしながらも私の学費を稼いでくれている。私もバイトを始め、少しずつだけど家にお金も入れるようにした。母は少し老けて、悪口に加えて「ここが痛い」「あそこが痛い」ともこぼすようにもなった。私はそれに空返事をしたり、お母さんの機嫌を損なわずにスルーする術を身につけた。そしてこの頃から「こうはなりたくないな」と思うようになった。人の悪口でストレスを発散することは醜いと、母という反面教師が教えてくれていた。


 バイトをしながら、野球部にマネージャーとして入部することに決めた。中学ではバドミントンをやっていたけど正直面白くなかったし、レギュラー争いでギスギスした思い出があり運動部にはうんざりしてしまった。その点マネージャーなら競争はないし、自分のように気を配れる人間には向いていると思った。

その年は私のほかに4人がマネージャーとして入部した。




 ここで私は、一人の同級生と出会う。そしてこの同級生との出会いが、私の運命を大きく変えることになった。




「先生呼んでくるから、ここで待ってて」

 入部初日、先輩にそう言われて新入生はみんな空き教室で待機していた。私含めて全員が緊張しており、誰も口を開かない。

そんな時間が数分続いた後、私の隣から深呼吸が聞こえてきた。何だろう、と見ると、深呼吸をした子は胸に手を当てて更にもう一度深呼吸をした。そして一人前に出て、もう一度深呼吸をしてからようやく口を開いた。

「初めまして、B組の小野寺沙優です。よろしゅくお願いします」

意を決し沈黙を破り、そして噛んだのは沙優という子だった。沙優は噛んだことで顔を真っ赤にした。

あはは、と皆の笑い声が空き教室に響いた。

 しかし沙優のおかげで、皆和やかな雰囲気になった。お互い自己紹介をして、自分のクラスや共通の知り合いの話をして打ち解け始めた。この子たちとなら上手くやっていけそう、と思えた。




 これが私の運命を変えた、沙優との出会いだった。

 沙優はいつも私たちの中心にいた。

 最初の深呼吸から真面目そうな印象のあった沙優は、その印象通りとても真面目な子だった。マネージャーの仕事には熱心に取り組み、他の人が聞くだけの中でメモを取って必死に先輩の話を聞き、分からないことは積極的に質問していた。彼女の凄いところは、嫌味なところが全くなく、他人に何かを押し付けたりすることのない、柔軟な真面目さを持ち合わせていたことだった。優しく、控えめに笑う彼女からは育ちの良さを感じた。

 そして沙優は可愛かった。他の女子が校則で禁止されている化粧をしている中、沙優は全く化粧をしていなかった。それでも、沙優が一番可愛いと、少なくとも私はそう思っていたし、男子からの評判もそうだったと思う。

 そんな好かれる要素しかない沙優は同級生だけでなく、先輩や先生ともあっという間に仲良くなった。




 入部して一か月ほど経つと、学校にもマネージャーの仕事にも慣れてきて若干の余裕が生まれ始めた。先輩とも緊張せず話せるようになり、少しずつだけど、作業中の雑談も生まれ始める。そんな雑談で、先輩マネージャーの中に野球部員と付き合っている人が多数いることを知った。中には野球部や坊主が好きで付き合いたくて入部したという下心丸出しの先輩もいたほどだ。だけどその先輩の目論見は成功しており、彼氏と下校している時の彼女はとても幸せそうな表情を浮かべていた。やはり近い位置にいるとそれだけ付き合える確率が上がるということだろう。

 私はこれまでそういうことにはあまり縁がなかったけど、高校生になって少しずつ興味も湧いてきた。もしかしたら自分も、なんて淡い期待を抱き始めていた。

 同級生もみんな同じような期待を抱き始めたのか、夏前には「誰がかっこいいか」という話をよくするようになった。

「橋田先輩、かっこいいよね」

 そんな会話で、三年生の橋田先輩はいつも挙がった。うちのエースピッチャーで、顔もかっこよく優しい。練習や試合の時は真剣で誰も話しかけられないようなプレッシャーを放っているけど、部活が終わった瞬間スイッチが切り替わるように人懐っこい笑顔を見せる。そのギャップが女子ウケしているらしい。先輩たちの情報によると彼女もいないようで、野球部だけでなく、学校内でも断トツの人気を誇っていた。その日も、皆が遠巻きに橋田先輩の練習を見つめていた。

