第三十四話 葦の国防衛戦⑫
前回、やばい奴到来
「『百王』と呼ばれる存在がいます」
ある日、桃花での休憩時間中、否笠は美羽に語り始めた。
「何人いるか、正確な数は不明です。『自分は王だ』と偽証している方もいますからね。
ただ、便宜上我々は彼らを『百王』と呼んでいます。大雑把に百人くらいはいるだろうと、ね」
否笠はコーヒーを飲みながら続ける。
「王は総じて強大な力を持ちます。一応彼らの位階は熾天使ですが、事実上熾天使の上をいきますね。
ですからニライカナイでは、王たちのために新たな階梯を作るべきだと唱える方も一定数います。『メタトロン』とか。
王はただ強いだけではなく、周囲への影響力も多大なのです。
もちろん個体差はありますが」
そこで、美羽は気になったことを聞く。
「百王って、どんな方々がいるんですか?」
「そうですね・・・・・・例えば。
アラディアさんのように魔術を極めた『魔術王』。
ニライカナイでダイニングキッチンを営んでいるMr.コックこと『膳王』
同じくニライカナイで無作為に罪人を捕らえているタルタロスこと『牢獄王』。
絶大な力を持つ四体の『戦王』。
他は割愛しますが、ニライカナイで活動している方が多いですね。
その分、ガーデナーは彼らが起こした問題の対処に忙しいとか」
かわいそうに、と。どこか遠い目をして否笠は呟いた。
「その百王って、熾天使の上って言われるくらいですから相当強いんですよね?
店長も敵わないんですか?」
「そうですね、私が遭遇したら即座に回れ右して逃げたいところです。
王の強さですか。一概には言えませんが、そうですね・・・・・・」
否笠は少し考え込み、
「美羽さんが遭遇した咎人の中で一番近いのは、覚醒したファルファレナですかね」
■ ■ ■
駆ける。
駆ける。
どこまでも、時空と次元を越え、いかなる境界も潜り抜けて走る。
紛れもない全力疾走。
美羽は不浄門を通して霊体の権能を譲り受け、それらを全て逃走に極振りする。
それは、これ以上世界に被害を及ぼさぬように場所を移しているから、では断じてない。
全ては己の存命のため。一分一秒でも生き長らえるため。
人間に遭遇したトカゲがすぐさま逃げ隠れるように、美羽もそうした衝動に駆られ、だから走っていた。
だがそれは星に降り注ぐ巨大隕石のように、どこにも逃げ隠れを許さない超弩級の災害だった。
「ッ!!」
真横。
直感でその場を避けた美羽の判断は正しかった。
空間を突き破り、一台の自転車が爆走する。
その速度。突進の威力。
美羽を三とするのなら、どちらも優に七〇〇は越えていた。
壊滅的な轍を世界に刻み込み、地面を削りブレーキをかけた平和王・シャロは、わざわざ自転車のかごからメガホンを取り出し口に持っていく。
「逃げても、無駄ですよー?」
初めて対峙した時と全く変わらない、一見、友好的にすら思える声。
しかしその真意は真逆。
殺すと満面の笑みで告げている。逃がさないと優しげな瞳が語っている。
どれだけ遠くに逃げようと、必ず見つけ出すと。
その言葉に思わず歯噛みする。
美羽だって逃げたくて逃げているわけではない。確かに理屈抜きの恐怖を叩き込まれたが、それでも身体は動く。
心身分離の術。それは美羽が己自身にかけている魔術。
精神と身体は密接に関わりあっている。あまりに気持ちの悪いものを見れば嘔吐し、全身が震えるのがその例。
今もそう。美羽は全身に走る怖じ気が止まらず、足が立ちすくんで止まりそうになる。
だがそれは戦闘において足かせになる。だからこそ、この魔術で心身二元論を体現する。
そうすれば、精神がどれだけ拒絶しようが身体は動く。これは精神支配や干渉の類にも有効で、例え心が完全に掌握されようが身体だけは本人の意図する通りに動かせる。
