三話 【物語の始まり】
――眩しい。
目が開いた。
強い日差しが彼の紫紺の瞳に刺さる。
目を細め、手腕で目を覆う。
体についた泥の感触を肌が感じた。
「泥...?」
乾いた、でも体にこびりついている泥。
随分前に雨が降って固まったようだ。
だが、彼、リノの記憶では最後に見た空模様はよかったはずだ。
それを思い出すと同時に、ローブの人物が頭をよぎる。
仲間たちを殺した、あの一人の男。
――そうだ、あいつは。
草に埋もれた体は血はついているものの、傷一つなかった。
騎士団の制服には乾いた血がついている。
背中は刃物のような物が刺さった跡もなく、ただその部分だけ服が破れている。
体が震える。
――怖い。
恐怖が彼を襲う。
痛みが蘇るように、全身を駆け巡る。
だが、背中を触ってみても傷はない。
不思議な、感覚だ。
血だらけだったはずの足を使って無理矢理立ち上がり、周りを見渡す。
魔獣の気配はしない。
鳥の鳴き声がし、風によって木々が騒いだ。
やはり、ここはもとからリノのいた森、『大規模魔獣討伐』を行った『東ガトラの森』だ。
少しの、希望を持った。
自分が生きているのだから、きっと。
皆で火を囲み、食事をしたあのテントの中にきっと、と。
賑やかな皆の声が蘇ってくる。
穏やかな笑みが溢れた。
見覚えのあるテントが木々の隙間から見えると、リノは更に足を早めた。
少し息を切らしたので木に片手をよりかけ、もう片手を膝につけて俯き、息を整えた。
十数秒してから、顔を上げた。
「みん、な――」
目前には、腐食された仲間の死体がゴロゴロと転がっていた。
眼球が乾いているモノ、体の一部が無いモノ、体が離れてしまっているモノ、蛆が湧いているモノ、蝿が集っているモノ――。
ドクン、ドクンと脳が心臓の音に支配されていく。
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そこからはあまり覚えていない。
ただただふらつきながら、本能のままに足を進ませた。
テント周辺に落ちていたローブを身に纏い、血のついた服を隠した。
ひたすらに、賑やかな街を気配を殺して重い足を運ぶ。
「団長――」
ただ一人、グレノア騎士団で騎士という称号を与えられたにも関わらず今回の作戦に参加しなかった人物、フレヴ・ライゼンハルグ。
彼は国に代表される四人の騎士団長の一人であり、その実力は確かなものだ。
だからこそ彼は小さな仕事や自分がいなくても片付けられると踏んだ仕事はすべて部下に任せ、国の万が一のときのために国王の宮殿に近い屋敷に待機している。
今までもそうしてきた。
だが、その侮りがこの結果を招いた。
記憶にまかせて足を動かしていると、黄土色の城壁が見えた。
その奥には灰色の煉瓦で作られた屋敷がある。
リノはそれを見ると不意に涙が溢れた。
安心感からか、口がわなわなと震える。
「おい、お前――もしかしてリノか?」
数秒、城壁の前で立ち止まっていたからだろう。
不信感を持った見張りがリノの肩を掴み、自分の方へと向き直させると、見知った顔だということに気付いた。
だが、彼の顔は涙に濡れ、頬には血がついている。
彼は目を見開き、リノの肩を大きく揺さぶった。
「何があったんだよ! 確か今は...そうだ、ゴブリン討伐に行っていたはずだ。そこでなにがあった!」
説明を強く求める目。
当然だろう、作戦に赴いた騎士たちの中には、この見張り騎士の知り合い・友人もいたはずなのだから。
そんな人に、話していいのだろうか。
あの血腥い惨状を。
思い出しただけでも背筋が凍る。
眼球が震え、心臓の音が身体を支配する。
日が暑い。
烏が鼠の骨を砕く音、馬車が蟻を踏み潰す音、包丁で肉を切り裂く音、ヒトの笑い声――。
周りの音という音に神経が集中する。
そんなリノはもう、この目の前にいる人物に状況を説明できるほどの余裕はない。
「団長に...公爵様に会わせてください。」
震える声で、そう口に出すしかできなかった。
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約十分後、客室の戸が勢いよく開き、一人の男が顔を出した。
結い上げた長い白髪にガタイのいい身体。
白色のシャツに騎士団を象徴する『赤の龍』が刺繍された襟に名誉の表れである赤と黒で構成された勲章がついたそれを着ている人物はこの世に一人――フレヴ・ライゼンハルグである。
