第二十四話 葦の国防衛戦②
前回、奇怪な平和少女
夜。薄暗い廃路地。
動物、木々に至るまで寝静まった丑三つ時。
錆びた鉄と油の匂いが充満し、土のない舗道には草木の一つたりとも生える余地はない。
街全体を覆うように築かれた壁は、砂漠化した外と内部を区切る、全長、厚さ共に数十メートルもの巨大さと堅牢さを誇る。
その内部は隅々まで人造物で作り込まれていた。
事実、その街は巨大な工場集積地区であった。
大きく伸びた数百の煙突から煙を排出し、日夜稼働し続ける生産工場。
天に向かって数多の塔が伸びる様は、まるで工場の摩天楼。
ある種、人造のファンタジーのような光景でもある。
そんな地下奥深くの暗闇。奈落のように底の見えない薄暗いその中に、橋のようにいくつものパイプが浮かんでいる。
その地下は工場で出た排出物――有害な化学物質の類や不要となった廃棄物――が行き着く終着駅であり、当然万病と汚染物質の温床だ。
そこに向かおうとする物好きは存在しない。その街の住人からは便利なゴミ箱として利用される反面、臭いものに蓋をするように誰もが目を背ける。
夜闇を裂くように走る影は計三つ。
男性が2人。
大柄なスキンヘッドの黒人男性。そして髭を生やした40代前半の屈強な男。
そして女性が1人。
白いコートを纏っている。銀色の髪と瞳。その首、腕、足。そのどれもが枯れ木のように細く、可憐な花の如く脆弱であることを周囲の人間に主張している。
細い片腕を前を走る男性に掴まれ、半ば引きずられるように走る。
彼らはみな顕現者。
この街にある粛正機関・フォートの粛正者。
事情を知らない第三者からすれば誘拐とも見られる光景だが、彼らの意図はその真逆。
今手を引いてるこの女性を守るために、彼らは皆走っている。
誰から?
そんなもの、決まっている。
「ギャッハハハハハハハァッ!!!
逃げちゃあや~よぉ!!」
工場の摩天楼に木霊する大笑。
密集工場地帯の闇。月明かりがそれを照らし、同時に一つの影が浮かび上がる。
影は実体よりも大きくなり、その異形が工場の群れに映し出される。
人ではなかった。生物でもなかった。
木々で出来たひし形。その中央には大きな牙と舌がある。
そこから四方に細い根が伸びて、それが腕と脚の機能を全うする。
まるで口のついたミノムシ。あるいは藁人形。その発展形。
遥か後方に存在するその姿を視認し、大柄な黒人男性、ティモシーは舌打ちする。
「くそったれ。妨害なんて奴にはないも同じだ!
このままじゃ追いつかれるぜ、どうするビクター」
「黙って走れ! 奴は油断してやがる。
走りながらあの余裕満々の面に冷水ぶっかけてやる策を思いつきやがれ」
冗談言うな! と、ティモシーは毒づきながらも思考する。
しかしそれ以外に手がないことも事実。地の利はこちらにあるし、自分たちを追っているあの咎人はこちらを舐めている。
獲物を追い詰め狩る。徹底的にいたぶり、隅にまで追い詰め、嬲るように殺す。
それを楽しんでいることがよく分かる。
むかつく話ではあるが、そのおかげで今も自分たちが存命しているということは事実。
「ごめんなさい2人とも。私のせいで・・・・・・」
手を引かれ走っている少女。息を切らせながら、彼女は消えいりそうな声で呟く。
言葉が後ろに続くほど、その声は心に釘を打ち付けられるかの如く、途方もない心痛を感じさせる。
「謝る必要はねぇ。土下座して頭を沈み込まなきゃなんねぇのはあの糞ミノムシだ。
とにかく今は逃げるぞ。高天原の増援さえ来れば、あんな奴一瞬でミンチだからな」
はい。と、同じく消え入りそうな声で頷く少女。
あの咎人は彼らの手に負えない。だから逃走こそが最も彼らの生存に貢献する行為。
よって逃げる。逃げれば逃げるほど生存の可能性は上昇し、咎人にとって不利となる。
しかし、無血の逃走を許すほど、咎人の嗜虐心はぬるくはなかった。
三人が走る密集した廃工場。その隙間から飛び出した影があった。
それは幼虫。ミノムシの中身。
即興で作り上げた咎人の子供のようなものであり、本人からすれば戦闘の役には立たない。
だがそれは同格との戦闘に限られる。熾天使の身体の一部から分離したそれも正しく熾天使の位階であり、それより下位のものがどうにかできるものではない。
熊ほどの体躯を持つミノムシが、走るティモシーの胴体を貫き、その内臓を引きずり出したのがその証拠だ。
「よけろっ!」
咄嗟に女性を突き放したのは英断だった。
計五匹のミノムシは、ビクターとティモシーを狙い撃ちにして、その肉を抉り喰らう。