だから美羽が逃げに徹している理由は、それとは異なる要因。
形なく、しかし確かに存在し、美羽の身体に纏わり付いて離れない異質な力。
それが、美羽に一切の戦闘行為を許さない。
事実、戦うという選択肢が思考から消えていた。攻撃も防御も回避も補助も、その他戦闘に関する行動が行えない。選べない。
唯一残った選択肢が逃げるという行動だから、美羽は逃げているだけ。
異常事態と言わざるを得ない。これまで数多の難敵と戦い、生を掴んできた美羽だが、こんな状態に陥るのは初めての経験だった。
しかしそれも、相手が百王であるのなら納得できる。
百王。
正確な総数は不明。主義主張もバラバラ。
だがその強大な力は、悪鬼羅刹が集う堅洲国でさえ天災と呼ばれ群を抜いている。
総じて超常個体であることは間違いなく、その中でも平和王は著明な存在だ。
狂気の平和王。その顕現の詳細は、高天原でも知られている。
それは『一切の戦闘行為の強制終了。そして永続的な戦闘中止』
攻撃も、防御も、回避も、選択も。
戦闘に至ろうとする思考さえ阻害され、自己防衛すら許さない戦闘殺し。
兵器や武器の類ですら例外ではない。万象、それが武器となる可能性があるのならこの顕現は速やかに作用し、それがこの世に存在することを許さない。
言葉が心を抉るのならそれも消滅する。
思考や価値観が誰かを害するのならそれすら殺す。
いかに強大な必殺を持とうが、絶大な能力を持とうが、この顕現の前では無用の長物と化す。
それは顕現ですら例外ではない。
発動に至る思考のプロセス。トリガー。その引き金を引くことすら許さず、案山子となるほかに道はない。
切り札を潰され、戦うという選択肢すら消去され、どころかまともに動けない現状は、美羽の悪想零落に通じるところがある。
彼女は戦争虐殺者。
その名の通り、戦争を虐殺する者。
対立する両陣営を皆殺しにしてその旗を踏みにじり、戦争という概念そのものを世界から抹消する。
そうして出来上がった血塗れの地平を、『平和』だと喝采する者。
全生命体を絶滅させれば争い事なんて起きるはずがない。
そんな滅茶苦茶な理論を、彼女は微塵の疑いもなく突っ走っている。
生存競争の悉くまで奪い去った果てに世界は滅びを迎えるのだが、本人はそれを『平和を求める気持ちが足りない証拠だ』と断罪する。
つまるところ平和が彼女にとっての第一最優先事項であって、そこには善も悪もない。
美羽にとっての不幸は、到着した平行世界がたまたま平和王のすぐそばにあったことだ。
「喧嘩両成敗って、互いに平等の責を負わないと割に合いませんよねー?
だから、さっきのなんかよくわからない変なのは私の愛車で押し潰したから・・・・・」
そう言って、シャロは自分の自転車を片手で持ち上げる。
その細腕のどこにそんな力が・・・・・・なんて今さらすぎて驚きもしない。
問題なのは、彼女が投擲の姿勢を取っていること。
「君も、轍になっちゃえー!!!」
そうして放り投げられた彼女の愛車は、大気を切り裂き、空間を超越し、美羽の腹部を瞬く間に貫通して二分した。
上半身が飛ぶ。臓物を撒き散らした遺体は、されど傷と現実に罅が走り、その瞬間無傷の美羽が現れる。
しかし傷は完全に治っていない。美羽の腹部には自転車で轢かれた痕がくっきりと残り、夥しい出血が黒い服を染める。
この感じ。顕現を発動したファルファレナと同じ。
もたらされる現実があまりにも強大で、だからこそ容易には壊せない。
激しく吐血し、全身の細胞が恐怖で凍てつきながらも、その目は現状を把握する。
依然として、美羽には何も出来ない。
発動していた悪想零落は強制的に解除された。
攻撃のために構えることも、戦闘のための思考回路を形成することも不可能。
このまま嬲られ殺され続ける。そんな最悪の想像が頭に浮かぶ。
