第十八話 スキゾフレニア
気がつけば投稿を始めてから一年経っていた。
前回、契約を交す白剣。
ザザーザザザザザザザザーザザッッッザザザーザザザザーザザザー
脳髄を走るノイズが治まっていく。ひどく穏やかな気持ちだ。
同時にどうしようもない不安を煽られる。封印していたものを無理矢理こじ開けられるような不快感が、全てを知ってしまうと、その事実に僕が砕けてしまいそうな忌避感を感じるんだ。
ノイズが収まり、目の前には処刑場が映った。
僕は地に伏し、上から数人の大人に抑え込まれている。
処刑場にいるのは、一人残ったアンジュ。
処刑人がアンジュの元に向かい、その手に刃と連動する紐を持つ。
大丈夫。大丈夫だ。
この後僕は顕現を開花させアンジュを救う。
それが僕の保有している記憶。
アンジュの存在は嘘じゃない。この追体験を見届けて、僕はそれを証明する。
絶望に染まるアンジュの顔。その目から流れる涙を、すぐにでも拭ってあげたい。
広場に響く殺人の輪唱。民衆の声。
それを一身に受けて、最後にアンジュは僕を見た。
「え?」
零れる声は僕から。
だって彼女は、僕に向けて精一杯の笑顔を作っていたから。
恐怖を忘れるように無理矢理、まるで、泣きじゃくる僕を安心させるかのように。
「じゃあね、ローラン」
アンジュの口が、僕の名前を呟いてこわばる。
なんだこれは?知らない。知らないぞこんなこと。
まて、おかしい、ちょっと待ってくれ、なんだこれは、こんなこと、僕は――
疑問は一瞬。その間に。
ズドン!!!と、無常にも斬首の刃がその首に落ちた。
その数瞬が、まるでコマ送りのように断続的に進んで。
空に舞う鮮やかな血。コロコロ転がる頭部。
斬首された首から断面図を覗かせる、アンジュの死体。
「・・・・・・・・え?」
呆けた声は、民衆の大絶叫にかき消された。
握りこぶしを天に掲げ、隣人と歓喜の舞を踊り口々にはしゃぐ。
死んだ!死んだ!死んだ!死んだ!死んだ!死んだ!死んだ!死んだ!
卑しい貴族の娘が死んだ!貴族の血が一つ途絶えた!
歓声はいつまで鳴り響いたか。興奮冷め止まぬ民衆の中で、僕だけが死人のように冷えていった。
狂喜乱舞した民衆は、処刑台に昇って死体をさらに貶める。
殴り、蹴りつけ、踏みにじり、柔肌に刃を突き立て、唾を吐き、服を引ん剥いて、石を投げ、手足を引き千切って・・・・・・。怨みと怒りを爆発させた民衆の暴力は止まらない。
痛々しい青と赤で染まっていく三つの死体。幼い体が、美しい白肌が、見るも無惨に、暴力に晒され変化していく。
腕や脚はあらぬ方向へねじ曲がり、背中や腹部に大量の刃が剣山のように刺さって、内臓が飛び出し、棒で変形する頭部が変形するほど強く殴り、臀部の穴に棒切れを突っ込む。
棒の先端に落ちている生首を突き刺し、それを戦果のように高々と掲げる。
一つの光も宿さない虚ろな目は、まさしく死者のそれ。
満足したのか、やがて10分か20分かして、散り散りにどこかへ去っていく民衆。
僕を抑えていた大人がいなくなり、自由の身になった。
後に残った僕はただ、ピクリとも動かないアンジュの生首を、ずっと見ていた。
「僕は、騎士だ・・・・・・」
僕は歩いていた。歩きながら事実確認をしていた。
足を引きずるように歩く。よろめいて、何度か転倒する。
だけど、手の中の物は離さない。
「アンジュを守る、騎士だ」
片手に持っているのはアンジュ、の頭部。
断面から溢れ出る血を服が吸い、その生暖かさが伝わってくる。
よろめきながら進む足は誰のものか知らない家屋に到達した。
古びた扉を開けると、中には何も無い。
少し疲れた。ここで休もう。
壁にもたれかかり、手に持つアンジュの頭と顔を合わせる。
その顔は、僕に見せた笑顔をそのまま固定されている。
死んだときの表情そのままに。
僕は騎士だ。アンジュを守る騎士だ。
だけど、姫は死んだ。
なら、僕は一体何を守ると言うんだ?
・・・・・・何もないじゃないか。
「違う・・・・・・」
何が違うのか分からないまま、僕はその言葉を口にする。
「嫌だ・・・・・・」
ああ、嫌だ。それだけは嫌だ。何がなんでも認められない。許さない。
僕にとって、アンジュだけが全てだ。彼女の笑顔が、お星様のような笑顔が、僕に生きていいと言ってくれるんだ。それだけが僕の存在理由なんだ。彼女に仕える、ただそれだけが・・・・・。
脳内で湧き上がる強力な拒絶反応。
次々とエラーを表示し、正常な信号を拒絶する。
やがて彼自身を守るために、都合のいい虚実を構成し始める。
僕は騎士。僕は騎士、騎士だ。そのためには、僕が僕でいるためには守るべき対象が必要だ。
アンジュは死んだ?あれ、そうだっけ?本当に?
