第三十一話 葦の国防衛戦⑨
前回、美の宮殿
コミュニティ・カロカガティア。
それは異界、ニライカナイに存在するコミュニティの一つ。
その目的も理想も、単純明快でただ一つ。
すなわち、美しさこそが全て。
美こそ絶対の真理であり、無謬の普遍命題。
美しさに善も悪もない。美しいという事実はそれだけで正しい。
それはコミュニティ構成員の心構えという意味だけでなく、実際に全員がそうなっている。
カロカガティアに属する者はみな総じて、狂的なまでに美を追い求める求道者。
そのためなら女子供を億単位で虐殺し、その皮を剥がして軟膏を作るなどまだ規模が小さい方。
千年を超える修行に専念する者もいる。身体改造を繰り返し、自分を理想像そのものと同置する者もいる。
絶世の美形が平均以下であり、例えようのない美貌はまさに神々の如し。
そんなカロカガティアに属する者たちの中でも、さらに『美姫』と呼ばれる存在がいる。
全員が人外じみた異次元の美しさを有する、美の囚人であり美の化身。
その姿を一目見ただけで心臓が破裂し、眼球と肌が焼け爛れるなどまだマシ。
拝謁を賜った幸運な者が、心の底からの隷属を誓い、一生を捧げることに躊躇いはない。
吐息は澄み渡る山々の大気と薔薇の香り。その指先が触れれば不浄極まる泥沼であろうと、美が感染し澄み渡る清純な湖へと変わる。
高位の美姫ともなれば、常人の目には人型の光としか映らないという。
規格外の美貌はまさに美の暴力と称して違いない。
美が何よりの真理である以上、当然その美しさがコミュニティ内の階級となっている。
頂点に立つ者が美の極致である『傾国王』。
そして次席に位置する一級の美姫たち。七大天使の一人がここに位置することは有名な話だ。
そこから二級、三級と位は下がり、三級で打ち止め。
たとえ三級の美姫であろうと、万を超える給仕と従者が与えられ、コミュニティ内での様々な待遇が与えられる。
そんなカロカガティアの活動方針の一つに、美の収集がある。
『全ての美は我が元に集うべき』。コミュニティトップの傾国王の言葉は絶対であり、美姫たちはそのために葦の国や堅洲国に向かい、美しいものを集める。
美男美女はもちろん、宝石や精妙な建築、整った数式や自然の光景まで、一切を収奪するのだ。
ただ収集するだけではなく、ものを磨き上げることも彼女らの仕事。
道端に転がっている石ころ一つだって、美姫たちが磨けば常識外の神玉となり、その価値基準はニライカナイの基準で数千億を下らない。
そのようなわけで、今回の葦の国への襲来は、彼女にとって美の収集という題目がある。
今、美羽の眼前にいる美姫は自らを二級と名乗った。
その実力は未知数。彼女の上――、一級の美姫に七大天使が一人在籍しているが、だからといってアデレードがそれに劣るとは限らない。
カロカガティアの階級制度。その判断基準は美しさだけ。
つまり強さも弱さも度外視されている。だから実力において最底辺の天使であろうと、不細工な熾天使を押しのけ美姫になることは可能だ。
よって個体の戦闘力は、戦闘中に把握するしかない。
しかし葦の国において収奪をするのであれば、当然粛正者との交戦も十分にありえる。
ならば実力者であることは間違いない。それは美羽でも察しがついた。
そして、開戦を告げたのはアデレードの方だった。
先手を取った彼女は玉座に座りながら、絢爛な装飾品を着けた服を揺らす。
光るは、その妖花な魔瞳。
押し寄せてきたのは、快楽の津波だった。
「っ!!!」
それに思わず、美羽は片膝をつく。
全身が疼く。意図せず心臓が逸り、まともに呼吸もできなくなる。
何兆倍にも倍増する感覚器。擦れる服ですら極大の快楽をもたらし、遠くの川のせせらぎが大音量の洪水となって聞こえてくる。
ただでさえ沸騰しかけている脳が許容量を超え、物理的に融解し目と口から液体となって流れ出す。
神経は焼き切れ軒並みショート。まるで落雷が落ちたかのような衝撃が絶え間なく全身を襲う。
どころか内臓器官が骨に至るまでドロドロに溶けて、さながら蛹の中身だ。
例えるのならゲロ甘のケーキを食べたよう。最も、今は舌どころか全身が痙攣しているが。
体内を爆走する快楽。常人ならば無数に死に絶える情報量。
それは泥のように、美羽を快楽の底へ引きずり込もうとする。
