消えたサーカス
サーカスだ!
待ちに待ったサーカスだ!
様々なビビットに彩られたテントの中には夢が詰まっている。チケットはそれを現実に変えてくれる魔法の切符。興奮で熱狂する人々でごった返す列を抜けた先には、ライトに照らされた舞台がそこにはある。
まず登場するのはおなじみピエロ。軽快なトークとへんてこな挙動で客席を一気に沸かす。上演前のピリついた雰囲気はなんのその。彼の一挙手一投足にみんなが魅了され、みんなの目線は舞台上に釘付けだ。
大人になればあんな風に堂々とハキハキと喋れるんだ、と尊敬の眼差しで彼を見ていた。
彼が天井を指さし、次に出てくるのは軽業師。真っ暗な天井付近にライトが移ると、そこに張られた一本のロープと、その上で手を振る女性が立っている。彼女は一礼すると、ロープの上で歩き出した。足取りはだんだんと過激になってゆく。速足、後ろ足、スキップ、ジャンプと観客がハラハラしていると、もう1人男性がでてきて、彼もロープの上を歩いて彼女に近づいてゆき、何かを放り投げる。それは放物線を描き彼の手元から彼女の手元に吸い込まれてゆく。1個、2個、3個……。ロープの上でのジャグリングに観客が沸き立つ。
今からどれだけ練習すればあんな芸当ができるだろうか。いつもテレビで映るスポーツとかマジックなんかに憧れてやってみたいとねだる僕だが、この時ばかりは「やってみたい」よりも「あれはムリだ」が優った。
あっ、と1個お手玉が落っこちてしまう。ライトがそのお手玉を追って下がってゆくと、その先には一頭のライオンが。ピエロが舞台袖でその獰猛さを煽るマイクパフォーマンスをしていると、ライオンがソロリソロリとピエロの背後に歩いていき、そして咆哮する。吃驚したピエロが慌てふためくと、スラリと背の高い鞭をもった男性が現れ、ライオンに指示を出す。ライオンはすぐさまその場におすわりし、調教師らしき男性が舞台袖の方に歩いていく。
ピエロが調教師に一礼して舞台からはけると、様々な障害物が彼らの前に滑り込む。やはり一番は火の輪くぐりだ。強くて怖いライオンという生き物が、華麗なジャンプを決めてメラメラと燃え盛る火の輪をくぐるさまは圧巻だ。強靭かつ優雅なステージに目を輝かせる僕がふと隣に座っている両親を見たとき、彼らも同じ表情だったのは深く印象に残っている。
やがてライオンは舞台袖に下がり、障害物の数々も片付けられる。一瞬真っ暗になったステージ上には、先程までいなかったシルクハットの男がお辞儀をしていた。彼が脱いだ帽子からは鳩が飛び出し、天井に吸い込まれていった。マジックの始まりだ!
取り出したステッキから花が咲き、破いたお札は元通りになり、観客の引いたトランプはどこに持っても消失し、あらゆる場所から登場した。最中、大きな長方形の箱が舞台に運び込まれる。ピエロが中に入る人間を観客から1人中に入る候補を募ろうとするや否や、マジシャンはピエロの腕をつかみ、彼を箱の中に閉じ込めてしまった。
扉に鍵をかけ、周囲を鎖でぐるぐる巻きにされたその箱に、マジシャンはゆっくりと剣を刺してゆく。何本も、何本も刺してゆくと、ピエロの悲鳴が場内に轟くが、どこかコミカルな響きを含んでいて、周りはみんなクスクスと笑っている。そして次の瞬間……。
「ピピーピ! ピピーピ! ピピーピ! ピピ……」
私の左手は淀みなく目覚まし時計を捉え、鬱陶しいアラームを切った。毎朝行うその行動に迷いも驚きもないが、あと何分で布団から起き上がる気になるのかはわからない。5分経つと次のアラームが鳴ってしまう、という焦燥感でたいてい2,3分で起き上がるが、そんな気力すら失せている木曜日。スヌーズする時計を2回ほど叩いて鬱憤を晴らした私の心は、漸く通勤の決心を決めたようだった。
毎日の不確定要素はこの朝の行動だけ。あとはいつも通りコンビニによって、上司に怒られて、8時~9時まで仕事をして、帰るだけ。休日やることと言えば平日に失われた英気を只ひたすらに睡眠によって得ようとする体のメカニズムに身を任せるだけだ。
今日もいつも通り、ある程度怒られ、ある程度仕事を終わらせ、ある程度残業すれば、なんとなく帰って良い雰囲気の時間。帰宅の最中、レンタルビデオ屋が目に入った。そういえば、今日はなんだか変な夢を見た気がする。僅かばかり童心に帰ったような思いを抱いて、店内に入る。
中はガランと空いており、2,3人が目につくくらいだ。都心のスぺースにしては随分非効率的な場所だと思いつつも散策を開始すると、懐かしのタイトルを目にする。それは懐かしのビデオではなく、円盤という形で懐かしさを想起させてきたが、中身は全く変わらない。子供のころ見たものから最近のものまで、中身を完全に知っているものから全く知らないものまで。
今更こんなものを手に取ってどうしようというのだろうか。私はこれを借りて、果たして見るのか。いや、そもそもサブスクリプションサービスがあるのに、なぜこんな古めかしい方法をとっているのか。アニメや映画なんて大人になって見るものでもない、そんな暇があったら仕事に役立つ勉強をしているべきだと、今まで培った理性が訴える。しかしそんな警鐘も虚しく、帰宅した私の手元にあるディスクはプレイヤーに滑り込んでいった。
「戦場のサーカス団」
映像の冒頭はサーカスから始まった。途端に頬を涙が伝った。消えたと思っていたものが、まだ私の中には残っていたのか。