だから、人は見かけによらないって言ったでしょ!
●月1日
――人は見かけによらないって言ってるでしょ?
この台詞を、私は一体人生の中で何回心の中で叫んだかわからない。
「ああ、なんて美しい。聖女がこんなに美しいだなんて知らなかったよ……。いいや、あなたは聖女なんかじゃない、僕にとっての女神だ……!」
目の前では王子様が、私の手をぎゅっと握って跪いている。「本当に美しい、神秘的な黒髪だ……ああ、僕の春……」 陶酔している、そうとしか言いようのない雰囲気。私はひくり、と口元がひきつりそうなのを必死で耐えた。なんせ、このわけのわからない現状を理解しなければならないのだから。耐えて把握すべきだ、と覚悟して口を引き結ぶと、何を勘違いしたのか王子様はさらに感動に潤ませて私の手に頬ずりをした。おいおいおい。
王子様の周囲には家臣らしき男の人や、綺麗なドレスを着た女の子もいる。みんな一様に、「聖女の召喚に成功した」とか、「これで他国を牽制できる。我が国に永遠の春が来る」と、好き勝手にわけのわからないことを言っている。ここはどこなんだろう、と思うと同時に、ここは私の場所ではない、と心のどこかが囁いていた。立っている場所が、感覚が、何もかもが違う。
さらさらと流れるような風の中で、柔らかい何かを見た。ふふりとこちらを見て微笑んでいるように思えたけれど、さらに王子がはっとして立ち上がり、私の手をひっぱったので、その“何か”もぱちりと弾けるように消えてしまった……。
「僕の春! 僕の女神! 美しい君よ、名前を教えてくれ。そしてようこそ、シャドリア王国へ! ニホンコクからの使者である君を、僕らは歓迎しよう! どうか末永くこの国に骨を埋めてくれたまえ!」
「ほ、ほねを、うずめる……?」
ただ私は家から学校に向かっている最中だった。鞄を持って、いつも通りのバスに乗って。そのはずなのに、気づいたらこの場所に立っていた。疑問の声を呟く私に対して、王子様(そう、他の人から呼ばれていた)は、当たり前だとばかりににっこり笑う。よく整った顔つきだが、能面のようにのっぺりした笑顔だな、と感じた。
「もちろんだ。聖女として召喚された君は、一生をこの国に捧げるのだから!」
「……え?」
***
人って、相手のことがわかっているようで全然わかっていない。そう思ったのはいつの頃だろう。
どうやら私は人様よりもとても顔が整っていて、(父、母に感謝)、声も可愛らしくって、見かけよりも幼く見えるからか、「理華子ちゃんは本当に可愛いね、お姫様みたいだね」と近所の人にもクラスメートにも言われて生きてきた。これはまあ、別にいい。私が可愛いことは事実だから。けど納得いかないのが、「理華子ちゃんは怒ることなんてあるの?」という質問。これまた同い年にも大人にも言われて問われてきた内容で、この質問を受ける度に私は思う。
菩薩かよ。
人のこと菩薩か何かかと思ってんのかよ。もちろん怒るときには怒っとるわ、ブチギレだわ。にこにこ笑っとるだけで心の中はブッチブチのブチだわ。
なんてこともお口の中でこっそり潜めてにこにこ笑っていれば驚きのアルカイックスマイル。意味は間違っているかもしれない。けれどもニュアンスさえ伝わればそれでよし。頭の中は誰よりも体育会系、筋肉は裏切らないが心の中のテーマだというのに、人は私をお姫様と呼ぶ。アホかね。そして今度は聖女とした。大馬鹿かね。
心の中ではぼこぼこ、ぼこすかに叫んでいるけれど、それをわざわざ言葉にするつもりはない。だってそんなの損じゃん。わざわざ自分からマイナス要素をさらけ出す必要なんてどこにもない。だから私の見かけからお金持ちのおっとりしたお嬢様だとか、可愛く真面目な委員長だとか、みんな勝手に想像して、勘違いする。
だから子どもの頃から思っていた。
「人は見かけによらないって言うでしょ!」って。
このふわふわお嬢様ちっくな外見で中身まで勘違いされることも多々。それもまあ、よろしい。けど今は大問題だ。なんせ私は、聖女としてお城の中で崇められている。
「ああ……リカコ。君は今日も美しい……」
金髪王子がすりすりと私の手に頬ずりする度にぞわりとしたが、もちろん文句は言わない。いや、言っている場合でないことくらい理解できる。なんせ、ここは日本ではないのだ。異世界転移だとかわけもわからない技術で誘拐されてしまった現在、なんとか向こうに話を合わせるしかない、とただの女子高生である私は最高に頭の中を回転させた。そして色々と聞きだした。「君は聖女としてこの国に召喚され」「聖女には特殊な力がありそれがあれば他国に負けることがなく」「だからニホンに戻ることはできない。君は一生この国で★※?⇒/●◯▼$#★!!」
