第三十三話 葦の国防衛戦⑪
前回、灰かぶり姫
世界が震え、戦慄し、地獄の到来を絶叫と共に迎え入れる。
蔓延する狂気。充満する悪意の総量は、それまでの比ではない。
美羽の言葉で、その顕現が発動し。
途端に、アデレードの身が地に叩きつけられた。
(!・・・・!!?・・・・・・!!?!?!?!!)
驚愕するアデレードは何が起きたのか思考するが、しかしそれは叶わない。
思考ができない。言葉を発することがない。立ち上がることすらできはしない。
どころか自らの身体が、今にも縮れて粒子レベルで分解しそうなほどに、体内の法則がバラバラになって瓦解している。
つまり、自らが消滅しないように抑えつけるのに精一杯だった。
美羽を圧倒していたアデレードが、今地に顔をつけ、指一本動かせない異常事態。
それを成し遂げた美羽の顕現は、おそらく彼女が有する全ての顕現の中でも、トップクラスに剣呑で凶悪。
深淵を手にした美羽が破壊したのは、世界の秩序に他ならない。
秩序、論理、摂理、因果がめちゃくちゃに乱れる。
美羽の感知できる範囲内では、全ての法則が千切れて消え、代わりに蔓延るのは混沌の海。
ではそれを喰らったらどうなるか?
まずまともな思考ができない。
体は痙攣し、自らの意図した通りに動かず、臓腑が機能を停止する。
肺は空気を取り込むことを止め、神経は伝達を停止する。心臓は鼓動を停止し、全身に血を送らない。それどころか逆流し、全身の弁を破壊する。
自らを構成する原子や粒子は、消失し分離しを超高速で繰り返す。下手したら空中分解もありえるだろう。今のアデレードのように。
そして、まともに動くこともできない。
相手を視認し、相手を殺すべく行動に移す。悪想零落はそれを阻害し、決してその結果に到達させない。
なぜなら相手を見るという行為も、殺そうとする行為も非常に論理的かつ因果的であるから。
そこには筋道立った理論や原理が確として存在する。
それを狂わされるというのは、一切の行動ができず這いつくばることしか許さない。それを意味する。
よってこれの前では、攻撃・防御・回避・補助・思考の全てが意味を成さない。
全ての存在は因果的かつ論理的な思考を否が応でも有する。
だから例え思考回路が完全に狂っていて、常人からすれば意味不明で理解不能な行動をする者がいるとして、誰であれこの顕現から逃れられはしない。
例えば、殺人鬼が人を殺したいと思い、そして実際に殺す。
事の是非はともかく、その言動は一貫的で因果的。〇〇をしたいのだから△△するという公式が成り立っている。
相手がどれだけ強力な存在であろうと、それは同じ。
現にアデレードもそう。顕現の行使もままならず、どころか存在の維持すら満足にできていない。
打ち上げられた魚だ。異なる環境下に突然放り出された生物ほど、弱々しいものはない。
悪想零落も周囲の環境を混沌に沈める以上、それと変わりない。
この環境内で無事なのは美羽だけ。彼女だけは悪想零落の内にいても、それまでと同じように動くことができる。
顕現の行使者ゆえか、それとも他に何が理由があるのか。
ともかく、これで咎人の無力化には成功した。
美羽が顕現を解かない限り、アデレードは地を這いつくばり続けるだろう。
「終わりです」
聞こえてはいない。彼女の内に入った情報は、それを理解しようとしても論理的な思考が形成できずに瓦解する。
きっと視覚も嗅覚も、感覚の全てが役に立っていない。
だからこれは、仕事が終わって一息つくのと同じもの。
この先は、どうすればいいか。
生殺与奪の権利は美羽にある。
殺すもよし。堅洲国に帰すもよし。どちらも美羽にとっては難色を示すに値する選択。
二度と葦の国に来ないよう、契約することができればそれが一番なのだが、この状況ではそれも無理だろう。
海から打ち上げられた魚に対して、ねえ今からお話しよう、と言うくらい馬鹿げたことだ。
かといって悪想零落を解いたら解いたで恐ろしい。アデレードが即座に復帰し、また戦闘が行われるかもしれない。
悩む。いっそ高天原が来るまでこのままを維持しようか?
