89.緊急事態が起きました
「本当に、申し訳ありませんでした‼」
鬼のような形相の女中頭に頭を下げる二人のメイド。
叱責される少女たちを遠目に見つつ、私とネリは新しい仕事場に向かって階段を上がっていきました。主に一階の清掃を担当していた私たちですが、今日からは二階が担当フロアとなります。
嫌がらせをしていた少女たちに出した条件は二つ。
一つ、壺を割った犯人は自分たちだと名乗り出ること。
二つ、私たちと担当フロアを交換すること。
二つ目の条件を出したとき、
「そんなことでいいの?」
と彼女らは目を丸くしていましたが。
ええ、もちろんです。
この屋敷は三階建て。天井の高い一階には大広間や食堂や礼拝室などがあり、二階は応接間や喫茶室や客室、三階はエメル家の居室が占めています。
つまり階が上がるごとにエメル家との距離が近づき、情報が入ってきやすくなる。
最終目標は三階フロアを担当すること──そしてスキャンダルの確たる証拠をつかむこと。
待っていてくださいね、フィーお嬢様。
などと掃除しながら計画を練っておりますと。
「あなたたち、いいかしら」
先輩メイドに手招きされました。
「はいっ。何でしょうか!」
元気よく返事した直後なぜか盛大に転ぶネリを助け起こし、二人で先輩の前に立ちます。
「これから大事なお客様がいらっしゃるの。悪いけど、下に行って厨房を手伝ってくれない?」
「大事なお客様、ですか?」
「ええ」
そして次の瞬間、
「公爵様がフィーお嬢様に会いにいらっしゃるんですって」
ピシッ。
と、胸の奥が乾いた音を立てるのを聞きました。
……………………………………………………………………………………お兄様が?
いらっしゃる?
ここに?
「公爵様が⁉」
「しぃっ。大きな声を立てないで。もう階下にいらっしゃるかもしれないんだから」
「ももも、申し訳ありません。わ、わかりました。それじゃあ……っ」
わたわたと振り返るネリ。
が、そこに私はいません。
「あれ? ローザ?」
音を立てず敏速に走る体とは正反対に、私の頭は嵐のような思いに支配されていました。
お兄様。
お兄様。
お兄様。
お兄様。
お兄様──!
どどどどど、どど、どうしましょう⁉
この屋敷にこっそり潜入していることだけは、何が何でも絶対に、死んでもバレたくありません!
逃げる? 身を隠す?
いいえ。お兄様はフィーに会いに来た。その目的を確かめなくては。
でも……どうやって?
お兄様に見られたら、たぶん一発で見抜かれてしまいます。
気がつくと立ち止まり、階段の手すりを強く握りしめていました。激しい呼吸に喘ぎながら手すりの隙間を見下ろすと、
「では、ご案内いたします」
侍従長の声。
続いて階段を上がってくる足音。
眼下の踊り場に鮮やかな紅がちらりと映った瞬間、私はぱっと手すりを放しました。
まずい。このままでは──
さっと辺りを見ます。
左右には長い廊下がまっすぐ続いているだけ。
すぐそこに迫ってくる靴音。
とっさに目についた大きな彫像の後ろ、壁との隙間へ体を滑り込ませました。
「大変よいお日和でございますね」
「……ああ」
お兄様の声。
両手で口元を押さえ、限界まで身を縮めて、気づかれないことをひたすら願います。
足音は何事もなく彫像の前を通り過ぎ、すぐそばの応接間へと入っていきました。
……ぷはっ。
息を吐き出し、立ち上がります。頭の中に叩き込んでおいた屋敷の図面を思い出し、建物の反対側に向かって静かに走りました。
応接間と壁を接するのは──
備品の置いてある物置部屋。
鍵がかかっているかと思いましたが、運よく開いていました。誰にも見られていないことを確認し、そっと中に入ります。
部屋にはいくつもの棚が並び、使われていない燭台などの調度品が置かれて布をかけられていました。うっすら埃の漂う薄暗い室内を進んで奥の壁にたどり着くと、ぴたりと身を沿わせて耳を押し当てます。
「………」
何も聞こえない。
もう一度頭の中に見取り図を思い浮かべますが、この壁の向こうが応接間で間違いありません。
「………では………で…待ちくださ……」
聞こえた! 侍従長の声です。
やはりこの向こうがお兄様のいらっしゃる応接間。もうすぐフィーもやって来るはず。
二人がどんな会話をするのか確かめなくては。
そう思い、痛いほど壁に耳を押しつけていたときでした。
「おい」
頭上から声がして、私は背筋が粟立つのを感じました。
「………っ!」
振り返ると、黒々とした長身の人影が立ちはだかっています。
「貴様、こんなところで何をしている?」
低い唸り声。
闇の奥にギラつく狼のような鋭い瞳──
……どうしてあなたがここにいるのでしょう。
カフラーマ連合国王子。
ゼト=アンバー。