最後はもう聞く価値がないと判断した。
この誘拐犯がどれだけ本当のことを言っているのかわからないから信用なんてできないけれど、少なくとも私を元の世界に返す気がないということは理解したからだ。
「&%#&◯→&●リカコ◎!!!」
すると不思議なもので、スイッチがぱちんと切れたように、世界の言葉が切り替わった。誰が、何を言っているのかわからないし、多分あっちも私の言葉がわからない。唯一最初の方に教えてしまった私の名前だけを伝えてくるのが不快だったけれど、衣食住は重要だ。向こうが何を言っても、適当にニッコリ笑ってごまかす。すると、相手は満足してお姫様のように持ち上げてくる。
「リカコ、リカコ、&“”=>。_&♥」
まるで文字化けした世界だ。お城の中で綺麗な服を着て、部屋の中から満足に出ることもできないままときどきお城の中の回廊を王子と一緒に歩く。すると私と同じくらいに綺麗なドレスを着た金髪の巻き髪の女の子が、じろりとこちらを睨んでいた。そういえば最初にこの世界に来たときも、あの女の子がいたっけかな。
「リカコ! リカコ♥ &&$$♥ ♥###“!!」
やばい、と気づいたのは多分一ヶ月くらい経ってから。「リカコ♥♥♥♥!!!」 王子様は、どうやら私をお嫁さんにしようとしているらしい。信じられない。衣食住は重要だ。それは本当に間違いないけれど、人としての尊厳だって大重要だ! 私は逃亡することにした。誰も彼も、私がまさかスカートを翻して屋根の上をつたって逃亡するなど想像だにしていなかったらしく、なんとか城門までやってきたのがほぼほぼ深夜。ぜえはあ肩で息を繰り返して地面に着地したとき、同時に私の足元に向かって何かがどすんと投げ捨てられた。
そして女の子が、私のことを虫か何かを見るような、蔑むような目でこっちを見ていた。それは何度もお城の中ですれ違ったドレスを着た金髪くるくるの女の子だった。
投げられた茶色いズタ袋の中を覗いてみると、汚い服と、それからちょっとのお金と、宝石らしきものが入っていた。女の子は金切り声で何かを叫ぶ。そんな大きな声で話したら、お城の兵士の人に聞かれちゃうんじゃないかな? と思ったけれど、誰も来ない。なるほど、私が逃亡しても誰にも見咎められなかった理由がやっとわかった。この女の子が手を回したんじゃないかな。
薄々、女の子は王子様の婚約者とか、そんな立場に当たるのだろうな、ということは気づいていた。だから彼女は怒っていて、この金をやるから、さっさと王子の前から消え失せろ。そんな感じのことを言っているのだろう。
彼女と、私の立場は理解できた。そして、彼女が、こんな顔をしている理由も。眦を吊り上げ、顔に青筋を立ててぎょろっとこっちを睨んで。「&AAAAHHHAAAAAA!!!!!!!」 ――この、泥棒猫!
なんで、こんなときに限って言ってることがはっきりわかるんだろうね。
とりあえず、私はすたこらさっさと逃げた。これがだいたい一週間前のこと。
●月8日
「リカ、☆、#。リカ?」
「……イグナ?」
ぱっちり、と私は幌馬車の中で目を覚ました。ぱこぱこと馬の蹄が地面を蹴る音と、轍がからから回る音が気持ちよく響いていた。それから金髪の男の人が、こっちに向かって何かを話しかけている。「◎●▼」 相変わらずスイッチを切ってからと言うもの、誰が何を言っているかわからないけれど、そろそろ街につく、というニュアンスなような気がした。イグナは商人(多分)で、街と街を行商している。その途中で、私は彼に拾われた。
お城から逃げて、それだけでなんとかやっていけるだなんてもちろん思ってはいなかった。ありったけの食料を盗み、王子の婚約者からお金も受け取った(投げ捨てられた?)私だけれど、それでなんとかできたのは王都(お城を中心にしてできていた街だから、多分そう)を抜け出すまでで、もちろん途中で野垂れ死んだ。いや、死んでないからめちゃくちゃ野垂れた。そして通り過ぎたイグナに助けてもらった、というわけだ。
「リカ。&%“★●……●◎?」
「うん、うん」
わかんないけど、適当に頷いてたらだいたいなんとかなる。気がする。
ちなみに私の名前はリカコだけど、名前をそのまま名乗るほど警戒心は薄くない。と、いいつつも多分これは名前を聞かれているな、と思ったとき普通に名乗ってしまって、いやこれはよくないぞと気づいたときにはほぼ大半伝えてた。だからせめてリカで止めた、という悲しい有様である。果たして偽名の概念とは。
そんな風に私が呆けてしまった理由は最初にイグナを見たとき、王子様が追いかけてきたのかと思ったからだ。いや、イグナと私の手をすりすりしていた王子様は似ても似つかないから、見間違えたという意味ではなくて、それだけイグナがきらきらと整っていて、物語の中から飛び出してきたみたいな、そんな容貌だったからだ。いっそのこと、イグナを王子様の代わりにすげ替えていいくらい。