いや、それもどうかと思う。仮にも自分は粛正者であり、咎人粛正の裁量を任されているのだ。
結局決めるのは自分。
事前にこういう状況下での行動を決めておけば良かったと、後悔すれど後の祭り。
『だからまあ、案外自分のありのままを吐露すればいいと思うぞ。
相手を許せないのなら許せないで。どうしても殺したくないのなら殺さないで』
その時蘇ったのは、あの時の焔君の言葉。
私は・・・・・・・・・・
・・・・・・・駄目だ、どうしても無理だ。
彼女は直接的な被害を出してはいない。彼女が収集した人も、今は各地に散らばっている。
他ならぬアデレードがそうしたのだ。美しいものを戦闘に巻き込んではいけないという配慮によって。
そしてほどなく高天原による改変が起こる。魂を奪われていない以上、損害はゼロに等しい。
今回の件は誰も覚えないし、その傷も綺麗さっぱり消え去る。
だからといって何でも許されるというわけではないが、幸い誰も死ななかったのなら、無血のままに終わる結末もあっていいのではないか。
他の理由もある。
壊した者は絶対に忘れない。それは私が自分に課した鉄の掟で、だからこそそれにやすやすと一人付け加えるなんてことはしたくない。
私への損害? そんなもの別にないも同じだ。殺し殺されの場である以上、死ぬ覚悟も傷つく覚悟もできてる。今さら不平など言いはしない。
決めた。悪想零落を解除しよう。それで再びアデレードが襲いかかってこようと、再び発動すればいい。
そうして諦めてもらおう。そして二度と葦の国を襲わないように契約を交そう。
・・・・・・綺麗って言ってくれたし。
そうして、美羽が悪想零落の顕現を解いたのと、
それが現れたのは、ほぼ同タイミングだった。
美羽達の上空1000メートル。
戦火の匂いを嗅ぎつけ、次元を突き破ったのは一台の自転車だった。
それは、現れた途端に重力に引かれ自由落下を始めて――
突然、空から降ってきた何かが、地に伏すアデレードを押し潰した。
「なっ――!」
グシャッ!! と、肉が潰れる音。舞い散る血肉。そして魂が壊れる音。
美羽は驚愕した。悪想零落の顕現を解かれ、自由の身になった美姫の上にピンポイントで自転車が堕ちてきた。
「がぁ、あっ!!
あ、あなたっ、はッ――!!!」
身体を踏み潰され、大量の血を撒き散らしたアデレードが、その目を大きく見開く。
美羽の見間違いでなければ、その目には驚愕以上に多分の恐怖が含まれていた。
しかしそれも一瞬。自転車の前輪が一度浮かび、再度美姫の頭蓋に叩き込まれる。
ブグジャッ!! と一際大きい音が響いて、それきりアデレードの動きは止まった。
美の極致にいた美姫が、有無を言わさずただの肉片となり果てた。
その魂は本体から抜け出し、自らを殺した者の魂に喰らわれ、融合。一つとなる。
今まさに美姫を殺し喰らったそれは、自転車にまたがったまま、喜色満面の笑みを作った。
「あっあー、テステス。
こんにちはー!
突然ですけど、争い事はいけませんよー!」
風になびく、緑と黄の混じった髪。
臍を出した上着とショートパンツは、彼女の健康的な肌の美しさを見せつけている。
その手には黄色い安物のメガホン。
アデレードを押し潰したかご付きの自転車は、平凡な作りにも関わらず、ファルファレナの獲物である槍と同等かそれ以上の殺戮の匂いを纏っている。
精彩を放つその女性を視認した瞬間、まず襲ってきたのは戦慄。
脳髄から背骨を伝い、足の指に至るまで染み渡る恐怖。絶望。
幾多もの難行と死と痛みと激戦を乗り越えてきた美羽の魂を、根底から揺るがし震え上がらせるその脅威。
彼女は髪を掻き上げ、メガホンを口にあてる。その一挙一動を見逃すことを、目の前の女性への恐怖が許さない。
「平和王のシャロっていいまーす!
なーんか私の許可なくどんぱちやってるので仲裁しに来ました(^o^)!」
その背後に『絶対平和』と大きく文字を浮かび上がらせ、女性は絶望の名乗りを上げた。
次回、平和王