「やっぱりかっこいいよね」

「プロとかなるのかな」

「そこまでじゃないんじゃない? うちそんなに強くないみたいだし」

 同級生たちがそう話しているのを、私はジッと聞いていた。こういう経験がない分、上手く会話に入ることができなかった。

「もう、みんな見惚れてないで働いてよ~」

 井戸端会議に興じて手が止まっていた私たちに沙優から声が飛び、みんな「はーい」と言って仕事に戻った。決して嫌そうにではない。沙優になら言われてもいいという雰囲気ができつつあった。

沙優もこういう話の輪には入らなかった。沙優は可愛いけど箱入り娘のような垢抜けない感じもあるし、もしかしたら私と同じように恋愛したことがないのかもしれない。そう考え、勝手に沙優に親近感を覚えた。


「え、里香ちゃん橋田先輩と話したの!?」

「うん……」

「えー! すご!!」

 同級生に話すと、思った以上に驚かれてこっちも驚いてしまった。

 それは本当に偶然のことだった。私がスポドリの用意をしている時に、たまたま橋田先輩のスポドリが切れたから。たまたま、私が一番近くにいたから。それだけのことだった。

『スポドリ替えてもらっていい?』

『は、はい』

 という本当にそれだけの、業務的な内容だった。

「それでもすごいよ。橋田先輩って二年生の先輩ともあんまり話してないのに!」

「そうだよ! 三年生の先輩も狙ってていつも橋田先輩の近くにいるからね。ラッキーでも中々ないよ!」

 最初は何でもないだろうと思っていたけど、皆が私の想像以上に騒ぎ立てるので何だか嬉しい気持ちになった。高嶺の花のような存在の橋田先輩と唯一話した一年生マネージャー。そんな小さな肩書だけど、初めて他人より優れた何かを手に入れられたような気がした。もっとも、私もそれだけで「私のこと好きなのかな」なんて自惚れはしない。宝くじに当たったような気持ちになっただけだった。そしてその話はすぐに終わった。

 段々と気温が上がり、春が終わろうとしていた。


 甲子園の予選が近づくと部員たちの中にもピリピリとした空気が漂い始めた。三年生にとっては最後の大会だし無理もない。しかしその緊張は部全体を覆い、マネージャーにも伝播してくる。先輩の中には露骨に機嫌が悪くなる人、自分が不調なときにマネージャーに八つ当たりする人もいた。そんな中で、私もミスをしないよう細心の注意を払って働いていた。

 しかしある日、ボールを握り損ねて橋田先輩の足元へ転がしてしまった。橋田先輩は気づかず投球モーションに入る。踏んで怪我でもしたらただでは済まない。まずい! そう思ったのだけど、ボールは間一髪、先輩の足を避けて転がってくれた。

助かった。とホッとしたのも束の間、私は慌ててボールを取りに行った。以前、別の先輩の足元にボールを転がした一年生のマネージャーは監督と先輩にきつく怒られていたのだ。そのことを思い出して、もう拾った流れで土下座をしようかというくらい低姿勢で転がっているボールの下へ向かった。

「すみません!!」

 橋田先輩の顔を見ることができず、地面を見ながら拾う。

「おい! 危ないだろ気を付けろ!」

 まず監督の声がした。私は「すみません!」と監督の方を向いて謝った。そしてそのまま橋田先輩にもう一度謝ろうと恐る恐るその表情を伺った。

 橋田先輩の表情はこわばっていた。でもそれは、いつもの練習中の、集中している時の先輩の顔だった。そして、私と目が合うとそのキリッと結ばれた口元が穏やかに緩み、「気を付けろよ」と優しく声をかけてくれた。

「……あ、ありがとうございます」

 怒鳴られることも覚悟していた私は驚き、一瞬フリーズしてしまった。そしてすぐに練習の邪魔になるとその場から退散した。その後沙優からは「大丈夫?」と心配され、先輩マネージャーからは「気を付けなー」と軽い注意を受けたが、私の頭の中は橋田先輩のあの優しそうな表情でいっぱいだった。

 これもたまたま、橋田先輩の機嫌が良かったからかもしれない。でも、私はドリンクの件と今回のミスへの優しい対応で、橋田先輩が自分のことを好きなのでは? と思わずにはいられなかった。他の下級生とは話さない先輩が唯一私とだけ話したこと。そして危険なミスも責めずに優しく対応してくれたこと。これまでそういうことに縁がなかった私は(逆に言えば男に対して免疫がないともいえる)、それだけのことで「先輩は私のことが好きなのだ」と確信を持った。



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