なんだか霞がかって、上手く思い出せないな。
・・・・・・僕の持っているこれはなんだろう。
人の、頭部?いや、アンジュだ。アンジュがいる。
けど、アンジュは死んだんじゃ・・・・・・・
ああ、そっか。そうだった。
あの時、奇跡が起きたんだ。なぜか分からないけど僕は、全身から力が湧いてきて、そして民衆を皆殺しにしてアンジュを救ったんだ。
生気のない虚ろな瞳。それを覗き込んで、僕は悲痛な想いに囚われる。
目の前でご両親を殺されて、心が死んでしまったんだ。
だけど、幸か不幸かアンジュだけはまだここにいる。
だから僕はまだ騎士だ。アンジュはここにいる。
次に考えるのは脱出方法だ。外国に逃げるのが一番の方法とは思うが、地理の事など頭にない僕はどうやって脱出経路を構築しようか。
「ん~?こ・こ・か・な~っと!!」
その時、ドアを打ち破るように入ってきた男。
顕現者らしき反応を感知したヴァルキューレの一人、ファミリア。
彼は無遠慮に、僕に対してこう言うのだ。
「つーか、お前。そんな死骸持って何してんだ?」
その言葉に、僕は剣を持って威嚇するように怒鳴る。
「・・・・・死骸じゃない。アンジュは生きてる!」
・・・・・・
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・。
こうして、彼はお姫様を作り上げたのだった。
■ ■ ■
カランと、握りしめていた名剣が落ちる。
ローランの瞳は揺れ、それまで張り詰めていた膨大な力が霧散していく。
もはや目の前の二人を排除する、なんてことはどうでもよかった。
契約は破られていない。蛍は誓い通り、ローランに対して一切の不必要な改変を行っていない。
ああ、あァ。つまり、そういうことか。
これがローランの顕現の真相。
美羽が推測したとおり、アンジュは存在しない。
なぜなら、とうの昔に死んでいたから。
あの日、あの時、処刑台で首を刎ねられたから。
その現実に耐えられなかったローランは、妄想でアンジュを作り上げたんだ。
だから彼の顕現は『自分は騎士であり、そのために守るべき者を作り上げる』というもの。
相思相愛の顕現なんて嘘。ずっとローランは一人で戦っていたんだ。
彼は騎士。騎士であるためには、守る者が必要だから。
だけど守護対象はもういない。アンジュはいない。
それが意味するのはアイデンティティの崩壊。精神の崩壊。
魂を引き裂く痛みから逃れるために、彼は嘘を作りだした。
現実ではもはや彼を救えない。救えるとしたら妄想だけ。
例え虚実であろうと、それに縋るのはごく自然のことだ。
「っ、アンジュ・・・・・・!」
ローランの背後に、空から少女が降りてきた。
今まで星のように飛翔していたアンジュ。ローランの戦意が消失したことで、彼女もまた攻撃態勢を解いていた。
彼が正気でいられる最後の寄る辺。
ローランはアンジュを抱きしめようとして、彼女に近づく。
その体に触れれば、体温を感じれば、実在すると分かるはず。それだけが、もはや彼に残された唯一の救い。
掴もうとしたその手はしかし、アンジュに触れるや否やその身体をすり抜ける。
二、三歩前によろめいたローランは、信じがたい目でアンジュに振り返る。
アンジュは目を細め、眉を下げ、無表情はそのままで悲しそうにローランを見ている。
だけどアンジュは、現われてからずっとその表情だったのかもしれない。
今この場にいるアンジュはローランの顕現によって編み込まれた存在。自分の創造主である主を想うのは当然のこと。
ずっと、彼女はどこでもない場所で彼を見ていたのだろう。
守るべきものを失い、自分はその代わりになれず、暴走する自分の顕現者に対して、一体どんな目で見つめていたのだろう。
ガッと、ローランは地に膝をつけた。
彼を襲う衝撃。嫌でも理解出来る。
彼にとって、世界が終わることすら比較にならない悲劇なのだから。
「っふ」
だけど、ローランの口から漏れ出したのは、笑みだった。
「はは、ははは・・・・・・・・」
口角が上がる。だけど目が笑っていない。
不自然な笑顔を浮かべて、彼は空に声を響かせた。
「はははははははははは!!あっははははははははははははは!!!!ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!」
押さえがたい哄笑は縄張り中に染み渡る。
それに喜色などない。ひどく空虚な笑み。
その裏で、音にならない音域で。
ローランが壊れていく音がした。
「はははははは、ははは、はは・・・・・・・・・・」
ひとしきり笑ったローランは、ピタリと高笑を止めた。
一切の不純物を含まない、透き通った目。
憑物が落ちたかのように、全ての重荷を下ろしたかのように、彼は全身の力を解く。
直視すれば吸い込まれてしまいそうな程の純粋さ。その目を見ることに恐怖さえ感じる。