きらきら、さらさらの金髪の行商人というのはちょっと違和感があったけど、外見で仕事が決まるわけではない。そういうこともあるかもしれないけど、イケメンすぎる商人がいたって別にいいだろう、と思い直したものの、私は疑いに疑いを深めて、絶対に騙されねーぞこら! と思いながらもにっこり聖女スマイルを作った。おら。可愛いぞ。油断しろこら。おらおら。
命綱である宝石もろもろが入った袋は抱きしめたまま、絶対にこいつのことはいいように使ってやるぜ、でも駄目だったらいざとなったら全力で逃げるぜ、と思っていたはずが、なんの問題もなく街まで運んでくれることになり、拍子抜けをせざるを得ない。しかし、ちょっとラッキー。でもまったく信用なんてしてないからな。
●月10日
この間街についた、と思ったのに全然だった。途中地点で村に寄っただけだった。許せん。騙しやがった。私が勝手にそう思っただけだけど。村についたとき、イグナは私に何か布を投げつけてきた。見ると、頭に巻くものらしい。あったかくてよきかな。なんにせよ人がいればこっちのもんだ。ここまでありがとうな! それじゃあグッバイ、あばよ! とすればいいじゃないと思うけれど、村の中じゃ私の黒髪はちょっと目立つし(この世界に黒髪は少ないようだ)木を隠すなら森の中、というわけでまだまだイグナを利用することにする。目指すは私がいてもわからないくらいに人が多い場所。街だ!
「●▼%」
それにしてもイグナは静かな話し方をする。王子様とは大違いだ。やっぱりこっちの方が王子っぽい。村から出発して馬車の隣に座ってちらりと盗み見ていると目が合った。ばれた、と思ったらにこりと目を細められた。なんなんだよ。私の金はわたさねーぞ。
◯月1日
「リカ。●◎?」
この●◎、という意味はよく聞かれるので、なんとなく覚えてしまった。多分、「大丈夫か?」とかそんなところ。お尻が痛かったり、お腹が減ったりしたタイミングで聞かれることが多い。最近、これを言われる度に、貴様、なんでわかった! とちょっとびっくりする。私に言葉が通じないことは理解しているはずなのに、イグナはいつもこうして律儀に問いかけてくる。本日、お腹が減ったタイミングで大きな葉っぱに包まれたチーズをもらってしまった。焚き火の中に葉っぱを放り込んで、一緒にチーズを焼くと香ばしくってとろりと美味しい。美味。うまし。なんて言っている場合じゃない。
私はイグナにタダメシをもらいすぎである。だいたい、いいように使ってやるとタクシー代わりにするつもりだったけれど、タクシーだって利用するには代金がいる。最初はぼろぼろすぎて体を休めることに必死だったけど(実はイグナに出会った頃、私はちょっと怪我もしていた)そろそろ元気だし、せめて労働力になるべきなのでは。それは当たり前として、今まで世話になった分の対価くらい渡すべきである。村では宿にも泊まったし。別の部屋だったけど。待った、私の分のお金も払ってもらってるじゃん。
くうー! と唸った。そして、いつも抱きしめているズタ袋の中から、ごそごそお金を取り出した。ぶるぶる必死に腕を伸ばして、う、う、う、うけとれぇ! と虎の子を差し出す気分で渡してみた。イグナはきょとんとしてそれからしばらくして爆笑した。王子様より王子様みたい、と思っていたのに、こういう笑い方は庶民的だ。それから目尻の涙を拭って片手を振った。いらんいらん、と言いたいことはすごくわかった。なんだよこのやろ。
◯月14日
街についた! 結構大きい。
ところで、私はまだイグナといる。イグナは馬車に積んでいた商品を売ったり、また仕入れたりと忙しそうだ。多分、この街には長くいるようだ。イグナは探しものをしているらしく、よく街の広場やお店の掲示板を確認していた。探しものはいつも見つからないらしく、不思議とほっとしているような気がした。
そして私もすっかり手持ち無沙汰になってしまったために、せっかくだ。イグナを手伝うと伝えてみたものの、問題ないとでも言いたげにすげなく断られてしまったので、私もちょっとしたバイトを見つけた。飲食店で作った料理を運んだり、掃除したりするバイトだ。指をさされた場所の指示に従ってするので、言葉が通じなくても案外なんとかなってる。
