第9話
いやもう死んだ。
今度こそ死んだ。
今死ぬ。もう死ぬ。とにかく死ぬぞと。
それとは別にタヌキが心外。たしかに丸顔ではあるけども。
(そっちは四角い………牛のくせに!)
飛び出たぎょろ目に大きすぎる鼻。朱色の角。その巨躯は鱗でぎらぎら。口端からは焔が洩れる。身のたけ丈余の一大鬼だ。
「なぁああにをしてくれたクソクソクソクソ! クソたぬきの分際でぇえ!」
「た…ッ」
と、どやされながらも口角がじわじわ歪んだのはよろしくなかった。
(へんなかお)
「だれがブサメンじゃ小娘ぇええ!!!」
「い、言ってない!」
思うだけでもアカンのかいと吐きそうになった、その矢先、
「げっ」
と大鬼が跳んで下がった。かと思えばガタガタ上下に震えだした。目玉が転がり落ちそうな勢いだ。それがこちらを指差して、
「あ…あ、あ、が」
えっ、と思わず振り返った。
だれも居ない。
音もない。
一瞬だが湯気が見えた。身の回りがぼやっと霞んだ。が、すぐ消えた。代わりにべしゃっと、濡れ手ぬぐいを振るったような音が聞こえた。
変な気がした。
嫌な気配だ。
よせばいいのに恐る恐る目線を戻せば、一面どろどろの血の海だった。
そのど真んには鬼の頭だ。半分に断ち割られて浮いている。もう半分は見当たらない。まわりに散るのは五段に切れた胴やら何やら。ビチビチくねり踊って落ち着かない。どうやら死んでもイキがよい。
(うぇっ、きもっ)
と竦むそばから蟻がぞろぞろ群がり始めた。
よくよく見れば、鬼の骨肉または毛髪の束が絡み合ったものたちだ。互いに互いを貪っている。つかんで千切ってむくむく育つ。一団の血塊が出来上がる。そこから手足がズドンと突き出る。のっそり立ち上がればもとの大鬼。何事もなかったかのように眼前にそびえて鬼嘯一声―――かと思いきや、
「かっ、返せ小娘。返さんか」
「えっ、なに、なにが???」
「あたま。それそれ。それ、わしの。たのむから返してくれい」
はっ? と目をやった次には、ぎゃあっと投げた。
そのはずがどうしたことか、指ひとつ動かせない。鬼の頭半分をガッツリつかんで棒立ちだ。金縛りに似た感覚だが何か妙だ。動こうにもすでにぼんやり。蜘蛛の巣にとらわれた羽虫も同然。全身汁にされて啜られる。そんな恐怖の毒が回って縛めがいよいよキツくなる。それでもどうにか逃れようと、背骨をきしませたのが合図だった。
バチバチッ!
と炭火が爆ぜて赤く散った。そんなように胸が飛び出た。
たちまち全身に亀裂が走った。その隙間という隙間から煙があがった。ぼろぼろと灰が崩れた。中からぱちりと星がのぞいた。
(お…たまじゃくし???)
それっぽい丸い頭だ。つるんとしている。純氷のように澄みきった漆黒だ。
しかし半分足りない。思うように動けない。ゴロゴロまごまごしていたところに、真っ白な彗星が墜落してきた。
―――まてまて、どれどれ。
(あっ)
と半分開いた自分の口から、
「さて」
という声が出た。別人だった。というか、おぶけさまそのひとのものだった。
ひゃっと我に返った。
大鬼の目線にげっと思った。
ちがうちがうと、わたしが言ったけどわたしの声ではありませんよと力んだ加減で、ぶひっと派手に放屁した。
(ぎゃっ、ちがっ、違うし!)
わたしだけどわたしじゃないからと下っ腹をおさえたところを、んふっと笑われてムカッときた。
「さすがに失礼千万ではございませんか!」
「わっ、わしはなにも。とりあえずその頭返さんかい」
「うわ、きっしょ! 臭ッ! お顔ちゃんとあらってますか!」
「って失礼千万な小娘がががタヌキ汁にしてやらいでかーッ!」
「まあ、よせよせ」
とは、例の声。舌がべらべら勝手に回る。
「獄は破れた。おぬしの負けよ」
幕引き幕引きと、カラカラ言った。いや、言わされた。
(なにもーやだやだ!)
