表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハナサカ  作者: 水也空
8/9

第8話

 おやおやおや。

 そう聞こえた。

 ぱちっと(まばた)き。

 ふっと、頬に風を感じた。水は退いた。唄は沈んだ。木漏れ日が辺りを点々と白くしていた。

 その上を鯨雲(くじらぐも)がゆったり泳ぐ。まどろみの海の王ように、ちいさな虹を冠に戴いて。


 サアァァァアッ………


 と、目線を下げれば白い雨。

 下から上へ、表から裏へ。

 降りてまた湧き上がれば、足もとがずぶずぶとぬかるんだ。

 否、自分がぬらりと溶けだしたのだ。黒い汚泥だ。腐乱した魚のような臭いがたちこめる。(たちま)ちどろどろ。それをずずずっと汁でも(すす)るようにして呑まれてしまった。

 そこは川底か。

 もっと深い海の底か。

 ゴボゴボとまとわりつくようなのは泡だろうか。あるいは自分か。精霊と言われればそうかもしれない。浮き沈みもせず離れもしない。ちかちかと点滅して微笑むようだ。こっちだよと手招くようだ。

 ぼうっと青白い灯が浮き上がる。

 三味線の()が鳴りひびく。

 幾つもの影が立つ。ずらずら並んで唄えや踊れ。手をひらひら舞わせながら、足をどんどん踏み鳴らしながら、赤い橋をずいずい渡る。こっちへ向かってやって来る。長い舌だ。白い腕だ。あの夜の細道が()って来る。


 ―――やしゃで やのしゃで

    やのしゃで やしゃで―――


 (なに…なんなの)


 耳を塞いだ。

 目も閉じた。

 口は(つぐ)んだ。

 貝になって泥をかぶった。


 (どうしてどうしてどうしてどうして)


 どうして自分がこんな目に()うのか。

 なんの因果だ。もうさっぱりわからない。ただ大人の言いつけをきいただけだ。ふつうのことだ。それを死ぬ思いでがんばった。そうまでしていい子にした自分の何がわるい。何が罪だ。どういう罰だ。ほんのちょっとくらい浮かばれたいのに、どうにもこうにも報われない。

 幸せになりたいとまで思っていない。そんな大それた願いは願えない。叶わなかったときの落胆、塵積もって絶望のほうが魔よりもおそろしく呪わしい。ついに母は来てくれないのだ。それなら始めから願わない。ひたすら言いつけを守って、いつか只死ぬ。それをじっと待ちわびる。神仏に御赦しを請うように。

 だからもういい。もうなにも願わないから、ほっといてほしいのだ。しずかに貝になってこうしていたい。それすら叶わないというなら自分で自分を呪うしか能がなくなる。体中の血が濁って膿になる。(こら)えたところでいずれ爆発。裏返れば真っ黒な厭魅(ヒトデナシ)。そうなるまえに粉微塵にして祓い清めたいと、これまた呪う。半死半生、延々この無間地獄を輪廻する。


 「それくらいなら」


 と、そこに手が差し向けられた。

 思わず取った。

 負っかぶさるように背中から声がした。


 ―――つぎはおねえちゃんの晩。


 「ひっ…!」

 「どうしたんだい」


 と、取ったままの手が言った。


 「わるい夢でも見たのかい」

 「…あ…か、母さ…………」

 「おかしな子だね」


 口調も姿もたしかに母だ。

 うそだろう。

 いや、まさか。


 「まあいいよ」


 手を引いて母は言った。


 「いっしょにおいで。そんなところで、捨て犬みたいにふるえてないでさ」


 (ちが…、ちがう)