彼らは顕現を発動するも、効かない。
「ぐ、ああぁぁぁぁぁああああああああ!!!」
血を撒き散らし、牙を突き立てる巨大な虫を振りほどこうとするが、なんの冗談か微動だにしない。
その一匹一匹が2人の霊格を上回っている。
肉を抉り、進み、骨まで届いて臓腑を千切る。
生きながらに喰われるという途方もない激痛に、絶叫すら途絶え痛みから逃れようとのたうち回る。
勝てない。助からない。それを理解した後の2人の判断は速かった。
「ティモシーさんッ!! ビクターさんっ!!!」
「ぐぅ、行けェッ!!! 速く!!」
立ち止まった女性に、ティモシーとビクターは叫ぶ。
逡巡する女性は目に涙を浮かべながらも、しかし彼らの絶叫が命を賭けたものだと理解し、暗闇の奥深くにまで消えていく。
すると突如、ティモシーとビクターを襲うミノムシの動きが止まる。
自分の臓物に塗れた2人は、近くに何かがいることを察する。
それは熾天使。断じて天の使いではない。化け物だ。
ミノムシの巣。それに牙と舌がついたかのような異形が、2人を見下ろしていた。
「はぁぁぁぁぁぁろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ。
そしてぐっばい」
ボギッと、何かをもぐ音がその場に響いた。
■ ■ ■
「はぁ、はぁ、はぁ」
もう何十㎞走ったのだろうか。
女性は、光射す開けた場所に到着した。
その空間は円上に開いており、さながら環状交差点のように、幾多の通路がここに繋がっている。
過度に建造された工場の立地問題上、偶然生じてしまった空き空間。
そこにまで辿り着いた彼女は、背後を振り返り、そして2人の名を呟く。
「ティモシーさん・・・・・・・ビクターさん・・・・・・・・」
自分を庇って、そして、おそらく命を亡くしてしまった2人。
涙が溢れそうになる。結局、あの2人を殺してしまったのは私だ。
けど、立ち止まるわけにはいかない。
それは、命を賭けてくれた2人への裏切りになるから。
『ヒヒ』
だが、その声は頭上から聞こえた。
はっとして目を上に向ける。
暗くてよく見えないが、異様なその姿は視認できた。
そこには、空から降り注ぐ巨大なミノムシの群れ。
一匹一匹が大型犬を凌ぐ体躯。
その正体は、自分を追う、あの咎人の身体の一部。
その幼虫は、着地と同時に足に絡みつき、その動きを封じる。
自分に絡みつくその感触に、心臓が張り裂けてしまいそうなほどの恐怖を覚える。
体躯は女性の方が上。いかに手弱女の身体でも、その大きさの虫を蹴り上げることは可能な話。
しかしそんな常識が通用しない。まるで万力で締め上げられる圧力に、女性は死を覚悟する。
ああ、ここまでかと。女性が諦めたその時に、
サン! と、白い一閃がミノムシの群れを切り裂いた。
まとめて二分されたミノムシは、のたうちまわる暇もなく溶けて消滅する。
「あ、かはっ、ごほ、ごほっ!」
辛くも窮地を脱することができた女性は、まず締め上げられていた気道を確保し、身体全体に酸素を行き渡らせる。
そして、何があったのかと目を辺りに向ける。
それを成した張本人は、すぐ側にいた。
「大丈夫ですか?」
白髪の少年だった。年は16か17あたり。その目はエメラルド色。手に持つ長剣は圧倒的な存在感を放ちながらも、それを目視する自分に一切の危害を加えない。
むしろ自分を神聖な光で包み込むかの如く、恐怖に彩られた自分の心を慰撫し、安らげる。
何もかもを焼き尽くすのではなく、まるで蛍のように優しい光。女性は少年からそのような印象を受けた。
その少年が目を向けた瞬間に、締め付けられてできた痣も、全身を襲う激痛も消える。
その奇跡に戸惑いながらも、女性はその少年に問う。
「あな、たは・・・・・・?」
「粛正機関・桃花所属、白咲蛍と言います。
咎人の粛正のため、貴方がたの世界に訪れました」
必要なことを選りすぐった言葉だった。
蛍も女性の姿から、非常事態であることは理解した。だからこそ最短で、なおかつ優先度の高い内容だけをまずは提示した。
それは功を奏し、女性は時間をかけずに少年とその役割を理解することができた。
粛正機関。桃花の名は知らないが、自分たちと同じ粛正者という事実は、少なからず女性を安堵させた。
そして、咎人の粛正とは、今女性を追っているあれのことに違いない。
待ちわびていた高天原の援軍ではないが、地獄に仏とはまさにこのこと。
女性はそこで、自分だけ名乗っていないことに気づき、頭を下げながら名乗りを上げた。
「粛正機関・フォート所属――いえ、保護されていました。