と当惑するこちらは置いてけぼりだ。それとは別に、イキイキと振る舞う自分の身体が化け物のようで怖すぎた。その一方で、腹に据えかねるものもある。
これがお遊びというなら笑えない。傀儡子の木偶人形であるまいに、他人様の身体を好き勝手にしていいワケあるか。
たとえ命の恩人だろうがこの仕打ちは勘弁ならない。あれは上っ面こそ大人の体で化かされかけたが、そろそろ理解。真面でない。すくなくとも自分の知る大人と全然ちがう。思い返せば、あのいい加減に開けた着物はどういうつもりか。大胸筋がどうかしたか。イライラする。ちゃんとしてくださいと大分しっかり叱ってやりたい。首をくっつけてもらった手前で言うのも何だが、ああいうふざけたヒトデナシのロクデナシに甘い顔をしたが最後、いい気になってつけ上がるのだ。
(次に会ったら…お覚悟なさいませ!)
まずは顔面に拳骨だ。あんなビンタひとつではおさまらない。ついでに身だしなみもビシッと調えてやりたいぞ、と。
そんな間にも、身体はいよいよ勝手にぶらぶらしている。大鬼の頭半分を摘まんで叩く。ぷぅと息を吹き入れる。お手玉にしてぽんぽん打つ。その都度に黒い血飛沫がぱっぱと散る様、地獄のくす玉が割れるようだ。ちょん切れた大鬼の胴はといえば、あっちで裏返ってジタバタしている。
(うわ、酷)
これではどちらが鬼かわからないと、同情する自分の水底から響きが湧いた。
―――おやさしい、な。
(う、あっ………―――――)
「―――異存あるか」
「いやいや、まさか」
大鬼の胴がぴょんっと起きた。が、すぐに用心深げに腰を落とした。ひそひそ言った。
「まさかの…兄者?」
「兄者はよせよせ」
「ああその声、その言い草、その何とも彼ともヤな感じ! 兄者のハナクソにちがいないわい!」
「ごきげんよう」
「これがゴキゲンであってたまるか。頭半分返せ。弟分を刺身にしてへらへらふらふら。一体なにをお考えじゃ」
「ところでよ」
「ねえ聞いてよ。そんであたま返してくだされ」
「なんで?」
「なんで?!?!」
「痛くない痛くない」
「バチクソ痛いわあああこのハナクソ兄者! 我が積年の怨み辛み、今ここで晴らさでおくべきカァアッ!」
と唾をまき散らして訴えるには、
「ひとつ! 天日干しで二百年かな、生皮ひん剥かれて野晒しの件。ふたつ! ブツ切りでコトコト釜茹での件。火山に叩ッ込まれて四百年ぞ!」
「憐れな」
「兄者が言うな!!!」
「おい」
「へっ!」
「御役目ご苦労」
「あいや、待った」
大鬼は手のひらで遮った。急に胡乱げな気色になった。半分の鼻をすんすん鳴らして、
「まことに…まことの兄者かえ?」
「ほーお、おぬしでも疑うか」
「いやいや、わしでなくとも疑いたくなる。まさかアレで生きておられたとは、些かも信じ難いわい」
「………」
「ねえ聞いてらっしゃるッ?! どこ見てらっしゃるッ?!」
「変わらんな。おぬしというやつは煮ても焼いても」
「そういう兄者はえらくお変わりあそばされたな」
「そうかな」
「そうとも。暫くぶりとはいえ、こうもチュンと萎んでしまわれるとは情けない。天下のハナサカ様の名が泣くわ。おまけに可愛げない。口は悪い。殊更に目つきがいやらしい」
「目つきはオレだ」
「ま、まあ、その、なんじゃ。とっ、とにかく失礼千万な小娘とはどういうワケじゃい!」
「………」
「はれ、お笑いになるか。お珍しい。さてはご趣味か。いやご病気か。兄者ともあろう御方が、わしゃ心底見損ないそう!」
