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42.ご褒美をください




 しばらくの間、お兄様は黙って私を見下ろしていました。

 部屋の明かりを背に受けたその顔は暗く、瞳だけが冷たく光って、いつか見た昔の夢を思い出します。

 ……追い返される。

 そう思いましたが、



「眠れないのか」



 少しかすれた声で言って、お兄様はドアを開けたまま室内に戻っていきました。

 ええと。

 入っても……いいのでしょうか。

 おずおずと部屋に入ります。

 お兄様の執務室。

 入るのはこれが二度目。

 仕事熱心なお兄様のことですから、この時間でも起きていらっしゃると思っていましたが。



「申し訳ありません、お兄様。こんな時間に……その」


「気にするな」



 戸棚からグラスを取り出すお兄様が、ふと溜息のようなものを漏らします。

 執務室にはかすかに甘いお酒の香りが漂っていました。

 大きな執務机の端に飲みかけのグラスが置いてあります。中身は……ブランデーでしょうか。

 グラスへ水をそそごうとするお兄様のそばへ近寄り、私は言いました。



「お兄様。あの」


「ん?」


「私も、お兄様と同じものを……いただけないでしょうか」


「それは」



 言いかけ、黙り込むお兄様。

 ちらりとこちらを見る紅の瞳を、私は真剣に見つめ返します。



「……少しだけならいいだろう」



 諦めたように呟き、ブランデーの瓶を取ってほんの半口分ほど入れてくださいました。

 二人で窓辺に腰掛け、軽くグラスを当てて乾杯します。

 窓の外には無数のバラが狂おしいほど咲き乱れ、月光に照らされた花弁が仄青く輝いています。

 ですが、そんな光景には目もくれず、私はお兄様の横顔だけを見つめていました。



「静かだな」



 ぽつり、とお兄様が呟きます。



「静かですね」



 今夜は風ひとつないのか、何の音も聞こえません。

 あらゆるものが静止して、まるでこの世に私とお兄様しかいないよう。

 本当にそうだったら──

 どんなに幸せでしょう。



「………………フラウ?」



 やっぱり、いやです。

 お兄様。

 私。

 ……いやです。

 手に持ったグラスを口に運び、ぐっと飲み干します。

 芳醇な香り。舌を走る鋭い苦み。喉を通り過ぎていく熱い感覚。

 大きく息をついて、グラスを置き、私は身を乗り出してお兄様の袖をつかみました。



「お兄様、………私」



 言おう。



「私っ……」



 さあ、言ってしまいなさい。

 フラウ=フレイムローズ。

 やっぱり──結婚したくなんか──



「言いそびれていたな」



 口に出す寸前、お兄様が思い出したようにおっしゃいました。



「婚約のこと、よくやってくれた」



 薄く笑うその唇。

 血の滴るような色の双眸。

 いつにも増してぞっとするほど美しいお兄様に気圧されて、私は言葉を呑み込みました。



「これでまた一歩、帝国の支配者に近づくことができる」


「…………お兄、様」



 お兄様。

 聞いてください。

 私。

 私。

 私は。



「お兄様の、お役に、立てていますか……?」



 ようやく絞り出した言葉は、本当に言いたかったこととは別の言葉になっていました。

 ──いえ。

 それもまた、私の本音でした。



「もちろん」


「そ、それでは……」



 お兄様の袖をぎゅっと握りしめ、



「……ご褒美が、ほしい……です」



 消え入りそうな声で呟きます。

 わ、私、何を言っているのでしょう。

 でも、頭がくらくらして──

 熱くて──それに──

 ──泣きそうで。



「ああ」



 お兄様はうなずいて、私の頬に触れました。

 胸にこみ上げるこれは、悲しみでしょうか。

 それとも歓喜でしょうか。

 理解しがたい感情に襲われて震える私を、やさしい腕がそっと抱き寄せて。



「褒美をやろう」



 口づけが、すべてを溶かしました。




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