顕現者のエメと言います。
先ほどは、助けていただき、ありがとうございました」
蛍はそこで、エメと名乗った女性を改めて見る。
外見は蛍より1、2歳年上。
白いコートから覗かせる首、腕、足。そのどれもが触れれば折れてしまいそうで、彼女の病弱な一面を蛍に理解させる。
青色に透き通る目は落ち着きなく上へ下へと動く。
突如現れた蛍のことを、同業者だと分かり安心しながらも、しかし完全には信用できていない。
それも当然か。姿形を変えられる咎人など腐るほど存在する。
もしかしたら目の前の蛍が咎人であるかも――という疑惑は捨てられない。
蛍もそれは承知で、だからこそ提言した。
「僕はこれから咎人の粛正に向かいます。
エメさんはこれからどうしますか?」
「わ、わたしは、咎人から逃げるためにこの最下層に向かいます」
そこで蛍は、女性が指し示した下を見る。
光の射さない奈落。どこまで続いているのか検討がつかない程の暗闇。
この下に潜伏する。正直気休めにすらならないのではと思ったが、聞けば最低限の結界を張れる魔術はあるらしい。
気配を消し、世界から自分という情報を消す結界術。
しかも奈落の底は複雑な空間で、とても一目で把握できるものではない。
時間稼ぎに、あそこ以上にもってこいの場所はないのだという。
「分かりました。咎人を粛正し次第、僕もすぐにそこへ向かいます。
そうしたら今後のことについて話し合いましょう。場合によっては――」
蛍の言葉は途中で途切れた。
その目は、エメが先ほど通ってきた通路から。
足音も聞こえず気配も感じなかったが、それでも蛍の第六感が危機を告げる。
「おいおいおい、逃がしなんてしねぇぇぇぇぇぜ。
せっかく見つけた激レアちゃんを、俺が逃がすわけねぇだろぉ」
影を突き破り、荒々しい下卑た声と共に出てきたのは異形。
ミノムシの巣に口がついた、あるいは目や鼻のない藁の人形。
中央から伸びる、いくつもの植物の根。
それだけなら堅洲国で、似たような姿形をした咎人をいくらでも見てきた。
だが、まるで顕示するかのように、無造作に放たれるその圧力。
初めてファルファレナと遭遇した時と寸分違わぬ威圧感だ。
そして、その手に持っているのは・・・・・・。
「ぁ」
蛍の背後から、小さくポツリと、エメの小さな声が漏れ出す。
だがそれに、絶叫すら上回る程の悲嘆と絶望が、耳を通して心に伝わってきた。
それを聞いた目の前の存在は、悪辣とした笑みを浮かべた。
なぜなら、その手にあるものは。
「あっれぇぇ、気がついちゃったかなぁ?
そうそうその通りですよぉ、愛しい愛しいティモシー君とビクター君ですよぉお」
粘ついた、そう表現することが最も的確な声で、咎人は手に持っているそれをエメによく見せる。
それは、紛れもなく、先ほどエメを庇ったティモシーとビクターの、頭部だった。
「いやぁぁ、最後の最後まで情けねぇ奴らだったよぉ。
ちょっっと弄っただけで泣き叫びながら漏らしやがったんだぜぇこいつらぁ。
ほぉら見ろよ。ゴミにゃあもってこいの間抜けな顔じゃねぇか」
咎人はその手に持つ二つの頭部をエメに対して見せびらかす。
その言葉通り、その二つの顔は恐怖と凄絶な痛みに歪み、もはや人とは思えない動物に似た表情で固まっていた。
「ぃや、やめて・・・・・・」
心が壊そうな、エメの悲痛な声を、咎人は全く意に介さない。
どころか喜んでさえいる。
見る者に修復不可能なトラウマを刻みこみ、それを乱雑に抉り、心の底まで踏み躙る。
この咎人はそれを楽しんでいる。典型的な外道の姿がここにあった。
「そんでぇえ? さっきは見なかった奴がいやがる。
なにお前? 俺の素敵なハンティング邪魔する気?」
「・・・・・・・君は?」
戯言をまったく相手にせず、蛍は咎人の名前を問う。
それに興を削がれたのか、咎人は手にしていた二つの生首を握り潰して、蛍に対して名乗りを上げる。
「スライ。スライだよ粛正者ぁ。
うん、うん。お前になら俺の顕現使ってもよさそうだなあ。
じゃあいっちょぉ楽しもうじゃねぇか!!」
根のような腕を何十本と広げ、咎人スライは呪音を口にする。
『顕現 最低に無価値な勝利』
「っ!!
エメさん!逃げてください。
僕が時間を稼ぎます」
「――っはい!」
呆然とかぶりを振っていたエメが、その言葉で現実に戻され、震える足に鞭打って最下層を目指す。
顕現を発動させた咎人に対して、走り去るエメを背後に蛍は構える。
成すべきことは一つ。目の前の咎人を、一刻も早く粛正すること。
次回、空虚で無意味で無価値で、そんな勝利