しかし煩悶は一瞬。美羽は瞬時に対応し、その快楽を自らの常識に落とし込み常態化。
それは自らの生態環境をまるまると書き換える所業に等しい。地上でしか生きられない人間が、海の中で生きるよう瞬時に進化したかのような絶技。
それによって平時の状態を取り戻し、美羽は膝をついた姿勢のままスタート。
名乗りはした。先手はくれてやった。ならば後は砕くのみ。
腕と脚を黒化し、玉座にゆったりとくつろぐアデレードに対して、その凶爪を伸ばす。
つんざく破壊の衝撃が、豪華絢爛な玉座ごと宮殿の3割を破壊する。
だが直撃した感触がない。手は空を掴んだようで、外したという感はやはり当たった。
件の咎人は、美羽の背後で華麗に着地を決めていた。
それを確認した瞬間、身体を捻り、掌握した壊滅の顕現を再度解き放つ。
「クスクス、死の舞踏でも踊りましょうか」
華奢なその身に迫る破壊の塊を見て、しかし端正な美姫の顔は崩れない。
ドレスを揺らして翻す。トントンと足先を叩き、見えるのは童話に出てくる輝くガラスの靴。
そして、舞った。
神楽舞という言葉があるように、舞踊とは元々宗教儀式としての側面がある。
日本の神話では、天岩戸神話が有名だ。
スサノオ神の暴挙を畏れ、太陽神アマテラスは天岩戸に隠れた。
その結果世界は闇に包まれ、地上では悪神が闊歩するようになる。
困り果てた神々は話し合い、アマテラス神を岩戸から出すために策を考える。
そして、飲めや歌えの大騒ぎが行われた。
アメノウズメ神は胸をさらけ出して、岩戸の前で舞う。
神々の陽気な声に誘われたアマテラス神は岩戸を開け、その瞬間岩戸の前で待機していた神に太陽神が引きずり出される。そういう話だ。
この話以外にも、シャーマンの踊りなど、舞踊は宗教と密接に関わっている。
ゆえにその行為には並々ならぬ霊験と神秘が込められている。
宇宙との合一。神威の天賜。類感魔術による自らの疑似神格化。その他まだまだ効能は存在する。
無論、ただの一般人がそんな領域にたどり着けるわけがない。
数年の修行を積んだ巫女でさえ、舞踊という概念に付属するその神性の、ほんの一端に掠る程度。
だが今それを成すのはニライカナイに名のある美姫。
その身に神を降ろしたかのような、軽やかにして類がない神楽は、壊滅の波動が直撃しようがまるで透化したかのように衝撃を明後日の方向に受け流す。
淑女ならばダンスの一つや二つ極めて当然。それが自らの美をさらに飾り立てるものならばなおさらに。
悠然なる舞踊は術利と化して彼女の武器となる。
黄金に輝く室内で、優雅に美の大輪を咲かせるアデレード。
宮殿の内装と合わさり、ピアノの旋律でも聞こえてきそうな様相が場を支配する。
自分の攻撃を二度も避けられた美羽は、得意の接近戦に持ち込んで、その爪を研ぎ澄ます。
弓のようにしなり、豪速と共に放たれる黒の爪。
大気を引き裂き空間を破壊して、ミリ単位の誤差もなくアデレードの胸元に吸い込まれた。
当たったはず。直撃したはず。
しかし脅威の舞踏は、容易く破壊の波を受け流す。
傍目から見れば間違いなくその胴体を貫いているのに、まるで人の姿をした霧を殴っているかのような手応えのなさ。
当たっているのに当たっていない。未知の感覚に疑問を抱きながら、爪に続くは黒く武装した脚。
刃のように鋭利な脚閃が、理を崩して必殺を叩き込む。
だが結果は同じ。その爪先を軽くいなすばかりか、アデレードはそれを利用しさらに回転数を上げる。
まるで風に吹かれる木の葉。回る様子は独楽。
なんの痛痒も与えられない。それを確認した美羽は、次の手を打つ。
(開け不浄門。汝が真名を我が呼ぶ)
思考で発動し、昏の世界と繋がった美羽の意識。
その呼びかけに応じ、光射さぬ暗闇に座す霊体たちが、自らの霊格と権能を美羽に貢ぎ捧げる。
星を巡る衛星のように、美羽の周囲に浮かぶ七十二を超える魔紋。
爆発的に膨張する美羽の霊格。付属する数多の権能。
覚醒したファルファレナとさえ渡り合えたその実力が、今完全に解き放たれる。
そこから繰出される拳打の爆撃は先ほどまでの比ではない。
無拍子の域で放たれる刺突、牙噛、殴打、足蹴、穿鑿。暴力の嵐が弾幕の如く美姫に迫り、空間を超越しているため360℃全方向から殺到する。
一撃一撃が世界に現出するあらゆる災害を上回り、熾天使にすら致命傷を与える暴虐を有している。
