10)訪問者
夜、自室に戻ったロバートは待ち構えていた人物に苦笑した。
「やはり、聞いておられましたか」
ロバートの部屋で既に寛いでいた客人は、部屋の主の言葉に微笑んだ。
「そりゃあ、可愛いお前の様子が気になるだろう。なぜかアルは私をせっつくからな。全く。いくつになっても、アルはアルだ。弟気分が抜けないらしい」
微笑む客人にロバートは何も言えなかった。
「お前に直接言えといったら、奥手なお前をせっついたら可哀そうだとか、訳の分からないことを言う」
「師匠」
「今はお前と私の二人だけというのに、堅苦しいやつだ」
押しかけて来た客人、師匠と呼ばれた男は、ロバートの言葉に苦笑した。
「私としても、アリアの忘れ形見のお前は、本当に大切な子だ。そんなに悩まなくてよいだろうに。あの子は聡い。お前の助けになってくれるだろう」
師匠の言葉にロバートは、己の迷いを口にした。
「ローズは優しい。知れば巻き込んでしまうでしょう。かといって、ときに妙に聡いローズに、隠し通すことはできると思えません」
ロバートの言葉に師匠は頷いた。
「そうだろうな。だが、あの子は、知ったからといって、己を見失うことはないだろう。逆に、アリアがバーナードに何も告げなかったのは正解だ。知らぬままであの傲慢ぶりだ。おまえには悪いが、あれは一族の面汚しだ」
ロバートは顔をしかめた。
「ローズの話に、あの男の話題など出さないでください。汚らわしい」
母アリアが亡くなる前日、王都からの荷物が届いた。その中に、バーナードの名で母へ宛てた肩掛けがあった。
「あの人から、贈り物なんて、珍しいわね」
母の言葉の通り、初めての贈り物だった。母が、恥ずかしがりながらも喜んでいた。翌朝、亡くなった母の首には小さな傷があった。肩掛けに仕掛けられていた小さな針の意味がわからない程、ロバートは子供ではなかった。あの肩掛けが本当に、バーナードからの贈り物であったかどうかは、今もわからない。
バーナードが母を蔑ろにしたことは事実だ。今も、愛人を次々と取り替え、浮名を流している。
「あの男を父と思ったことは、一度もありません」
ティタイトとの戦で、一族の若者の多くが命を落とした。本家だけでなく、分家も世代をつなぐのが精一杯だった。取って代わる者がおらず、能力だけはあるから、バーナードは、今の地位にある。王宮であれば、一族の監視の目が届きやすいというのもあった。
「お前、ローズを手放したくないのだろう。一族は始祖から代々頑固だ。おかげで今の私たちがあるわけだが」
「しかし」
「一族のことを教えるか否かは、後から考えろ。情勢は変わる」
「ですが」
「お前は」
ため息が聞こえた。
「お前は今更ローズを手放せるのか。逆に、あれだけ可愛がって置いて、突き放すのか。今更突き放されたら、ローズはどう思うだろうな」
「やめて下さい!」
師匠の言葉に、ロバートは叫んだ。
「だからといって、ローズを巻き込めと。このままであれば、何も知らずに生きていける。別に、アレキサンダー様にお仕えするのに、私達のことなど知らぬままでも、問題はないではありませんか」
「だったら、知らぬままでもいいだろう」
「ローズに、隠し事をしたくない。ですが、一族のことなど、もう十分巻き込んでしまっているのに、これ以上は。ここに来た頃は、ローズはもっと自由に笑っていたのに」
ローズは感情の起伏の激しい子供だった。豊かな感情そのままに変化する表情に、目を奪われた。自分が久しく失っていたものだった。
「人は皆、いつまでも子供のままではいられない。人は皆、大人にならねばならない。お前の場合は、あまりにも急だった。ロバート、済まなかった。私としては、もう少し、お前に子供でいさせてやりたかった」
ロバートは影になって見えない相手の顔を見た。自分と同じ、榛と緑の瞳がこちらを見ていることは分かっている。
「あの頃は、それが出来なかった」
過去を悔いる師匠の言葉にロバートは首を振った。
「私が望んだことでもあります。師匠、あなたのせいではありません」
一族の当主である母が急死し、ロバートが後を継ぐ以外になかったのだ。
「あぁ。お前は立派に育った。さすが、アリアの自慢の息子だ。お前を誇りに思うよ、ロバート。私はお前の師であることを、誇らしく思う。少しくらい、お前は自分に素直になっていい。何もかも諦めるのは止めろ。一人で背負うな。ロバート。ローズがどんな大人になるか、お前が導いてやればいい。その上で、一族の一人としてローズを迎え入れるか、告げないかを決めればいい。私で良ければ、相談に乗ってやる。ただ、手放すな。ローズを一人にするな。私は、お前の傍にいてやれなかった。今でも後悔している。お前に同じ後悔をさせたくない。ロバート、お前が一人前に育ってくれたことに、私は感謝している」