そして私が未だにイグナと一緒にいる理由だけど、相変わらずこの世界の人は何を言っているかわからないのでバイバイ、今までありがとう、という基本的な単語をどう伝えたらいいのかわからないのだ。「&#▼リカ」 ほらわかんない。宿は一緒の部屋をとっているけど(経費削減のため)それで何があるわけじゃないというのはわかりきっていることである。だってずっと幌馬車で旅してたし……いうなればあれだって一室だよ、一室。 「リカ。●◎?」 ほんとにわからん、わからんわー言葉。いや待て、さっきのはわかったぞ。心配すんなばか。宿代くらい受け取ればか。働きに出ているからいつまでもズタ袋を抱きしめているわけにはいかないのでイグナに宝石を渡そうとしたところ、さらに爆笑された。笑うなばか。
◯月16日
バイトのお給金はとりあえず貯めているけど(イグナは相変わらず受け取ってくれない。たまに、ご飯を買っていったらそれは美味しそうに食べてくれる)、たまには他に使ってもいいんじゃない? ということで、筆記用具を買ってみた。ノートはもとの世界のものを持ってたからね。こういうのさー、書いてみたらさー、言葉とかわかるようになるんじゃない? 勉強になる? どうかなー、必要かなー、言葉。なくても意外となんとかなってるからなー。
でも。
この世界にきて、どれくらい経っているかとか。そういうことの確認はいるかも。うん。いるな。覚えているかぎりのことを書き出していこう。というわけで、これは私の日記です。へへ、誰が読むわけじゃないのに、こんなこと書くの恥ずかしいね。イグナ! 覗くな! いや文字わかんないだろうけど!
◯月30日
「ンヘテッ減腹?」
最近、日記をつけた成果が出始めたかもしれない。
何か、イグナが言っていることがわかるような気がする。なんとなく。あれ? 違う? と思うけど。お腹へってる? って聞かれた? と思って、わかった、それわかるぞ、と力いっぱい頷いたら爆笑された。それから食堂に引っ張っていかれて、好きにくえ、って言うみたいにぱしんと背中を叩かれた。いやめちゃくちゃ空腹ちゃんとかそういうわけやないんやよ。ないんやよ?
「イマウ?」
でも出されたものは美味しく食べるよ、とぱくぱくしてたら、イグナがこっちを頬杖をついて目を細めて見ていた。なんだかちょっと恥ずかしくなった。
▼月1日
この世界にきて、どれくらい経ったんだろう。わかるけどね、だいたいなら。きっと季節が二つ変わるくらい。
もしかして、やっぱり私帰れないのかなぁ、そうなのかなぁ、と真っ暗な空を見上げた。
「リカ、アナエマオ……」
呆れたような声が下から聞こえた。部屋の窓が開いたのだ。そう、私は宿の屋根の上にのぼって体育座りをしていた。お城から逃亡したことがあるくらいだから、これくらい朝飯前だ。はあ、とイグナはため息をついていた。さすがにこれはだめだったな、と降りようとしたとき、ひらりと機敏な動きで、私よりもあっという間にイグナはやってきて、すとん隣に座った。多分、こんなところで危ない、と怒られている。でも一緒にいてくれる。
なぜだか少し、楽しくなった。けたけた笑った。夜だから、もちろん声は抑え気味で。
見上げた夜空はぽつぽつと星が輝いて、ぽろりとこぼれていた。と、思ったらこぼれたのは私の涙だった。悲しくて、悲しくて泣いていた。えぐえぐ声を出した。私はイグナの言葉をなんとなくしかわからない。それはイグナだって同じで、彼は私のことは何も知らない。体育座りで、自分の体を必死にぎゅっと抱きしめて、泣いた。
イグナはちょっとだけ眉を寄せて私を見ていた。少しだけ奇妙な間があって、すぐに私の頭をぐいっと押して自分の肩に寄せた。私はイグナの肩を濡らした。イグナは、多分私よりも一歳か、二歳か上で、同じ高校生くらいなんだろうな、と思っていたのに、こんなときはすごく安心するなと思った。そう思うと、いつの間にか、お互いぽつぽつと何かを話していた。
「●◎イナクテモガ俺、ラナリカ」
「ねえイグナ、私、帰れないらしいよ……」
「ナヤ目駄モデマツイ」
「そのことが、すごく悲しい。でも、もっと悲しいこともある」
「イナクタレ別、モデ」
「イグナが、何を言っているか知りたい。一緒にいたい」
「カンヘウ来ニショッイト俺。ヤキ好」
「わかんない、わかんないよ。イグナが何を言ってるのか、わかんないことが辛い」
こんなに話しているのに、お互いなんて空回りなんだろう。話しても、話しても伝わらない。それでも、イグナと一緒にいたかった。でも私は、こことは違う異世界から来たのだ。そのことは忘れちゃいけないことで、本当の名前だって伝えていない。それなのにこれ以上、彼に迷惑をかけていいんだろうか。いいわけない。言葉も名前もわからないのに、一緒にいていいわけない。ぐるぐると気持ちが堂々巡りで、どうしようもなかった。本当に、どうしようもない。
(……イグナの言葉を知りたい)
ぽとり、と最後の涙が頬を伝った。
彼が何を言っているか知りたい。
一緒にいたいのに。
――本当に、知りたい?