整った顔を引き攣らせ、彼はリノに近づいた。
そして、リノを見て更に顔を青く塗ったように染めあげ、その場で立ち止まった。
「団長...?」
それを見て心配になったのであろう、リノはフレヴを前に首をかしげ、彼の顔を覗いた。
歯を食いしばり、形のいい眉を潜め、目を細めた彼の表情はまるでなにかを後悔しているかのようだった。
後悔を表した男は、リノの身体を強く、だが優しきぬくもりで彼を包んだ。
「辛かったな、リノ。大丈夫だ、ここでは私がお前を守ってやれる。安心しなさい」
リノにとって、彼は第二の親のような存在だった。
貧困街で親を亡くし、さまよっているときに、温かい食事と居場所を授けてもらった恩人。
それがリノにとっての彼であった。
世界で一番信頼し信用しているその人に、「安心しろ」という言葉をもらったのだ。
抱きしめられた少年は、身体の力が一気に抜け、その場に崩れ落ちた。
同時に、雫が頬を伝う。
それは悲しみによって引き起こされたものとは程遠いものであった。
涙が乾くと、リノはフレヴと対面で座り、話し始めた。
作戦が成功したこと。
その後、ローブを被った奴らに仲間たちを皆殺しにされ、自分も殺されかけたこと。
「――なるほど、そしてそいつらが被っていたローブがそれ、ということか」
「はい」
リノたちを襲ったのが普通の盗賊の可能性は低い。
よくいる盗賊に国を代表する騎士団の一派が簡単に殲滅されることは考えられない。
そして、もう一つ不可解な点がある。
襲撃者たちが被っていたローブだ。
真っ黒な、なめらかな生地でできたそれは、簡単に街で購入できるほどの安物ではない。
ましてや、大量購入できるほどの財力を持ち合わせた賊などそういない。
となると、
「...襲撃者は盗賊などではないと思います」
「それはどういうことだい?」
「このローブは一般人がそう簡単に買うことはできない代物です。触ってみてください」
脱いでソファに置いていたローブを手に取り、身を乗り出して話を聞いていた彼に差し出す。
彼はそれを受け取ると手を滑らせ、顔を歪ませた。
「これは...なるほど確かに平民が手にするには質が良すぎる」
「なので僕はこの襲撃が――」
「貴族に関係がある、と、そう言いたいのか」
「...はい」
間をあけて合意を示すと、溜息を吐いて頭に手を添えた。
当たり前だ。
フレヴ公爵家は王国の中でも貴族階級は高い方だ。
それより階級が高い、または同等な家はフレヴ公爵家と同じく青・黃・白の騎士団を率いる公爵家、王家、そして教会。
「...これは私が預かっておこう」
「ありがとうございます、団長」
「しかし、まだ大きな問題が一つある」
「問題?」
隣に立っていた部下にローブを渡すと、フレヴはリノに向き合い真っ直ぐな瞳で彼を見た。
「君だ、リノ。今回の襲撃は明らかに我が騎士団を狙った行為だ。だが、ただ騎士団を崩壊させたいのであれば私を狙えばよかった。当然、今回の作戦を知っているのだから私が一人屋敷にいるのは襲撃者も分かっていたはずだ。しかし奴らは私を狙わなかった。つまり狙いは団員の可能性が高い。その団員には、君も含まれているんだ」
「俺が、狙われている可能性があると?」
「あくまで可能性の話だけどね...だから、君にはここを去ってもらいたい」
自分が狙われている可能性があるという言葉に続き、「去ってほしい」という発言。
それはリノにとって殺されるかもしれないという最大の危機を前に信頼していた相手に見捨てられるというもの。
親のように慕っていた者からの突然の裏切り宣言。
喪失感が彼を襲う。
「え」という戸惑いの声が口から漏れた。
すると、フレヴは付け加えるように、彼を安心させるように笑う。
「なにも見捨てるとは言っていない。ここにいればいつかまた襲撃者が襲ってくるかもしれない。作戦に参加し、生き残ったのは君一人だ。それを襲撃者たちに知られればまた襲ってくるかもしれない」
紅茶の入ったティーカップに口をつけ、一息置くと、「そこで」と話を続けた。
「リノ、君には旅に出てもらう」
嘘をついているようには見えなかった。
彼は優しい笑みを浮かべながら手を組み、リノを見続ける。
リノは不意に思った。
これがフレヴの望みなのだ、と。
そして、「自分は旅に出なければいけない」という使命感に囚われた。
それがなぜなのか、その時は分からなかった。
そして、これがすべての、物語の始まりだった。