 「もう辛抱しなくていいんだよ」


 あきれたように母はわらった。


 「おまえはもう…本当に(こら)え性でいけないねえ。誰のためだか知らないけどさ、もうおよし。もういいのさ。たくさんだろう」

 「…」

 「さ、ほら、シャキッとしな。これから母さんと逃げるんだよ。あんな(クソ)ともこんな貧乏暮らしとも金輪際(こんりんざい)おさらばするよ」

 「弟は…。ねえ、あの子はどこ」

 「いいから」

 「あの子はどこ。無事なの。どうなの。どうなったの。あの子はどこなの」

 「あの子じゃわかんないね」

 「あの子はどこ!!!」


 カッと母の手を振り払った。

 「もういいじゃないか」と母は言った。


 「こんな地獄、なにがいいのさ。いつまでそうやってるつもりだい。じめじめメソメソ。やめときな。おまえのためだよ。母さんは全部おまえのために言っ」

 「ちがう!」

 「なに」

 「ちがうちがうちがうちがう!」

 「なんだってんだい」

 「あんたなんて母さんじゃない!」

 「はああっ?」


 つかまえようとする母を突き飛ばして言った。


 「母さんはわたしなんてどうでもいい!」


 ()()()()()()なんか一生知らない。それが母さんだと、ずっと前からわかっていたこと。


 「わたしと逃げるなんて絶対しない。クソは(あいつ)じゃない、わたしの方。どうせ(あいつ)とうまいことやるんだ。うそばっかり。だけどもういい。あんたなんてもう知らない!」

 「このっ、もっぺん言ってみな!」

 「知らない!」

 「この恩知らずの裏切り者! おまえには感謝ってもんがない。どうしようもない鬼畜生だよ!」

 「生んで育ててやったって? それがこうだよ。ざまぁみろ!」

 「母さんを捨てるってのかい」

 「知らない!」

 「捨てるってんだね」

 「知らない!!!」

 「いいさそれでも。とっとと立ちな。ほら行くんだよ!」

 「いやだ!!!」

 「へえ~そうかい。そうなんだね。それで本当に後悔しないね?」


 (後悔するに決まってる…ッ)


 本当に本当はいっしょに逃げたい。一目散に手と手をとって。やさしくしてもらえるなら何だってしてみせたい。こっちを見てもらえるなら地獄も極楽。鬼畜生にだってなってやるのだ。これが後悔しないはずがない。


 (ばかだ、わたし)


 いつもこうだ。ずっとこうだ。

 こうしたら「しなきゃよかった」。ああしたら「別のがよかった」。できなかったら「どうせ自分は」。今この時は「母さんごめんなさい捨てないで」。

 一体なんだ。どうかしている。

 (さが)(やまい)か。(たち)(ごう)か。

 絶望をわざわざ探して首からつっこむ。あろうことかそれで悦に入るというから奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)。誰得でもない自己陶酔だ。これが莫迦(ばか)でなくてなんだというのだ。我ながらクソみたいな気分でグラグラするが、これからもガタガタふるえながらこんな調子だ。そういそいそとは変われない。

 これが自分だ。どうしようもない。わかってしまうのもどうしようもない。これでこの母の娘をやってきたのだ。母が()()()()()()()かくらいはわかってしまう。ひどい話だ。望んでいたはずの言葉を、眼差しを、神の慈悲のように差し向けられて脱力するほどガックリくるとは、まさかこの瞬間(とき)までわからなかった。わかったところで涙がもう止まりやしない。


 「金輪際(こんりんざい)おさらばだよ!」


 言ってやった。してやった。

 はげしい痛みでなにもかも張り裂けてしまいそうだったが、そこで首がぐるんっと大回転した。頬を思い切りはたかれていたらしい。はずみで、


 ズルリ………


 と、かぶっていた笠が落ちかけた。

 首までグラリ。いやな方へと傾いたのにはギクリとした。

 咄嗟(とっさ)に押さえた。血が下がった。

 惜しかったねえと辺りがざわざわしたのもほんの束の間。


 「グゥぅォぉお…お…ぉ…オ…のっっっ!!!!!」

 「!」

 「くそタヌキめがあァぁあアァあぁああ!!!!!」


 ごっと風がうなった。吹き飛ぶかと思った。実際、浮いた。

 金棒のような腕で喉首をつかまれて足がぶらぶら。笠はぐらぐら。ぶんぶん振り回された挙句、地にびたびた打ちまくられて放られた。

 ドーンッと落雷。

 それがまだ聞こえるか。

 よくもまあ死なないものだと目を虚ろにさ迷わせれば、見えた母の姿は真っ赤っ赤。だらりと垂れた舌は地にまで届く。長い髪からは黒煙(くろけむり)。皮膚はズル剥け。その下から鱗がのぞく。それがむくむくと達磨(だるま)のように膨らんだ。直後、


 バツッ…!


 と炸裂。

 ばらばらと粉炭(こなずみ)が降って積もった。


 「か…母さ」

 「あほタヌキいいいいいッ!!!」


 ひどいがなり声がとどろいた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