赤いリンゴのアップリケ
母が泣いていた、行かないでと縋り付きながら。
父はその手を冷たく振り切って一度も振り返らずに ……道の先に消えた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
私は父が生きているらしい事しか知らないでいた。
何処か遠くでお仕事していて帰れない父親。
ずっとそう母が言うので信じた振りを続けた。
歳を重ねる毎に貧しくなる暮らし。
丈が短くなったワンピースはリメイクしながら擦り切れて生地が薄くなり穴が開く。
丁度良かった、可愛いアップリケを付けましょうと母は優しく言って赤い布でりんごを作る。
知ってるよ、その赤い布は母の手放さなかった大事なお洋服を切ったもの。
それでもそれは決して言ってはならないと子供なりに悟っていた。
✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
その子を見たのは偶然だった。私と同じ年頃の身なりのいい男の子。
忘れもしない年を重ねた父がその子の肩に手を置いて笑っている。
そしてその向こうから父の名を呼ぶそれは綺麗な人がいる。
母が着たくても着れない様な花の刺繍の入った華やかなドレス。
私に気が付かないの?こんなに大きくなったよ。
ちょっと痩せ過ぎて背もあんまり伸びないけど母がオカズを沢山くれるの。
お母さんのは?って聞くと必ず味見したからもうお腹が一杯なのって言う。
……でも知ってるよ、後でこっそりお水を沢山飲んでたよね。
気が付かない振りしていたけれど空腹だったんだよね。
ねぇお父さん、その子は誰?
お母さんが待ってるのに帰れないの?
お母さんは日に日に痩せて小さくなった。
時々叔父さん夫婦が差し入れを持って来てくれる。
お母さんはそれを何より喜んでその日はお母さんも一緒に食べる。
美味しいね⋯⋯って言いながら。
そして私は縫い付けられたアップリケを強く握りしめる。
赤い、赤いアップリケ……。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
その日マシュー・パーカーは王立学園初等部を無事優秀な成績で卒業した。
そのまま持ち上がりで次は中等部へと進む。
此れも全て今の父が教育に惜しげもなくお金を使ってくれたからで将来は王城で文官を志望していた。
マシュー親子は3年前まで貧しい平民だった。
実父が4年前に亡くなり貯金が尽き途方に暮れたマシュー親子を今の父が救ってくれた。
実父の親友だったという今の父はそれでも実父に敬意を払い親友の忘れ形見に名を残してやりたいからと母とは内縁関係のまま親子として何不自由ない暮らしをさせてくれている。
母を何より大切にしてくれている事がマシューにとって重要で有難い事だった。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
その子に気が付いたのは赤いものがいつもチラチラと目にちらついたからだった。
その子の薄汚れたワンピースのあちこちに飾られた赤い物。
不自然な色の濃淡に……あぁ、あれは継ぎが当ててあるんだと気が付いた。
貧しい者はああやって穴を隠すために布を縫い付ける。
でもどうせならもっと綺麗な端切れにすればいいのに……そうその時は思っていた。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
その子は小さい子であったがなんと同い年だった。
瘦せているところを見ると多分栄養が足りないのだと思う。
平民の時に周りにそんな子供は大勢居た。
自分達もあのままならこの子のようになっていたかもしれない。
同情心がその子に声を掛けさせた。
「ねぇ君、いつもこの辺に居るよね。家は近くなの?」
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
それからその子、レイラとは時々会ってお喋りする仲になった。
レイラのお母さんはとても苦労をされていて自分のご飯をレイラにくれて水ばかり飲むせいでとうとう病気になったらしい。
お父さんは亡くなったの?と聞くと遠くに働きに行って帰らないのだそう。
レイラ親子をほったらかしにして無責任なお父さんだね、と言うと悲しそうに下を向くのだった。
僕が家からお菓子を持ってきたらお母さんと食べると言ってその場で食べずにいつも持ち帰る。
とても心の優しい親孝行な子だと思っていたらお母さんがとうとう亡くなったのだという。
それから暫くして叔父さんの家に引き取られる事になったとお別れを言いに来た。
とても残念だったが家庭の事情だから仕方ない。
レイラは言った。
大きくなったら会おうね……その時までさようならと。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
中等部を卒業したオレは文官を目指して高等部に入学した。
そこで思わぬ出会いがあった。
レイラが同級生として現れたのだ。
お互い気が付かずに過ごしていたが名前とペンケースにあの懐かしい赤いアップリケがしてあったので気が付いた。
レイラはこれに感謝しないと、このリンゴのアップリケのお蔭でまた会えたんだからと何度もアップリケを撫でて言った。
レイラはとても綺麗になっていた。
オジサンの事業が引き取られた後大成功し成金なのよ……と寂しそうに笑った。
あの頃は痩せていて気が付かなかったが元がお母さん似だったらしい。
もう少し生きててくれたらと今でも思うのと彼女は言った。
それからはすぐさま意気投合して恋仲になるのは早かった。
オレはレイラに夢中になった。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
レイラが家に遊びに行きたいと言い出した。
自慢のご両親に会ってみたいのだという。
オレは願っても無いことなので二つ返事で了承し週末に約束した。
其れに関してレイラからご両親に聞かれても名前は出さないでと言った。
私が自分で自己紹介したいから……と言われ同級生だと言っておく事にした。
❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎❇︎
そして週末、レイラは何故かコートを着てやって来た。
両親を紹介するとレイラはコートを脱ぎながら口を開く。
「レイラです、お久しぶり」と言った父に向けて。
コートの下は丸い穴の沢山開いたワンピース。
父はじりじりと後退り奇声を上げてうずくまった。
レイラはその場で腰を抜かした母に言った。
「あんたがこのロクデナシのお妾ね。初めまして」
そしてオレに薄笑いを浮かべながら言い放った。
「正妻親子の食い扶持でのうのうと生活して楽しかった?正妻がいるから父の名前にはなれなかったけど母がやっと死んでくれたからキャンベル姓に替えようとか言われなかった?」
そして上を見上げて言った。
「私のお母さんはね、栄養失調で死んだんだよ、仕送り一つ無くてね。仕事も沢山掛け持ちして長生きしたくても出来なかった」
「……」
「あぁ、あんたが同情してくれた食べ物ね、毒でも入ってると怖いから野良犬にあげたよ」
「……」
「これはそこの男がね、唯一母に買ってくれたワンピースなの。これで母は私の穴の開いた洋服にアップリケをしてくれたんだよ、心のこもったリンゴの可愛いアップリケを」
オレは今迄信じていた幸せが足元から崩れていくのを感じた。
でもそれよりもレイラが一生自分のものにならない事実に絶望した。
もし宜しければブックマーク、評価、感想をお聞かせください(*^^)v
他にも作品がありますので覗いて見てくださいね!