30)母の形見
アレキサンダーの目の前には、常と変わらぬロバートがいた。生まれた時から一緒にいる乳兄弟だ。
「翌朝に、ここまでいろいろ揃うとはな」
今回、筆頭のロバートが不在の間、留守を預かる者たちは、王太子宮に生じた問題を把握し、対応をしていた。独断で解決のために動くことはなかったのも、幸いだ。
ロバート以外の家臣の能力が示されたのは、今回の騒ぎの思わぬ副産物だろう。
「本当に幸いでした。小姓達も気づいていない間に随分成長していましたね」
「お前の教育だろうに」
「私が教えるのは基本的なことのみです。昨夜のローズの様子に、王太子宮にあの子の居場所があるのか心配しましたが、杞憂でした」
アレキサンダーの目の前には、グレースに仕える侍女三人の名前があった。やっかいなことに、全員が、グレースがアスティングス家から、お気に入りとして連れてきた侍女だ。
「証拠はあるのか」
「罵詈雑言は残りません」
アレキサンダーの言葉に、ロバートは即答した。
「証拠なしでは、アスティングス家の顔に泥を塗りかねんぞ」
「はい。そのために、昨日いただいた、1週間の猶予に関してお願いがございます。数日、日中、主に午後ですが、アレキサンダー様の御側を離れる許可をください」
ロバートは得体のしれない笑みを浮かべていた。
「好きにしろ」
「ありがとうございます」
少し乱暴な言い方になったかもしれないが、ロバートの態度はいつもと変わらなかった。アレキサンダーの耳に、小さなローズに嫉妬などなさらないで、というグレースの声が聞こえたような気がした。断じて嫉妬ではないはずだ。アレキサンダーは胸の内でグレースの言葉を否定した。
「アレキサンダー様、今の間に、アスティングス侯爵様にご確認をお願いできますか。彼女らは、王太子宮に来た時点で、賞罰の権限がアレキサンダー様にあると、侯爵様からお話をいただいていたはずですが」
「あぁ、無論だ」
アスティングス侯爵が、侍女の賞罰など気にかけることはないだろう。アレキサンダーにとっての問題は、グレースだ。罰を与えねばならないが、愛する妃、グレースを悲しませることは避けたい。
夕食時、ローズの髪に、アレキサンダーにも見覚えのある深緑色のリボンがむすばれていた。グレースも気づいたらしい。
「まぁ、ローズ、そのリボンはどうしたの。とても綺麗よ」
その言葉に、ローズは恥ずかしそうに答えた。
「ロバートがくれました」
「あら、ロバートどうしたの」
「母の遺品です。部屋を片付けていたら見つかりました。私が持っていても使いようもありません。ローズが使ってくれれば、母も喜ぶでしょう」
控えていたロバートがそっとローズの髪を結ぶリボンに触れた。小さな声で、そっとテーブルマナーを指摘してやる。ローズの作法は来た当初と比べ、ずいぶんと改善していた。
「ローズの作法もずいぶんと良くなったわね」
「ありがとうございます。トレーシーさんをはじめ、教えてくださる方と、お手本となってくださる方に、私は恵まれていますから」
アスティングス侯爵家の侍従長の娘トレーシーは、グレースがローズに礼儀作法を覚えさせるために呼び寄せた。トレーシーは、いずれ生まれる子の養育を理由に、このまま王太子宮に勤める予定になっている。
「トレーシーは、ローズをずいぶん褒めているわ。形をなぞるだけが礼儀作法でない、ローズは心がこもっているから良いとほめていたわ。どう思ってロバート」
「おっしゃる通りでございます」
ロバートが優美な礼をした。
「形だけなぞっているだけで、心のこもらない作法ほど、醜いものはありません」
アレキサンダーは、ロバートの言葉に棘を感じた。
「まぁ、ロバート、トレーシーと同じことを言うのね。あなたが言うと、洒落にならないけれど」
「ご冗談を」
微笑むロバートの表情がアレキサンダーには読めなかった。
「見覚えがあるように思ったが、アリアのリボンか」
「えぇ。ローズは母と髪色が似ていますから、よく似合うだろうと思いまして。思った通りでよかったです」
ロバートが、そっとローズの髪を撫でた。
「長く箱の中に仕舞っていました。なるべく使ってやってください。そのほうが母も喜ぶでしょう」
見上げたローズと、ロバートが目を合わせて微笑みあう。
相変わらずロバートが何を企んでいるのか、アレキサンダーにはわからなかった。