比喩では無く、葦の国を底から震撼させる乾坤一擲。
その全てが全身全霊。直感の示した最適解のルートをなぞるように、アデレード本人すら意図しない隙を、明確に貫く。
予備動作、僅かな身の捻り、一動作ごとに生じる衝撃波。
それだけで美羽以下の階位にある者が、無数に死に絶える絶大の圧力が発生。
加えて、美羽が獲得した権能も最速でその大能を行使する。
過去視によるアデレードの行動分析。未来視によるこれからの事前察知。
運命回避による自身への攻撃の回避。肉体操作。精神操作。記憶操作。生物変化。魅了。即死。麻痺。凍。炎。雷。風・・・・・・・。
さらに自身の魔術や術技のフルコース。
闇に沈んだ床壁天井。水面が揺れれば、そこから産まれるのは漆黒の魔獣たち。
数十㎝の小動物の姿もあれば、50mを超える巨躯の魔獣もいる。
共通するのはそのどれもが、絶大な力を有した個体であること。
星を食み銀河を貪り宇宙を埋め尽くす。牙を剥けば同格であろうと傷を与え、群がれば獲物を骨一つ残らず喰らい尽くす。
身に宿す超高濃度の陰気が空間を占める。
それは腐敗と呪詛と強酸と猛毒と病と放射能の形で顕現し、そのどれもが致死量を遙か超え、対象を速やかに死に叩き堕とす。
美羽の身を覆う陰気と破壊の衣。それに触れれば即滅は不可避であり、攻防一体の鎧となって反撃の余地すら消滅させる。
個の暴力に加え、数の暴力も加えたそれはまさに災害。
攻め一辺倒のごり押しは、しかし相手の反撃の機会を削る。
攻撃が最大の防御と言わんばかりの超攻勢。
圧倒的という言葉ではとうてい表せない暴威と頭抜けた武威。こと破壊に関する事象であれば、美羽は桃花の中で随一を誇る。
だが、
それでも、
「ふふふ、良くてよ。たまにはこれくらい激しい踊りも舞うものですわ」
アデレードは回る。回り続ける。
さながら羽ばたく蝶のように優雅に、タップを刻み美羽の暴虐を掻い潜り続ける。
拳と爪と蹴りの嵐を身を翻し回避する。魔術で生み出された凶器の類は「彼女に傷をつけるなど恐れ多い」とばかりに地に墜落。魔獣は彼女の身振り手振りで魅力され、わずか一瞬で黒い泥に還る。能力によって生み出された現象の数々がアデレードに届かない。
ここでようやく気づいた。彼女が支配しているのはこの場だ。
自分と相手の力。それが流れる場。その流動。
自分と相手の彼我の間。戦意が渦巻く戦場。境界がどこまでかは分からないが、彼女は舞うことでそれらを支配する。
さながら舞踏会。一人で踊るのも楽しいが、二人協力して作り上げる踊りもまた筆舌に尽くしがたい悦楽があるもの。
殺し合いの惨状を無視すれば、回転する美姫に合わせて美羽自らも追いすがるその様は、空から見ればまさしくペアで踊る社交ダンスそのもの。相手がリードし、自らもそれに付き合わされる。踊らされているとはまさにこのこと。
よって美羽の力がアデレードに乗る。一挙一動までも利用され、力の流れが彼女に集中する。
熾天使すら一撃で破壊する美羽の攻撃を、そのようにして受け流していたのだ。
端麗なその笑顔。それを驚愕で歪ませるべく、美羽は彼女を睨む。
空間に充満していた闇黒が、火種の如く美羽の殺気に反応し、起爆。
発生したのは、陰気の爆発。その奔流。
世界を穢しつくし、高次の汚染を発生させ、その空間ごと奈落の奥底に変貌させる。
人間がこれを喰らえば、まずその衝撃で無数に爆砕し、次いで陰の汚染で無数に千切れ、死した後であろうと無数に死を迎える。
前方の空間を黒い爆発が覆い尽くし、まず逃げ場のない火力に美姫がさらされたことは間違いない。
しかし美羽もアデレードも止まらない。猛毒の煙を突き破り、もはや九割瓦解した宮殿の床を、二人は踊り続ける。
決定打がない。ならば強行突破する。
「El、――」
「あら、危ない」
左腕の黒が溶け落ち、右腕が吸収し巨人の腕を形成した瞬間に、アデレードの手がそれを遮った。
トンと押されただけで弾丸の如く吹き飛んだ美羽は、着弾と同時に火山のような噴煙を巻き上げる。
アデレードもただ踊り狂っていたわけではない。美羽の動きをリードし、己の土台に引き寄せながら、彼女の一挙一動を観察していた。
明らかな必殺技を見逃すわけがない。巨腕を形成する刹那以下のタイミングを、彼女は容易に刺し貫いた。