誰かに、尋ねられたような気がした。
私はイグナと別れることにした。イグナはもう、次の街に行く。旅をする彼についていくのは足手まといで、これ以上邪魔をしたくなくて、申し訳なくて、今までのお礼としてできる限りのお金を渡そうとしたのに、受け取ってもくれなかった。イグナが何を言っているのか、やっぱり半分もわからないけど、バイト先の人たちによくしてもらっていることを知ると、ほっとしているように見えた。その様子を見ていると面倒見のいい青年は、のたれそうになっている人間を見捨てることができなかったんだろうなと改めて感じた。
ずっと邪魔をし続けて、悪いことをしたなと思うのに彼がいてくれてよかった、とも思う。イグナがいなければ、私はどうなっていたかわからない。
お別れの時間が近づいていく。あとはもう、街の門の前で手を振って、さようならをするだけ。手を振ったらわかるかな。さようならの方法がわからないから別れない、なんていうのはただの言い訳で、一人になるのが怖かっただけだ。でも今は、一人になることよりもイグナの邪魔をすることの方が怖い。
お別れすれば、もう出会うことはないだろう。そう考えると胸の中がぎゅっとして、痛くて痛くてたまらなかった。今すぐに、勝手に口が開いてしまいそうだ。行かないで。行かないで、ねぇ、行かないで! そう言いたい。自分で決めたのに! こぼれそうな涙はすんでのところで下を向いて呑み込んだ。
「ラタッヤイラクク泣、デンナ」
それから、顔を上げたとき、心配そうに私を見るイグナと、ぱちりと目が合った。
彼の言葉は、わからない。
わからない。……ほんとうに?
――この世界にきたとき、最初は言葉を知っていたのに。
『本当に、この世界の言葉を聞きたい?』
優しい声の問いかけに背中を押されるように「イグナ!」と手を伸ばそうとしたとき、馬の手綱を握りしめていたはずのイグナがはっとして翻るようにやってきて、私をぎゅっと抱きしめた。「え、あ、あの、えっ」 な、何があったの、と目を白黒したとき、唐突に爆風に吹き飛ばされた。「きゃああ!」 私はイグナに抱きしめられて無事だった。馬も、上手く馬車がクッションのようになったようで大丈夫だ。
「い、イグナ、ひっ……!」 でも、私に覆いかぶさっていたイグナは頭から血を流していて、ぐったりとしている。頭だけじゃない。爆風の中で彼は色んなところを怪我していて、私の服がイグナの血で汚れていく。なんで、と思った。でもすぐにわかった。王子様だ。
イグナじゃない、私をこの世界に呼んだ彼<王子様>が、たくさんの軍勢を引き連れて私を迎えに来た……!