「ハトちゃーん! あの人啄んじゃえー!」
かといって対抗策など出せるはずもなく、続く平和王の第二撃が襲う。
両の手を、水を掬う形に合わせ、美羽を射線上に息を吐く。
プネウマ。それは数ある創造原理の一つ。
神話では、神は泥人形である人間に息を吹き込み、その息を元にして人は活動し始める。
シャロの息は純白のハトの姿をとり、無数の翼が空を叩く。
視界の八割を覆い尽くす程の飛翔。
その数もさることながら、驚愕すべきはその質。
一体一体が美羽と同質量を誇る、平和の象徴。
さながら超速の弾丸。視認することもできず、頭部を穿たれ胸に大きな空洞を開け、四肢をもがれむしられていく。
全身に穴が空く。ハトの群れが通り過ぎた後、残った肉体は一割にも満たなかった。
それでもその事実を破壊し、無事、右腕と左脚が欠損した程度にまで身体を取り戻す。
平和の象徴とは一体? そんな疑問が脳裏をかすめるが、今はそんなことを考えている場合ではない。
既に、シャロは三撃目を用意している。
手に持っている安物のメガホンを手に、目の前の美羽を無視してシャロは虚空に呼びかける。
「皆さんー。平和好きですかー?
好きなら私と一緒に叫びましょー!
せーの、LOVEアアアァァァァァァンンンンンンド――
PEACEEEEE!!!!!
その大絶叫が、メガホンを通して世界全土に伝わった。
声は振動波となり、彼女を中心に破壊が伝播する。
無色透明で放射状の壁が、万有を塵一つに至るまで根絶していく。
無論、美羽にも無色の壁が迫る。
それに対して何もすることはできない。
足掻くことも、抗うことも、立ち向かうことも、戦うことも。
平和王の顕現はそういうものだから。
攻撃も防御も、それが戦闘のためなら一切許可しない。
なぜなら戦乱は平和を乱すから。平和という最優先原則に背くから。
ゆえに認めない。許さない。させてなるものか、さっさと死ね。
だから美羽は音の壁に、真っ向から衝突せざるを得なかった。
全身が消し飛ばされそうな程の、絶大なんて言葉を通り越した力。
顔を庇った腕が一瞬にして消滅する。防御は出来ないため、自らの全霊格をもってそれに対抗する。
これのどこが平和だ! 虐殺と何が違うのかぜひ教えてほしい!
そう叫んでも意味がないことくらい、美羽も気づき始めていた。
刹那にも満たない鬩ぎ合いの結果、結羽が弾かれ宙に身体をさらした。
遥か遠く。隕石のような勢いでクレーターを作り美羽は落下。
もはやどんな場所なのか分からない場所で、美羽は立ち上がろうとする。
「ぁっ、ぅあ・・・・・」
けど、手が動かない。指先一本動かすことすら難しい。
咎人のたった三撃で限界が訪れたのか、身体が動かない。魂を燃やせない。
この現状は圧倒。あるいは虐殺。
一体直前までの戦闘は何だったのか。
熾天使同士の戦闘はこの世の何よりも苛烈であり、宇宙の始まりから終わりまでに放たれる全エネルギー量を一撃で凌駕する力のぶつかり合い。
美姫との戦闘はまさにそう形容するのにふさわしく、二人の激突で葦の国の五割が吹き飛んでもおかしくはなかった。
だが、平和王の一挙一動はそれすら超えている。ただの一撃が美羽を万は鏖殺して余りあり、許容量を超えるダメージを雨霰のように放ってくる。
結果、全身が壊滅。四肢は千切れ、頭部も右半分が吹き飛んでいる。
とっくの昔に出血の限界量を超え、それでも止めどなく流れ続ける血。
か細い呼吸のたびに血の泡が出る。目も輝きをなくし、死人のものに変わっていく。
百王は一応熾天使の枠内であるはず。つまり存在の格においては対等。
なのに、あまりにも開いている実力差。
覚醒したファルファレナと比べても遜色ないどころか、むしろ・・・・・・。
それも当然。彼女は百王の一柱。平和王・シャロ。