しかしそれも一瞬。着弾の瞬間には既にアデレードの後ろに回っていた美羽は、名剣の如く鋭いその黒脚を一閃。美姫の細い首を両断すべく走らせる。
霧さえ切り裂く脚閃が、その首に触れた瞬間に空を切る。
衝撃も威力も全て受け流され、空中を蹴った美羽は、美姫と距離を取る。
「クスクス。怖い怖い。
一度でも触れてしまえば私が壊れてしまいそう」
コロコロと軽やかな鈴の音の如く、アデレードは笑う。
その笑み。その声。宝石の如きその瞳。
彼女の情報はその一つ一つが猛毒だ。
彼女を見る目が、声を聞く耳が、芳香を嗅ぐ鼻が。彼女に溺れそうになる全感覚がその異常を伝えている。
美しいものや可愛いものを見れば癒やされるように、感覚と魂に働きかける美という情報。
猫を見るともふもふしたいと思うものだが、アデレードはその次元が違う。
今すぐにでも跪きたい。心の底から屈したい。
総身が産毛立ち、理性を奪う美という幸福。
それが美羽から機動力を奪っている。
癒やしという名の猛毒。美という名の浸蝕。
ある意味それは、次元を操ったり星を消し飛ばしたり、そんな分かりやすい暴力よりもよっぽど危険なものかもしれない。
度が過ぎるというのも考えものだと、美羽は一つ学んだ。
そして、学習しながらも攻撃の手は止めない。
アデレードとは異なる種類の猛毒が、体内から外に飛び出る。
(顕現 穢る暴風破壊の侵犯)
顕現は本来は言葉で唱え、発動するもの。それは言葉の持つ力が、顕現と密接に関係するから。
『名前』というものは親や周囲から与えられるだけでなく、その存在を言い表す唯一の標識となる。
火を水と呼んだりはしない。名は体を表わし、それは今までの顕現の例から察せられる。
そこにあるモノに対して、名前という外殻を与える。
それは対象の本質を見出し、確固たるものに固定し接続するパスワード。
仮に顕現を違った名前で呼んでしまえば、大きくその力は減衰してしまう。
考えてみれば当然の話だ。目の前にいるのは田中さんなのに、佐藤さんと呼んでしまったら疑問符しか浮かばないだろう。
それと同じで、言霊や詠唱の力はそれだけ重要だということ。
無詠唱の代償として威力は減じるが、不意を突くことにおいては優れている。
内側から黒紫の波動は、宮殿内を完全に闇に沈める。
美羽の顕現は『破壊』の色が濃く、それゆえ各派生顕現は負の言霊をそれぞれ冠する。
当然アデレードにも災禍は降りかかる。その麗しい指先に触れた途端に全身を侵す猛毒。
指から腕に、腕から胴に、顕現は見目麗しいその身を浸蝕していく。
瞬く間にアデレードは黒一色で染まり果てた。
虫が全身を這うような感覚。主要な機能が破壊され、体の内が手でかき回されたかのように攪乱。痒い痛い熱い冷たい苦しい・・・・・発狂死しかねない激痛がその総身を駆け巡る。
しかし美姫は発想が違った。
優雅な笑みは不変のまま、彼女は手を伸ばす。
皮膚に刻まれ、魂の中枢にまで浸蝕した呪いの紋様は、美姫が一撫でしただけで消え去った。
どころか体内から抽出した黒紫のマーブル模様はその指先にあり、アデレードはそれを自らの服に着色する。
輝くドレスに黒紫が射し、異なる色彩が彩る。
元々の美しさを邪魔するどころか、見事に調和しさらなる美へと押し上げる神業を、美羽の前で披露してみせた。
激痛や悪性の顕現ですら、自らの美に変えてしまうその在り方。
見た目こそ端麗な少女だが、彼女もまた他の咎人と同じく狂っていると思っていい。
「送りものをありがとう。
感謝するわ、美羽」
親しげに名を呼ぶアデレードを無視し、美羽は再度迫る。
それまでの暴威に加えて、四方八方から襲いかかる黒紫の浸蝕。
通用しなかった技が再度通じるとは思わないが、手数にはなる。
「さてさて、あまり遊びすぎると随神の彼らが来るし。
もう少し私が有利になるように、盤面を変えてみましょうか」
貴方ともどうせ一期一会だろうし。
そう彼女は付け加え、その笑みを深くする。
一変する空気。震える大気。明らかな異常事態を示唆する世界の脈動。
アデレードを中心に新たな風が流れ始める。
美という猛毒が物質化するほどに凝縮。平時の数万倍の密度を有するそれが、形を持ってヴェールのように彼女を覆う。
ドレスが変わる。さらに美麗に、さらに華麗に、この世の美の全てを凌駕するほどに。
『顕現 灰かぶり姫』
その時、森羅万象が跪いた。
次回、シンデレラ




