33)法律家マーティン
マーティンには、忙しくなるとローズとエリックが考えている理由がわからなかった。そもそも法律家の自分に、疫病はさほど関係ないはずだ。
後任として自分たちが送られるのであれば、先に王太子の名代としてイサカの町に派遣されていた近習は戻ってくるはずだ。イサカの町では、すでに疫病の蔓延は沈静化しつつあるという説明もきいた。
王太子の名代としてたった一人で派遣され、成果をあげるような優秀な近習が帰ってくるならば、王太子の負担は減るはずだとマーティンには思えた。
「なぜ忙しくなるのですか。疫病は落ち着きつつあると、説明をききましたが」
カールの呆れたような視線に、マーティンは、また失敗したと思った。
マーティンは、疑問に思ったことは、いつも場をわきまえずに口にしてしまう。先ほど一瞬穏やかな雰囲気になったエリックも、いつもの無表情に戻っていた。
ローズは何も気にせず答えてくれた。
「疫病という、わかりやすい、一つの敵に向かっている時は人は団結できます。でも、これからは疫病のあとの様々な問題に対処する必要があります。商売のこと、親や子を亡くした人たちのこと、既に破産してしまった人たちと、破産間近な人の救済をどうするか。イサカの町を避けてでも、商売ができるように新たな町を開拓した人もいるわ。そこを無碍に引き上げては、それも問題になります。これからの方が、町の中で、近所の人どうしで、利害が対立するでしょうね。これからは、疫病とは違う大変さがあるわ。だから、マーティンさん、法律家のあなたのお師匠様に、誰か一人、いい人を紹介してってお願いしたの」
ローズの言葉に、マーティンは衝撃を受けた。
「そんな、責任重大なことを私に」
「あの町か、近くの出身で、法律のことが分かって、交渉ができる人を王太子様は探しておられたの。あなたのお師匠様は、あなたを紹介して下さったわ。あなた一人にいつまでも任せるつもりもないわ。あなたと一緒に仕事ができる人が必要よ。あと数人は用意しないといけないでしょうね。でも突然沢山の人を用意するのは無理だから、最初は一人です。ご苦労もあるかと思いますが、お二方と協力なさって下さい。王太子様は、半年以内に、あと二人位は送り込む予定で進めておられます。あの町は、商人の自治が盛んなのでしょう。それは悪いことではないけれど、商人でない人たちの立場は弱くなるのではないかしら。商人じゃないというだけで、不利になる人がいてはいけないと、王太子様はお考えです。この国の法律を、きちんと適応するための最初の法律家として、まずはあなたに行ってほしいの」
ローズが言葉を切った。
「もしかして、マーティンさん、あなたのお師匠様、あなたに何もおっしゃらなかったの」
ローズの言葉にマーティンは頷いた。
「ただ、師匠は行けと言ったのみです。法律が分かるって、師匠はそんなことは、交渉事だってそんな」
一度も、褒めてくれたことのない師匠が、そんな風に自分のことを考えているとは知らなかった。呆然とした様子のマーティンに、ローズは微笑んだ。
「あなたのお師匠様、手厳しそうだものね。でも、あなたが一番いいと言って勧めてくれたわ。少し若いけれど、マーティンなら大丈夫だとおっしゃっておられたわ」
「師匠は一度だって褒めてくださったことはなかったのに」
常に師匠は、マーティンの先輩や後輩たちを褒めるが、マーティンのことは何一つ言ってくれなかった。
「本人のまえでは、絶対に褒めない方だそうね。あなたのお師匠様自身、本人の前で褒めたことはありませんが、って自分でおっしゃってたわ。王太子様が、ロバートより手厳しい指導だって、笑っておられたわ」
この場にいない、自分達の前任である近習、ロバートの名を話題にしたローズの目が遠くなった。
「お菓子を召し上がりませんか。あなたもずっと頑張り通しです」
近習の言葉に、ローズはゆっくりと首を振った。
「いいの。ロバートが帰ってくるまで、お茶の時はお菓子を食べないって決めたの。おまじないよ。シスターが教えてくれたの。それに、ロバートのほうが、ずっと大変だもの」
近習は、ゆっくりとほほ笑んだ。
「あなたは優しい子ですね。ローズ」
「大変な場所に、仕方ないとはいえロバートをたった一人で行かせてしまったもの。単なる自己満足よ。それに、他の時はお菓子を食べるわ。お菓子を食べないのは、今日みたいなお茶の時間だけよ。尊い立場のお客様方がいらっしゃるときは、ご一緒しているでしょう。だって、皆様色々持ってきてくださるもの。いただかないほうが失礼だって、ロバートが言っていたわ」
微笑むローズに、近習が紅茶のお代わりを注いでやっていた。
「そうですね。彼もきっと元気にしていますよ」
「そうね。でも、ロバートは、何かあっても絶対にこちらに知らせてくるような人じゃないでしょう?周りに気取らせることなんてないでしょうし」
「それがロバートの悪いところです」
「何度言っても治らないそうね。王太子様も嘆いておられたわ」
王太子の乳兄弟でもあるロバートという名の近習の噂は聞いたことがあった。王太子の側近、腹心とされ、贈賄が一切通用しない堅物として有名だ。王太子をも上回る上背と威圧感から鉄仮面と揶揄する声もある。王太子宮で、彼の身を案じる人々をみていると、噂はあてにならないらしいとマーティンは思った。