「い、イザベル! 馬鹿者! リカコに当たったらどうするのだ、今度こそ逃さないようにせねばならぬのに……!」
「逃さないように? 殿下! お待ち下さい、わたくしとの約束はきちんと守ってくださいますのよね? わたくしとまた婚約を結んでくださるというから、あの泥棒猫に渡した宝石の探知を行いましたのに……!」
イザベル、というのが、私のことを虫を見るような目で見ていた女の子なのだろう。大勢の兵士を引き連れ、馬に乗った彼らはきんきんと高い声でいがみ合っていて今までわからなかった言葉が、するりと頭の中に入ってくる。そうする度に、信じられないほどの怒りが胸の中でほとばしった。私を捕まえるためだけに、この人たちはやってきた。それも、利用するためだけに。
『この世界の言葉を聞きたくないと願ったあなたの願いを、私は聞き遂げました』
そう言って、私の頬をするりと優しく撫でるのは柔らかい風をまとった緑色の長い髪のお姉さんだ。きっと、この世界に初めてやってきたときも私の周囲にいた人。『どうぞ、私のことはシルフとお呼びください』 聖女に付き従うために生まれた、あなたの力となる精霊ですわ、と彼女はにこりと笑う。
そうか、王子様は最初、聖女は他国への牽制になる。そう言っていた。
「力なんていらない……」
世界のことを知りたくなくて、耳を塞いだ。「けど、あの人達を、今すぐ私の前から消して、やっつけて!」『了解いたしました』
ふわり、と微笑んだその表情と、その背中の光景はどうにも一致しない。王子様達の軍勢は風の中をごうごうと悲鳴とともに巻き上がった。誰かに死んでほしいわけではないと願った私の心を汲み取ってくれたのか、誰も怪我をすることはなかったが、彼らが持っていた武器や、魔術の糧となる道具はすべてぐしゃぐしゃに潰れ、ただ風の中をさまよっていた。『ふきとべ』と、柔らかな言葉で願ったとき、彼らの全ては消えた。どうなったのかと驚くと、『城に戻しただけですわ』とにっこりと彼女は微笑む。
『もちろん……城のどこ、というところはわかりかねますが。屋根の上でも、肥溜めの中でも』
それは果たしてもちろんなのか。
全員が消えた、と思っていたけれどどうやら一人だけ取り残されている。もちろん、王子様だ。
「り、リカ……め、女神のようなお前ならば、す、すべてただの冗談だよな? わ、私の妻となってくれるのだよな? ああ、すばらしい力を持っていると、見せてくれただけなんだよなあ?」
私は、いつの間にか意識を失ってしまったイグナの治療をシルフにまかせて、ゆっくりと王子様の前に進む。そして、にこり、といつもの笑みを落とした。がくがくと足を震わせていた王子様はほっと頬を緩ませたが、「ハァ?」 私の冷えた声と続いた言葉を聞いて、ぴたりと表情を固めた。
「あんたの妻になる? 誰か望んでそんなもんになるか! なるわけないでしょ! 言っとくけどね、いっつもいっつもすりすりしてきてきもかったのよ! この勘違いチン&%●✕!!!!」
――最後の言葉は、異世界の禁止用語にひっかかって、翻訳されなかった可能性はあるけれど。
それでも、王子は真っ白になって私を見上げた。そしてへたへたとその場に崩れ落ちた。
***
とても大きな騒ぎを起こしてしまった。
こうなった以上、お世話になった人たちには申し訳ないけれど逃げるが勝ちだ。というわけで、ぐったりするイグナを馬車に乗せ、私は馬を走らせた。スムーズな走行はイグナと旅をしている間に覚えた……というわけではまったくなく、シルフが補助をしてくれた結果だ。どうやら、シルフ以外にも聖女となれば精霊に助けてもらえるらしく、魔力を差し出せばだいたいみんな協力してくれる。美味しいご飯にでもなった気分である。馬車と一緒に、たくさんの動物たちと一緒に私は走り去って逃げた。
ちちちち……と、鳥がぱさりと木々の枝から飛び立つ音が聞こえた。もう随分街から離れたと兎たちに確認して、私は草木の中でほっと座り込んだ。馬は、たくさん走ってもらったからありがとうと伝えて今は草を食んでお食事中だ。
「……ん」
「イグナ!? 起きた!?」
膝の上で抱きしめるように寝かせていたイグナの長いまつげが、ぱさりと動いた。本当に、さながら物語の中の王子様みたいだ。と何度だって考えてしまう。とても、恥ずかしいことに。イグナの怪我はシルフが治してくれたけれど、流れた血は戻らないらしい。夢現でぼんやりとしていた彼は、先程までの光景を覚えているのだろうか。
――いや、そもそも。私は、イグナと意思疎通ができるのだろうか?
私を追いかけてきた王子達の言葉が理解できた、ということは、きっとイグナの言葉もわかるはず。ずっと現実から目をそらしていた私は目の代わりに言葉を塞いでいた。でも伝えなければいけない。
私が異世界から来たということ、そして妙な力を持っていることを。
唐突に、怖くなった。喉の奥がぎゅっとした。
「あ、あの、イグナ……わ、わたし」
「リカ……?」
きっとイグナも驚いている。イグナにも私の言葉は聞こえるようになっているはずだ。ぱちりと目を見開いて、私の膝の上で目だけきょろきょろして、それから目の前を見て、ごくり、と唾を呑み込んだ。そして。
「なんやねん、これ」
そう、なんやねん、これ。
…………。
なんやねんこれ?