「そいつは結構」
「替身でござるか」
「いや」
「では、分身?」
「あああ。まあまあ」
「そらきた、それそれ。のらりくらりと」
「ぼやくか」
「ぼやくわ。何せそれで毎度々々の貧乏クジではござらんか。嘆かわしい。お悪い癖が直っとらんわい」
「なにが言いたい」
「わしはな、兄者、貧乏クジは御免こうむる」
「オレはおもしろいのが好きなだけよ」
「わしは嫌じゃな」
げえっぷと大鬼は毒気を吐いた。
「よってそのタヌキめを頂戴したい」
温度が下がった。地に這う影が濃くなった。
「掟がござる」
大鬼は重ねて言った。
「この夜の細道、生化けは何人たりとも通せんわい。兄者とてよくよくお分かりじゃろうが」
「獄は破った」
「御冗談」
「いや、オレは冗談は申さぬぞ」
「では、嘘八百。さすがにさすがよ、こればかりは兄者の仕業と尻が割れるわ。おかしいとは思うておった。小汚いタヌキのやれることでは到底ないわい」
「…」
「お得意のお遊びか、お暇潰しか」
「…」
「だんまりか」
「…」
「なあ兄者よ、たのむ、もうええ加減にしてくだされ。たかがタヌキ一匹ではござらんか。掟を無碍にまでなさる意味がわからん。それともなんじゃ。オレならば何でもやってイイとでも?」
「何でもやったらアカンのか???」
「そう! そうよね! やっぱりね! 兄者ってばそんな感じよ。さすがよね。そんでわしの話なんてちっとも聞いてくれんの。いっつも自分のことばっかり。どうせわしのことなんてどうでもいいのよ。だいきらいよ。どっか行って!」
「…おぬし、さては鬼嫁と喧嘩したな」
「ずっと帰ってくんなって言われた。ああなるともうどうにもならん。わしのなにが悪いんじゃ」
「おぬしの全部がわるいのよ」
「ほっといてくだされ。わしのことなんざどうでもええのよ。そんなことより飽き飽きなんじゃい」
「なにがよ」
「兄者のお遊びでアホをみるのが!」
「なにを申すか。これからこれから」
「いやあああああああああああああ」
と大鬼は青くなったり赤くなったり。
積年の怨み辛み+αがどどっと溢れてギャースとブチ切れ。天めがけて首をのばすと、ガバリと薄雲を呑み込んだ。
「その手は食わん!」
べっと血反吐。
じゅくじゅくと大地が腐った。影がひろがり海となった。ざわざわと波立つのは無数の腕だ。その上を鬼火が揺らめく。青や緑とちらちら嗤う。
魑魅魍魎、三障四魔の大恐慌が始まった。
「兄者―――いや、ハナサカ様よ」
ビシャッと雷光。
射照らされて現れるのは巨大な一個の岩山だ。恐慌の海を眼下に、さらに膨れて天を負った。
「ここはどうでもお通しできぬ。それが掟。これが我が役。退かぬとあらば」
「どうでもやるかね」
「やらいでか」
「なら、おぬしの土俵に立ってやろう」
「へっ、えらそうに。いつもの御身ならいざ知らず、そんなザマで何が御出来じゃ。タヌキ諸とも煮凝りにして進ぜるわい」
「いや」
とでも言うように、ハナサカは首をふった。
鬼の頭半分をぽいっと投げた。
ふっと息して、上を向いて、
「かれーらいす」
「そら兄者が食いたいもんじゃろ」
「ちーずけーき」
「言いたいことしか言っとらんじゃろ」
「まあやるか」
どうでもやるというのならと、まるで野良仕事にでも出る調子。ふらっと半身を引いて言ったのだった。
「おぬしの方こそ、吐いた唾を飲むでないぞ」
水に滲むむように微笑した。