あの頃、一人だったが、一人きりではなかった。孤独を感じることも多かったが、周囲には大人たちがいてくれた。
「母には母の役目があったように、師匠には師匠の役目があります。あの屋敷にいたのは、皆、一族についてある程度知る者達でした。皆で育ててくれたようなものです」
屋敷で過ごした懐かしい日々、辛いこともあったが、幸せでもあった。
「そう、だからだ。ロバート。ここはあの屋敷じゃない。ここは王都だ。あの屋敷は、アレキサンダー様とお前を育てるために用意したようなものだ。ここは違う。見えない刃で互いに切りつけ合う王都だ。ロバート。ローズは聡いが、優しすぎる。人の心の闇を知らない。おまえが守ってやれ」
アレキサンダーとロバートは確かにあの屋敷にいた大人たちに守られていた。ローズは、王太子宮で、侍女たちの悪意にさらされ辛かっただろう。だが、ロバートを頼ろうとはしてくれなかった。
「ですが、ローズがこの手を取ってくれなかったら」
ローズは懐いてくれている。本当に、ただ、妹のように可愛がっていたはずだった。いつからあの、琥珀の瞳に自分を映して欲しいと思うようになったのか。あの屈託のない笑顔を自分だけに向けて欲しいと思うようになったのかわからない。
ただ、ずっとローズを大切にしていた。守ってやりたいと思っていた。侍女たちの嫌がらせに気付いてやれなかったことを、ロバートは後悔した。頼ってもらえなかったことが、胸に棘のように突き刺さってもいる。
「お前の手を取るかどうかは、ローズが決めることだ。お前がローズを守るか守らないかは、お前が決めることだ」
師匠は少し、笑ったようだった。
「お前は、ローズを守りたい。ローズに手を取って欲しい。だが、お前はローズに手をとって欲しいから、ローズを守るわけじゃないだろう。ローズがお前の手を取らなかったら、お前はローズを守らないのか。違うだろうに」
「それは、確かに、おっしゃる通りです」
確かに、師匠の言う通りだ。
「お前が守ってやったからと言って、ローズがお前の手を取るとは限らない。お前ではない、誰かの手をとるかもしれない。お前が、ローズを守ってやりたいのだろう。だったらお前はローズを守れ。ローズが誰の手を取るか、それはローズが決めることだ。だがな、ロバート。手を取って欲しいならば、ローズに言わねばならないよ。お前が手を差し伸べていることを、ローズに伝えたか」
ロバートには答えようもなかった。いつか気づいてくれたらと思っていただけだ。自分から伝えようなど思ったこともなかった。
「ローズは、おまえより十以上も幼い。言ってやらねばわからないだろうに」
ロバートの耳に、師匠の苦笑が聞こえた。
「私達はお前に、多くを強いてきた。沢山のものを諦めさせてきた。ロバート、手に入れる前から諦めるな。失うことを恐れて、最初から諦めていては、何も手に入らない。全てが手に入ることなどない。だが、何もかもが手に入らないということもない。ロバート」
突然、師匠に抱きしめられてロバートは驚いた。
「もっと小さい時、お前をちゃんと、こうしてやればよかった。それが一番の後悔だ」
声にならない声でロバートは、自分を抱きしめる男を呼んだ。
「あなたのせいではありません」
「その名で呼ばれるのは久しぶりだな。いつの間にか、私と同じ背丈になって、ロバート。お前が生き抜いてくれてよかった。本当に。死ぬな、ロバート」
「はい」
かつて、師匠は、己の生きる道を決めた。二度と戻れない道を、自ら選んだのだ。師匠だけではない。始祖の選択の後、一族は代々、この国のために生きる道を選んできた。ロバートもそうだ。
「生きるための選択をしていい。手に入れると言う選択をしていい。ロバート。私達の愛しい子」
師匠に抱きしめられたまま、ロバートは頷いた。
師匠は、一族のために、一度は想い人に手を差し伸べることを諦めたと母から聞いている。結局は師匠自身が、一族は頑固だと言ったとおり、想い人と寄り添う仲となり、四人の子供の父となった。まだ若い彼らだがいつか、一族を背負ってくれるだろう。問題は、彼らがロバートにとって代わることができないことだ。
それもこれもあのバーナードのせいだ。あの男は、母を裏切り、一族を追い込んだ張本人だ。腹立たしい男のことを、ロバートは頭から追い出した。