「あー、まった、覚えとる。あいつは知っとる顔や、この国の第一王子やんか」
「王子やんか」
「頭いった……くはないな。怪我、治っとる。あの姉ちゃんか……シルフいうとったな」
「シルフいうとったな」
「いやさっきからなんやねん」
「なんやねんんんんん!!! いやそれはこっちのセリフで! ど、どうして、関西弁!?」
きらきら王子様の風貌はどこへやら。流暢な(?)関西弁を操りつつ、膝枕をされつつイグナはぽりぽりと自分の頭をひっかいた。「関西弁……? って、なんのことや」 そう、関西圏なんてここには存在しない。
「か、関西弁っていうのは、その! ええっと、私の国でいう、一部の地域で使われる方言、というか……? そ、それがなんで? なぜイグナが??」
「方言? ああ。俺、この辺の生まれやないからたしかに訛っとるかもしれへんな。シルフって精霊の姉ちゃんが翻訳してくれとるんやろ。夢現やったけど、ちゃんと聞いとったで」
うまいことなってんなぁ、と納得しているイグナだが、何度聞いてもやっぱりおかしい。そもそも私は関西に行ったことはほぼなくて、関西弁なんてテレビで聞くくらいだ。このとき、空気を読んだシルフが一瞬だけしゅるりと私の耳に囁いた。『翻訳の都合で、主様が知っている言語が入り混じっておりますよ』 なるほど。私が知っている似非関西弁が、翻訳の都合上でイグナの話す言葉になってしまったってことね。なんでや!
「なんっ、なんなんなん」
「なんやなんや。どないしたんや」
「どういうこと!」
「どういうことと言われてもな」
「だ、だってだって! わ、私のきらきら王子様は、どこに行ったの!?」
「いやほんまにどないしたん?」
ほんとにそれ。
混乱しすぎて妙なことを言ってしまった。
「じゃ、なくて! き、聞いたって言ってたけど、わ、私、その、本当は、せ、聖女で! べ、別の世界から来て」
「そんなん最初から知っとるわ」
「さ、最初から!?」
思わず声が裏返ってしまった私に対して、イグナは口の奥で笑みを噛み殺すみたいな、小さな子どもに呆れたみたいな声を出すような。そんな声で、「逃げた聖女は、珍しい黒髪の乙女やってことは、王都で知らんやつはおらんやろ。王都から離れた街まで、どこまで噂が流れとるのか不安やったけどな」「く、黒髪……」
そこで思い出すのが、最初の街で防寒具をくれたこと。珍しいみたいな髪も隠れてラッキー、程度にしか思っていなかったのに、まさかそっちが本命だったなんて。街に来てからというもの、イグナは頻繁に掲示板を確認していた。もしかして、あれも国から手配書が回っていないか確認していたのだろうか……?
「名前も、ほんまはリカコなんやろ?」と追加で伝えられた言葉で私は撃沈した。
「じゃ、じゃあ、なんで」
最初から、わかっていたはずなのに。こんな風に誰かに追いかけられるような、面倒で、関わらない方がいい人間なのだと。
うーん、とイグナは瞳をつむりながらうなった。それから、ぱちっと瞳を開いた。真っ青な瞳だ。「可愛かったからやん?」「か……」「それにおっぱいもおおきかったしなあ」「お、」 じっとイグナは何か見上げて、満足そうな顔をしていた。視線の先は言わずもがな。
私は思わず空を仰ぎ見た。「……私の、好きだった王子様が、どんどんと崩れていく……」 ぐらぐらと。がらがらと。もうだめだ。
もう駄目だ、と呟き続ける私に対して、「何を言うとんのや」とむっとした顔のイグナはよっこいせと起き上がり、いつの間にか反対に押し倒されていた。冷たい葉っぱの感触が、身体中に当たる。顔の横には大きなイグナの手が置かれている。壁ドン、ならぬ、地面ドン。そんなのあるのか、と思わず体を固く、丸くしてしまったときだった。
「リカ。俺は、なんも最初から変わらへん。最初にリカに会ったときから、今の今まで、全部、同じや。……なあ、言葉が通じるようになったら、話してへんかったときと違うって、そんなんなるんか?」
イグナの影の中に入り、ぎゅっと両手の拳を握ったまま、びっくりして彼を見た。
それから、考えた。
ゆっくりと、落ち着いて区切る話し方。ささやくみたいな低い声。
リカと私を呼ぶときの笑い方。
「……おなじ」
「やろ? それよりな、なんや、好きやったって。過去形なんか」
「えっ、そ、そんなこと、私言った!?」
「アホなんか。しっかりはっきり言うとったわ。俺はな、リカ、お前に振られたと思っとったんやで? 一緒に来うへんかって、誘ったのに断られたんや。ショックでショックで、もうどうにかなるとこやったわ。俺にとったら一世一代の告白やったんや。それが、それがやで。なんやねん」
