<外伝>完璧な后と愛せない王様 エピローグ<前編>
「いやはや! いよいよ、ついに! まもなく! お世継ぎのご誕生ですなぁ!」
「煩い。不愉快だ。下がれ。今すぐに」
笑顔で叫ぶルイスに冷たく言い放つ。
ルイスは笑顔のまま素早く後退し、優雅に一礼して部屋を出ていった。
……まったく。
まだ世継ぎと決まったわけではない。男か女かなど、生まれてみなければわからぬというのに。
それに、正直に言ってどちらでもよい。
「アデル。そなたが無事ならば……」
我知らず声が漏れる。
今朝のアデルは顔色が優れなかった。ただでさえ色白の肌が、透けるように青白かった。それから産気づき、医師たちが集まり、彼女の寝室を出なくてはならなかった。
周囲の者たちは「ついに世継ぎが」と浮かれているが、とてもそんな気分にはなれぬ。
壁越しにアデルの苦しそうな叫び声を聞くたび、心臓を握り潰されるような思いがする。その声も今はほとんど聞こえない。が、今度はそれが恐ろしい。
私は皇帝になった。
すべてが手に入ると思っていた。
だが、こんなもの。塵ほども役に立たぬとわかっただけだ。
私は昔と変わらず臆病で、度し難いほど軟弱なままだ。
だからこそ彼女を失いたくない。彼女だけは。
祈りを捧げ、じっと閉じていた瞼を開けたとき、ふと机の上の置かれたものに気がついた。
──本。
この装丁。おそらく日記帳だ。
寝室に連なるアデルの私室。ここに置かれているということは、つまり彼女の日記ということになる。
「………」
つと手を伸ばし、すぐに引っ込める。
何をしている……!
妻の日記を覗こうなど浅ましい。それも、彼女が命がけで子を産んでいるというこのときに。
しかし、一度気になったものは嫌でも目に入る。
隣室からアデルの声は聞こえない。そのことが数秒ごとに胃の腑を締めつけ、全身を冷たく痺れさせる。
彼女の声が聞きたい。せめて、彼女の言葉を。
震える手を伸ばし、日記の表紙をそっと開いた。
そこに一枚の紙が挟まっていた。
『まあ! テリオス様ったら、わたくしの日記を覗きましたね?』
ぱたりと閉じる。
自分が情けなくなり、顔を覆ってため息をついた。
私の行動などお見通しというわけか。ならば、こんな目立つ場所に置かなければよいものを。
「……?」
そうだ。
彼女はなぜ、日記をこんなところに置いたのだ?
再び表紙を開く。
そこに挟まれた紙片に目を落とす。
『まあ! テリオス様ったら、わたくしの日記を覗きましたね?
いけませんわよ、そんなことをしては……なんて。申し上げたりしませんわ。
反対にわたくし、あなたにこれを読んでほしいんですの。
ずっとあなたに伝えたくて。でも、恥ずかしくて……。
口で伝えられないなら、いっそこの日記をあなたに読んでいただけばいいと思ったのですわ。
いつかあなたがこの日記を開いたとき、しおりの挟んであるページを読んでくださいませ。
他のページも読んでいただいて構いませんけれど、大したことは書いてありませんわ。
そしてしおりの場所を読み終えたら、わたくしに教えてくださいな。
ちっとも完璧ではないわたくしを、あなたがどうお思いになったか。
それでも……わたくしを愛してくださるかどうかを。
愛するテリオス様へ
あなたの妻アデルより』
日記に挟まれていた手紙を読み終え、思わず笑みがこぼれる。
ちっとも完璧ではない?
私の行動を先読みしておいて、今さら何を言っているのやら。
つい先ほどまで不安に押しつぶされそうだった心が、筆跡を見ただけでふっと安らぐ。目の前にいなくとも、彼女のぬくもりを確かに感じる。
……せっかく許しを得たのだ。読まないという手はない。
「ふむ……」
指を滑らせると、何枚かしおりが挟まっている。
その中でもっとも古いページを開く。
この日は──
彼女と初めて会った日だ。
その日記の中で、彼女は歓喜し、そして興奮していた。
『わたくし、今、とてもドキドキしていますの……!
こんなこと、今まで一度もありませんでしたわ……!
まだ十四年しか生きていない身ですけれど、わたくし、人生に退屈しておりました。
汝、王の器たれ。王の器たれ。王の器たれ。王の器たれ──
王にふさわしい人物になるために励み、それ以外のことは考えなくてよろしい。だなんて。ああ、こんな人生。わたくしでなくても退屈するに決まっていますわ。
……いいえ。そうとは言い切れないのかもしれません。
言われたことを疑わず、進んでその道を往く兄や姉。それを見習う弟や妹。彼らはちっとも退屈な顔をしていませんもの。きっと、わたくしのほうがおかしいのですわ。同じ考えを持つ兄が一人だけいましたけれど、早々に国を飛び出してしまいましたし。
来る日も来る日も教師に叱られて、わたくしだけが落ちこぼれで。仕方ありませんわ。わたくし、女王になんてなりたくありませんもの。
もっと別の、わたくしだけの何かにこの人生を捧げたい。そう思うのです。
その何かさえわかったら……。
そして、今日。
わたくしはアストレア帝国に嫁ぐことになりました。
姉妹の誰かが嫁ぐことは決まっていましたが、本日の会談で、わたくしが皇太子妃になると発表されたのです。
他の姉妹たちはほっとしている様子でした。でも、一番ほっとしているのはわたくしです。
この退屈な国を出られる。新しい世界がわたくしを待っている。
考えただけで胸が高鳴ります。希望を抱きながら、美しいドレスを着せられ、髪を梳られて──
テリオス様とお会いした瞬間、わかりました。
なんてまばゆい《黄金》の髪。なんて美しい《黄金》の瞳。
目がくらむようで、ただただ見とれてしまいました。
テリオス様と庭をそぞろ歩き、うれしさで身がはち切れそうなのに、緊張してほとんど口もきけませんでした。お父様には「子供のようだ」とあとで笑われてしまいましたわ。
そんなわたくしに、テリオス様は黙って微笑んでくださいました。
でも、その笑顔が寂しい──もの悲しいような気がしたのです。
わたくしは思わず尋ねていました。
「テリオス様には……叶えたい夢はございますか……?」
不躾なことを聞いてしまったと、すぐに恥じ入りました。ですが、聞いてしまったものは仕方ありません。
あなたの夢が知りたい。
どんな望みであろうと叶えてさしあげたい。
わたくしにそんな力などないとわかっています。それでも、心に決めていました。
テリオス様はどこか遠くを見るような目をして、
「完璧な王に──」
と呟きました。
それからふと我に返ったように、
「よき王になりたい。と思っている」
きちんと言葉を交わすことができたのは、それだけ。
でも、十分です。
わたくしは決めました。
あの方のために──わたくしは『完璧な后』になる。
今は落ちこぼれの姫。ですが、結婚式で再会するときまでにきっと、完璧な后になりますわ。少なくとも、そう思わせるくらいの人間になってみせます。
そして今度は、テリオス様に一目惚れをしていただくのです。
わたくしが今日、一目であなたに恋に落ちたように。
それがわたくしの……夢です』




