41.私はとても飢えていました
アシュリーが退出したあと、私たちは何事もなかったように祈りを捧げて食事をはじめました。
私の前に運ばれるのは、病み上がりの体に配慮したメニュー。いわば病人食なのですが、見た目はそれとわからないようになっています。きっと味のほうも工夫されているのでしょう。
ですが、今の私にはそれを味わう余裕がありません。
……六日後。
「姉様」
隣で呟く声がします。
いつもならお兄様を前にして緊張し、あまり口を開かないのですが。
「………結婚、するのですか」
「ええ」
うなずくと、彼はショックを受けたように目を見開きました。
「あなたまでそんな顔をするの?」
スープをひと匙すくいながら、私はため息交じりに言います。
皇太子に嫁ぐことがどれほどの名誉か、わからない年ではないでしょうに。
母を亡くして一年と少し。今度は唯一血のつながった姉が嫁ぐと聞いて、十二歳の少年が寂しさを隠しきれないのは──仕方のないことかもしれませんが。
「それと、今回は婚約です。今すぐ結婚するわけではありませんよ」
「ああ。そう、ですよね……」
視線を落としてうなずくリオン。
正式な婚約後はこの屋敷を出て王宮で暮らすことになるでしょう。しかし、そのことはあえて口にしないでおきます。
私だってうまく呑み込めていないのですから。
こんなにも早く──お兄様と離れ離れになってしまうなんて。
「でも」
急に強ばった声を出し、リオンが私を見ました。
「皇太子殿下は、そのっ……本当に素晴らしいお方なのでしょうね。だって、僕の自慢の姉様が結婚を承諾した方だもの」
そう言ってぎこちなく笑います。
「かっこよくて、頼もしくて。姉様を大事にしてくれて。姉様を世界一幸せにしてくれて……!」
「リオン」
私がたしなめると、リオンが驚いたように黙り込みました。
晩餐会の最中だということを思い出したのでしょう。慌てて私とお兄様の顔を窺います。
「す、すみません。姉様………兄上」
まったく、家長を無視しておしゃべりに夢中になるなんて。
ところが長大なテーブルの向こうにいるお兄様は、ふと顔を上げ、わずかに怪訝な顔をしただけでした。まるで私たちのやり取りにたった今気がついたみたいに。
お兄様がぼんやりしているなんて……?
何か考え事をされていたのでしょうか。
「いや。……そうだな。お前の言う通りだ」
小さくかぶりを振り、手元のグラスを覗き込みながら、
「殿下ならフラウを幸せにしてくださる。私もそう信じているよ」
お兄様は淡々とそうおっしゃいました。
その夜、私はいつまでも寝つけませんでした。
広いベッドのうえで寝返りを打ち、溜息を洩らします。
ユリアスとの婚約は私が望んでいた結果。成果と言ったほうがよいかもしれません。
でも、やっぱり、私は。
……離れたくない。
『あなたと私、どちらがノイン様にふさわしいか』
アイラ=ブラックウィンド。
彼女を思い出すたび、胸の奥をナイフで突かれ、そのままズタズタに切り裂かれるような感覚が走ります。思わず叫びだしたくなるような痛み。
私が王宮に入ってしまったら、一体誰がお兄様を守るのでしょう?
誰がお兄様にたかる虫けらを叩き落とすの?
誰が?
私以外の誰が?
だって、お兄様は──
私だけの、もの、なのに──
「……っ」
がばっと起き上がり、ベッドを抜け出します。ネグリジェのうえにローブを羽織り、寝室を出て暗い廊下をふらふらと歩きました。
真夜中の屋敷は、まるで時が止まったような静けさ。
その中をさまよう私は飢えていました。
とても、飢えていました。
これ以上ないほど。
心が。
行きつく場所は最初からわかっていました。
分厚い扉の前で立ち止まります。
「…………」
息を吸って、吐いて。
トン、トン。
弱々しく扉を叩き、祈るように両手を握りしめます。
やがて扉が開きました。