彼について行かなかった理由は、自分がイグナの足手まといになると思ったからだ。異世界から来ただなんて信じてもらえるとは思わなかったし、いつかこんな風に邪魔になると思った。現に、彼には怪我をさせてしまった。考えると悲しくなってどんどん視界がにじんでいく。「アホ、なんで泣くんや」 もう怪我は治った。そうわかっているのに、苦しかった。服を必死でつかんで、口元を噛み締めた。「泣くなや、俺のこと、好きなんやろ。もうそれでええねん。好きって言えや」 息を吐き出して、口を開こうとしても嗚咽混じりの声だった。イグナの背中を抱きしめると、イグナも私を抱きしめていた。
「わ、私、見かけと中身が、ぜんぜん、ち、違ってて!」
「確かに屋根に上るお転婆な顔はしてへんな。でも言葉がわからんかった分、わかりやすかったで。俺に金を渡そうとしたときがあったやろ。そんときの顔は見ものやったわ。まあ、唇噛んでぶるぶるしてなぁ」
「だって、あのお金がないと死んじゃうかもって思ってたから! しょうがないじゃん、せめてお金がない、と、い、生きていけないと思ったんだよ! 一人だから! それに、い、イグナは、わ、私が、か、可愛いから、た、助けただけなんでしょ」
「助けた理由は重要やろ。しゃあないやん。でも、好きになる子はそんなんじゃ選ばへんよ。こんなん言うんはお前やからや。リカやからやんか」
ぼろぼろと、涙がこぼれていく。
「い、イグナのことが、好き……。ず、ずっと一緒にいたい、い、行かないで! 一緒に、連れて行って!」
「よう、言えた」
ぽんぽん、と頭を撫でられながら。
俺もや、と小さな声が聞こえた。
それから。
私とイグナは二人で旅をするようになった。私に仕事を手伝わせまいとした理由は、いつか別れるのなら自分のためになることをしてほしいと思っていたからで、結局彼だってずっと別れを意識していた。それでも、一緒にいたいと言ってくれた。
「そういや、聞いたで。シャドリア国の話や。第一王子が聖女を召喚したはいいものの、失敗して逃げられたって話は、もう市井にまで広がっとってごまかされへんらしいな。責任をとらされて次期国王になるのは第二王子になるって噂や。聖女を怒らせた第一王子には、いつか天罰が下るとも言われとったわ」
「天罰は知らないけど……シルフならたしかに嫌がらせはしそうかなあ。って、あれ? 私が逃げたってことは、最初の時点で王都に広がっていた話なんじゃなかったの?」
「そんときはまだ悪漢にさらわれたって話やったんよ。でもこないだ派手に暴れ回ったやろ? それで逃げたのは聖女の意思ってことがわかったってことやな」
「じゃあ、イグナ、悪漢扱いされるところだったの!?」
「惚れた女のために必死やわ。もっかい惚れてくれてええで」
かたかたと馬車の車輪が回り、舗装されていない道を歩いていく。まったく、と笑ってしまう。すでに私達は国境を越えて、別の国についていた。ぽかぽかして温かいなあ、とぼんやりしていると、イグナは少しかがんで横に顔を落として、ちょん、とキスをした。思わず耳を熱くしながらじろっと見ると、彼は馬の手綱をぱしりと叩きながらひょうひょうと前を見ている。
「……私、もうイグナがどこかの国の王子様とか、そんなんでももう驚かないよ」
「せやで。幼い頃に行方不明になった王子様や。着の身着のまま飛び出して、今やベテランの商人になったんよ」
外見と中身が一致しなさすぎて何があっても驚かない、といった意味で伝えたはずが、まさかの肯定で流されてしまった。
本当だろうか? とねめあげると、「あっはっは!」とイグナは楽しそうに笑った。やっぱり、彼のことはわからない。
――私の王子様は見かけだけはきらきらしていて、口を開いたらちょっとお調子者で、それでもやっぱり優しくて。
彼と出会ったばかりの私に対して、どうか私は言ってやりたい。人は見かけによらないって、あなた、何度もそう考えてたでしょ! って。
「……何か、自分自身に突き刺さる言葉になっちゃったっていうか」
「なんのことや?」
「私達、お互い見かけと中身が全然違うよねって話!」
「ええやん。わかりにくいぶん、俺はお前だけよーく見とるわ」
な? と首を傾げられて、なんだか恥ずかしくなった。でも結局、「そうだね!」と真っ赤な顔をして思いっきり肯定してしまった。しょうがない、大好きなんだから。それから本日二回目のキスは、素直に受け入れることにした。
からからと聞こえる車輪の音は、どこまでも続いていく。明るい空の下を、ずっとずっと。
――これからも、どこまでも。
◯月30日からのイグナの言葉は、逆さから読んでくださいね。
読んでくださってありがとうございました!