86.喧嘩を売られました
夕食を済ませ、私とネリはそろって居室に引き上げました。
狭い部屋にベッドが二台詰め込まれています。
前世の私も手狭なアパート住まいでしたが、最近は豪奢な貴族生活に慣れていましたので、ちょっぴり懐かしい気持ちがいたします。
「ご、ごめんね、汚くて。すぐ片づけるからっ」
使われていなかったらしいベッドに置いてあった荷物をネリが慌ててどかします。
「こちらこそすみません。せっかくネリが一人で使っていた部屋でしたのに」
「いいのいいの! 寂しかったとこ」
二人とも寝巻に着替え、隣室の先輩メイドに怒られないよう小声でおしゃべりします。
「それにしてもびっくりしたねぇ。昼間の……」
「ゼト様、でしたよね?」
「うん。いきなりローザに掴みかかるなんて」
「私が悪かったんです」
「何もあそこまで怒らなくたっていいのにさ。前からちょっと怖い人だなぁとは思ってたけど……。あ、エメル家の方はみんなすっごくやさしいんだよ。フィーお嬢様は特に!」
「……そうですね」
おやさしいフィーお嬢様。
使用人の名前と顔を暗記し、乱暴者から守ってやり、自ら頭さえ下げる。ネリにとっては女神のような存在でしょう。
ですが、私にとっては──
「公爵様にお嬢様を取られた、と言っていましたけれど」
「う」
ネリがぎくりとします。
「や、やめようよ。その話題」
「でも、気になります」
「お嬢様がダメだって……」
「ネリ」
両手を伸ばし、彼女の手を包みます。
「私、あなたと仲良くなりたい」
「う、うん」
「だから、なんでも包み隠さず話してほしいんです。もちろん他の人に話したりしないと約束します」
「……あ、あたし。あたしもローザと仲良く、したい」
ほんのり頬を赤く染め、ネリがこっくりうなずきました。
「……えっと、ゼト様は……」
「はい」
「フィーお嬢様の…………元許婚なの!」
きゃーと恥ずかしそうに悶えるネリ。
私は静かに微笑みます。
「つまり公爵様と婚約されるまで、フィーお嬢様はゼト様と結婚する予定だった?」
「そう!」
確かに──公爵家に漏れてよい内容ではありませんね。
目の前にその公爵家がいるなんて、夢にも思っていないでしょうけれど。
「きっとエメル家は、ゼト様を通じて帝国と連合国の仲立ちをするつもりなのでしょうね」
「んん。あたし、難しいことはわからない。フィーお嬢様とゼト様はお小さいときから一緒で、許婚というよりは兄妹みたいに育ったらしいし」
「……兄妹」
「でも今回、公爵様とお嬢様が婚約したって話を聞いたとき、あたしは誇らしかったんだ。さすがはうちのお嬢様だ、って。だってフレイムローズ家の公爵様といえば、こう言っちゃ悪いけど、ゼト様よりうんと格上のお相手でしょう? ……でもね。ちょっとだけ寂しい気持ちにもなったんだ」
「寂しい? どうして?」
「もし、もしもだよ。お嬢様とゼト様が結婚したら、この屋敷でカフラーマ人に対する見方が変わるかも……って思ったから」
私は改めてネリの顔を見ました。
色黒の肌。昼間はメイドキャップと髪に隠れてよく見えませんでしたが、耳も少し尖っているようです。
「あなた、カフラーマ人なの?」
「両親は帝国生まれだけど、おばあちゃんが。あたし、おばあちゃん似なの。そのせいで昔からよくからかわれて、この仕事もやっと見つけたんだ」
カフラーマ戦役から三十年。
帝国人のカフラーマ人に対する感情はいまだ複雑なものがあります。
「苦労したのですね」
「たいしたことないよ。それにね。あたし、この屋敷で働けてすっごく幸せ。フィーお嬢様のこと大好きだし」
「私もネリと一緒に働けて幸せです」
「ほんと? う、うれしいなぁっ」
私たちは顔を見合わせて笑い、また少しおしゃべりしてからベッドにもぐり込みました。明日も早起きです。
今頃お兄様はどうされているでしょうか。
布団の中でフレイムローズ邸を思い浮かべます。ミアが私の不在を悟らせないよう動いてくれているので、ご心配はおかけしていない思いますが。
……お兄様。
お兄様、私は。
絶対に……諦めません。
翌日。
「じゃ、昨日教えたとおりにお願いね。あたしは向こうを掃除してくるから」
「わかりました」
廊下と広間の掃除に一人で取り掛かります。
単独行動の機会がやってきました。そろそろネリ以外のメイドや侍従にも探りを入れたいと思っていたところです。
まずはこの仕事を片付けてしまいましょう。そう思い、手早く壁の埃を払っていたときでした。
バシャッ!
音がして振り向くと、扉の近くに置いてあった桶がなぜかひっくり返っています。
「?」
不思議に思いながら近づくと──
ガタンッ!
今度は廊下で物音。
すばやく部屋から顔を出します。
先ほど箒で掃き集めておいた塵芥がぶちまけられ、ご丁寧に別の場所から運んできたらしいゴミまで散乱していました。
そして廊下を走っていく数人の足音と、クスクスという笑い声。
「………………」
腕を組んで廊下の先を見つめます。
ふむ、そうきましたか。
あまり目立ちたくはなかったのですが仕方ありません。
こう見えて、売られた喧嘩は買う主義ですので。




