<外伝>完璧な后と愛せない王様 11
兄上の瞳から《黄金》の輝きが失われたとき、私の中に残っていたわずかな灯も一緒に消えた。
心は冷え切り、凝固した。妙な静けさだけがそこに残った。
──兄上を殺めた刺客を捕えることはかなわず、
「この、出来損ない! 出来損ないめ!」
戦地から戻って報告を受けた皇帝は怒り狂った。杖を振り上げ、兄上の専属騎士をその場で滅多打ちにして処刑した。
矛先は私にも向いた。が、私を殺せば血筋が絶える。ロギウスがそれを思い出すまでの間、ルイスが身を挺して打擲から私を守り、片目を失った。
戦時下のため、兄上の死は国民に伏せられた。私が兄上の代わりとなって公務に出仕し、兵士の士気を高めるため十五歳で戦場にも赴いた。
事実を知る廷臣たちは、
『……兄殺しの皇子』
密かにそう囁き合った。
しかし、表立って私に逆らう者はいない。今や私が次の皇帝だ。
兄上を『殺した』、この私が。
ふと、頬にぬくもりを感じた。
自分が泣いているのかと思ったが、そんなはずはない。今さらそんなものを流せるわけもない。
見れば、アデルがほっそりした腕を伸ばしていた。その手でやさしく私の頬を撫でる。
「……何をしているのだ?」
尋ねると、アデルは澄んだ瞳でこちらを見つめ、
「愛を」
静かに言った。
「愛をしているのですわ」
「……………アイ」
やはり、不思議な言葉だ。至極曖昧でつかみどころがない。
だが──不快ではない。
「お兄様が亡くなったのは、テリオス様のせいではありません」
「ああ。直接的には」
「お兄様を殺めたのは……?」
「表向きはカフラーマの刺客ということになっている。だが、私は帝国の人間だと考えている。私が皇帝になったほうが都合のいい──何者かだ」
彼女の手を取り、私は苦笑した。
「醜い話であろう」
「え?」
「そなたの国では、このようなことは起こりえない。神鳥が王を選ぶのだからな。まさに理想的な継承だ」
「……理想などではありませんわ」
意外にも、アデルは自嘲気味にそう呟いてみせた。
「確かに、フォルセインの王族には等しく王位継承権が付与されますわ。ライバルを殺めようとする者もおりません。その代わり、誰もが王の呪いに囚われているのです」
「呪い?」
「だって、誰が王に選ばれるかわからないのですもの。王族として生まれたときから、常に『王にふさわしい人物たれ』と教えられ、『徳を積むべし』と促されます。互いに互いを監視し、表面では称賛し合う。仲のよいふりをしますが、内心では自分のほうが王にふさわしいと思っている。わたくし……ああいうのが大嫌いでした」
ふんと鼻を鳴らすアデル。
「ですから、帝国への輿入れが決まってほっといたしました」
「確か……国外に嫁いだ者は王の選定から外れるのだったな」
「ええ。この国に来てようやく、わたくしは人間らしく生きられるようになったのですわ」
そう言って微笑む彼女に、私は腑に落ちるものがあった。
四年前、初めて会ったときのアデルはきわめて印象の薄い少女だった。声が小さく、およそ生気というものが感じられなかった。
あのときは彼女の言う『人間らしさ』を取り戻す前だったのだろう。だから結婚式で再会したとき、あまりの鮮やかさに驚かされたのだ。
「すまない」
「?」
「そなたを誤解していたようだ」
平和な国で、やさしい人々に囲まれ、屈託なく育ったのだと思っていた。
だが、あちらにはあちらの葛藤がある。王族全員が等しく王位継承者であるというのは、きっと生易しいことではないだろう。
何より──
甘い環境で育った少女であるはずがない。
彼女の完璧さがそれを証明している。一体どれほどの努力を重ねてきたか、想像もつかぬ。
「…………あの」
見つめていると、アデルの頬がわずかに赤くなった。
「テリオス様」
「ん?」
「さっき、おっしゃいましたよね。聞き間違いでなければ……その、わたくしのこと……」
「ああ。そなたのことが好きになった」
うなずくと、彼女の頬の赤みが一気に増した。
「そなたを好ましいと思う。一方で、どうすればアイすることになるかわからない。私は幼いころから心を凍らせてきた。そうしなければならなかったのだ。だが、今ではそうあらねばならないと思っている。強くあるために」
「帝国を統べる者として、ですか?」
「そうだ」
「………」
アデルは考え込むような顔をした。
「どうした?」
「あの……」
「遠慮することはない」
「では」
こほんと小さく咳払いして、アデルは透き通った瞳を上げる。
「冷たく硬い心は確かに強く、傷もつきにくいでしょう。ですが、その硬さを超える何かがあったとき、その心はきっと割れてしまうと思うんです。そうなれば人としての形を失い、もう元には戻りません」
「……ああ」
父上のように。
「愛は心をあたたかく、柔らかくします。柔らかさは弱さではありません。たとえどんなに深く傷ついたとしても、愛を知っていれば、心が完全に割れてしまうことはありません」
彼女はそう言って、かすかに白金の睫毛を震わせた。
「わたくしは……そう信じています」
私は目を閉じ、彼女の言葉を反芻した。
理想。
まやかしだ。
冷たく囁く自分がいる。何より、私は恐れている。
誰かをアイすることが、もはや自分にはできないのかもしれないと。
だが──
努力はしよう。
ベッドから立ち上がり、彼女に向き直る。
不思議そうな顔をする彼女の足元にひざまずき、私は手を差しのべた。
「アデル。私と踊ってほしい」
数秒ほど沈黙してから、アデルが口を開く。
「今、でございますか?」
「ああ」
「ここで……?」
「だめならば諦めるが」
「だめなんて言ってません!」
叫ぶと同時、華奢な手が置かれる。その手を引いて体ごと抱き留めた。
手をぴたりと合わせ、細い腰に手を回す。
アデルは私を見上げて微笑み、私の胸にそっと頭を預けた。そして、小さな声で歌を口ずさんだ。
彼女の歌に合わせてステップを踏む。
歌声はときどき笑い声に変わり、また歌声に戻る。
そうして夜が明けるまで、私たちは踊り続けた。