指一本使うことなく、その気になれば一瞥しただけで葦の国そのものを潰す規格外の眼力。
腕を振れば数万の熾天使が滅び、握りしめた拳の全力を喰らえばどうなるかなど想像に難くない。
その肉体強度は熾天使の枠を逸脱しており、頑強さもそれに準ずる。
きっと美羽や蛍の如何なる必殺を用意しようと、彼女は防壁すら使うことなく無傷で乗り切るだろう。
これまで兆を超える戦闘狂共を粉砕し、京を超える数の世界を破壊してきた彼女に対抗できる者など、それこそ一握りの者しか存在しない。
加えて、彼女の精神性は狂気の果てに極まっている。
明鏡止水、没我の境地、悟り、涅槃・・・・・・。古今東西様々な名称で呼ばれている精神の在り方、その極致。
この域にある者は一切の精神干渉を無効化しはね除け、不変不動の心境を実現する。
完結していると同時に完成している。独自の色を描き、独自の法則で占められたその精神構造。
彼女の心を見てしまった者は、その黄金比のように完成された世界観に染められ、自他の境界が崩壊する。
すなわち彼女の思想に、価値観に100%同意し、完全に同調してそれを常識と思って相異ない状態になる。
精神面だけでいうなら、平和王が二人いることになることを意味する。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。その言葉通りに、シャロという平和の深淵に染め上げられるのだ。
そしてそんな要素が塵芥か何かに思えてしまうのが彼女の顕現。
『全ては戦乱なき永遠平和のために』
戦闘の停止。戦乱の排除。
全ての戦闘行為が終焉を迎え、世界から強制的に争いの概念が消滅する。
誰も殺せない。傷つけられない。言葉による中傷も、果てには生存のための狩りすらできない。
こと戦闘においてはそれは最悪の能力であり、もはやパワーとかスピードとか能力とか、そういう勝つための要素が馬鹿馬鹿しく思える。
この顕現の厄介さゆえに、高天原ですら彼女の進行を止めることは難しいのだから。
今回の、葦の国への襲来だって、本人は平和を伝えるための宣伝としか思っていない。
堅洲国において殺し合う鼠共を殺し、葦の国でさらに殺し、随神とすら殺し合う。
全ては平和のために。そのためにただ一人で、三界の全てを敵に回す孤立無援。
だからこそ、彼女は百王になれたのかもしれない。
「さぁーて、ぼちぼちかなー?」
自転車を漕ぎながら、倒れ伏す美羽の前に平和王・シャロが現れる。
美羽の惨状を目の当たりにしても、その顔は一㎜たりとも歪むことはない。
自転車を降りて、トコトコと不用心に近づく。
そして、這いつくばる美羽を見下ろし、満面の笑みで告げた。
「いいですか? 平和って大事なんですよー?
だーれも無意味に死ぬことはないし、皆笑顔でニコニコハッピーだし、良いことずくめなんですからー?
君だって嫌でしょ? 大好きな人や家族と一緒にいて、その日々を邪魔されたくないですよね?
私達は争うために産まれたのではなく、平和の安寧を享受するために産まれたんです。
LOVE&PIECE。これすなわち宇宙の真理です。
そのことを次があったら覚えててね」
言いたいことを言いたいだけ言って、シャロはなんの躊躇もなく片足を上げる。
意味は明白。このまま美羽に引導を渡すつもりだ。
平和を諭しておいて、自らはその暴力で無理矢理に平和を築く。
どこまでも自分勝手で、どこまでも理不尽に世界を踏み躙る。
美羽がこれまで出会った者の中で、ここまで咎人に相応しい者は存在しない。
それは所業の残酷さや被害の大きさだけではない。そのかけ離れた魂の在り方が、ゾッとする程に『違う』と感じさせるのだ。
助けなど来ない。
奇蹟など起きはしない。
「じゃ、さよならー!」
彼女は快晴の笑顔のまま、死を宣告した。
次回、奇蹟は起きないが悲劇は起きる