20.ここから先は知りません
「……殿下」
再び声を出すと、自分でも不思議なくらいかすれていました。
背面にはひやりとした草の感触。
夜露に濡れた芝生に倒れながら、私は月を見上げていました。いえ、実際の月は枝を広げた木々にさえぎられ、私の位置からは見ることができません。
私が見上げているのは──
大きく見開かれた《黄金》の瞳。
「…………」
ユリアスは無言のまま応えません。
私の腕と肩を痛いほど押さえつけたその手から、時折身震いのような振動が伝わってきます。
これは……ちょっと……
まずいのでは、ないでしょうか。
「あの……?」
耳に入っているのかいないのか。
今のユリアスは正気ではなさそうです。私もまた、まったくの正気かと言われると自信はありません。
夜の庭に誘い込み、不慮の事故を装ってドレスの裾をはだける──
そのような作戦を立てたのは私です。ですから、想定しておくべきでした。
いいえ。
どこかでわかってはいたのです。相手が生身の人間である以上、こういう事態もありうるということは。
むしろこの状況は好都合とも言えます。既成事実を作ってしまえば、ユリアスは責任を取らざるを得ません。それこそ当初の目標通りで、ヒロインを出し抜いて皇太子を攻略し、お兄様のお役に立つことができます。
ただし、ここでひとつ問題が。
……私にはこの手の経験がまったくありません。
前世での二十三年間、私は男性とお付き合いをしたことがないのです。
この世界に来て恋愛の駆け引きのようなことができたのは、ひとえに小説の知識があったからこそ。
けれどここから先は──
何も知りません。
「………!」
ひゅっと首筋に冷たいものが走り抜けるような感覚に襲われ、私はとっさに起き上がろうとしました。腕がねじれて痛みが走ると同時、自分が今何をしているのかわからなくなります。
このまま大人しくしていればよいのでは……?
そんなふうに自問する私がいる一方で、もう一方の私は足をばたつかせています。
もがくうちに体が反転し、両腕をねじれさせたまままうつぶせになりました。肩と顎が地面にめり込み、そのまま無理に這いずろうとして、布の裂ける音がします。ドレスの裂け目が広がったのだと気がついて、思わず舌打ちしたい気分になりました。
……愚かな女。
私は暗い気持ちで考えます。
愚かで、浅はかで、無力で。
お兄様のために悪女になり切ることすらできない。
這いずろうにもこれ以上は動くこともできず、諦めて目を閉じました。
私が動きを止めると、ユリアスは片手で私を押さえたままもう片方の手をゆっくりと太もものあたりに添わせます。
そのとき、
「ユリアス様」
頭上から声が響き、ユリアスがはっと息を呑む気配がしました。
押さえる力が急に弱まったのを感じ、私は目を開いてすばやく彼の下から抜け出しました。上半身を起こして声の主を振り返ると──
そこに、エリシャが立っていました。
「………………………」
時が止まったような静寂の中。
月光を浴びたエリシャがそこに立ち、私たちを見下ろしています。
私たちは地面に座り込んだまま、呆然と彼女を見上げています。
「二人とも……ここで」
彼女はかすかに顎を持ち上げて、
「何を……」
言いかけ、言葉を飲み込むように口を閉じました。
美しい顔が歪み、震えだすのがわかります。
彼女を出し抜いてユリアスを誘い出した私への怒りか──
彼女を差し置いて私に迫っていたユリアスへの憤りか──
あるいはその両方か。
「………っ」
「エリシャ!」
こちらに背を向けて駆けだすエリシャにユリアスが声を上げます。
しかし彼女は振り返ることなく、私たちの視界から走って消えました。
風が吹いて、私の髪についた草の切れ端がぱらぱらと落ちます。
ドレスの裂け目を手で押さえていると、ユリアスが礼服のマントを外してその上にふわりとかけました。私の前にひざまずき、
「……すまなかった」
絞り出すように言います。
「どうかしていた。そなたに乱暴なことをするつもりはなかったのだ。許してほしい」
「………」
先ほどまでの動揺が薄れ、私は少しずつ落ち着きを取り戻していました。
ユリアスは──
エリシャを追いかけなかった。
舞踏会前夜のパーティー。原作ではことごとくエリシャを優先し、悪役令嬢フラウのことなど気にもかけなかったユリアスが。
その意味を反芻し、私は強ばっていた顔をゆっくりとほぐすようにして口を開きました。
「許しません」
ユリアスが目を見開いて私を見ます。
まるで幼子のようにおびえる彼に向かって、私は微笑みました。
「だからひとつだけ、私の願いを聞いてください」
この世界はもう原作のとおりには進んでいない。
ここから先は知らない展開が待ち受けている──
そう思い、私はひそかに身震いしました。