その静謐な目を、ローランは蛍に向けた。
「殺せ」
もう、僕には何もない。
馬鹿みたいな芝居を終わらせてくれ。
「・・・・・・・・・」
その言葉を受け取り、蛍は長刀を構えた。
ローランにしてあげられることはこれ以外にない。
どんな言葉で彼を元気づけようと、きっと耳にも入らないことはわかっているから。
彼の存在意義はアンジュを守ること。それが出来ない自分に価値などない。
彼はそれ以外の自分を許容できないから。
せめて彼の願いを叶えてあげよう。
蛍は掲げた長刀を、勢いよくその首元に振り下ろした。
■ ■ ■
目が覚めたそこは、いつかの豪邸の敷地内だった。
グラウンドのように広い庭。整えられた花々や草木、そして中央からヴェールのように水を吐き出す噴水。
ずっと過去の記憶。かすれていたそれを思いだしながら、僕はその庭を歩き出す。
ここは天国かなにかか?確か僕は、最後にあの粛正者に殺されたはず・・・・・・・。
走馬灯?意識の逃避?考えても答えは出ない。
とにかくこの庭を歩くしかない。
・・・・・・懐かしい。
ここにいるだけで、たくさんの思い出が色鮮やかに蘇る。
小さい頃、この広大な庭で、アンジュと隠れんぼをした。
足が速い僕が優勢かと思ったら、アンジュは庭の構造を全て把握済みで、まるで煙に巻くように逃げるからなかなか捕まえられなかった。
時にはアンジュが生垣の木の中に隠れて、二人揃ってプラダマンテさんに怒られたっけか。
外に設置してある白い椅子と机に座り、二人でサンドイッチを食べたこともあった。
アンジュが僕の口についてるパンを取って食べた事があったな。幼い僕は耳まで真っ赤に・・・・・・ああ、今思い出しても恥ずかしい。
夜には二人で空を見ていた。アンジュが僕に正座の名前を教えてくれた。
あれは獅子座。あれは山羊座。あれは水瓶座。あれは双子座。
空を指差して、星をなぞって、毎季節ごとに外に出て、とっておきの宝物をみせるかのように教えてくれた。
アンジュの誕生日。僕は一人でケーキを作った。
出来映えはとても見事とは言えない。左右不均等で、崩れてもいた。
けれど、アンジュは喜んで食べてくれた。美味しいって言ってくれた。
「貴方の作る料理は全部美味しいもの。食べないわけないじゃない」
涙を抑えることなんてできなかった。
何よりの言葉だった。これ以上ない言葉だった。たったそれだけで、今までの人生の全てが報われた気がした。
そして誓い合った。
二人で、ずっと・・・・・。
けど、彼女はもういない。
僕を照らしてくれた星は、夜空から消えてしまった。
このままでは僕の心が砕け散る。耐えられない。だって、アンジュの騎士という称号だけが僕の全てだから。彼女がいないと、僕には一切の価値がないから。
だから存在しないアンジュの幻影を産み出した。
そんな彼女を本物と思い込み、彼女に捧げるため、そして近づくために宝物の山を積み上げた。
なんて道化芝居。薄ら寒くて笑えもしない。
こうなってしまったのも、その芝居が招いた結果。
だけど、単に遅いか早いかの違いであったことも理解している。
あの時、アンジュを失い朽ちて消えるはずだった僕は、偶然にも顕現を開花させ、今まで煩いながら生きてきた。
生き恥をさらし、しかしその事実にすら気付かず、壊れてしまいそうな自分を必死に維持してきた。
宝の山をどれだけ築いても、本当は意味なんてない。薄々それを察していながら、見ないフリをし続けた。
彼女の騎士を自負していながら、肝心な所で何の役にも立たない無能。
僕なんてさっさと消えればよかったんだ。
何の役目も果たせない僕に、意味なんてないんだから。
「いいえ、それは違うわ、ローラン」
――――。
その声は、僕の背後から聞こえた。
鈴のように高い音。心にまで染み渡るような優しい声。
彼女の声だ。ずっと、ずっと前に聞いた。
振り向く。その姿を両目で捉える。
淡く紅潮した頬。綺麗なドレス。細まる目。
お星様のような少女が、僕の前に立っている。
ああ、アンジュだ。見間違いようがない。
「アン、ジュ――」
僕は縋るように、彼女に近づいてその手を取った。
触れられる。彼女の体温が伝わる。
その事実に、目から流れ出る涙を止められなかった。
「アンジュっ!アンジュアンジュ!!アンジュッッッ!!!」
泣きじゃくる僕に、アンジュは優しく微笑み、頬を撫でる。
「お疲れ様、ローラン。今までずっと、頑張ってきたのね」
アンジュは賞賛した。
魂をすり減らし、ボロボロになりながら、それでも止まらず走り続けた。
事の是非はとにかく、彼の献身は全てアンジュに向けられたもの。
その純粋すぎる恋慕は紛れもない真実だ。
「貴方は無意味じゃない。無価値じゃない。
いつも私の側にいてくれた。私のためにいてくれた。
それは嘘ではないわ」
「けど、けどっ!!君はいなかったッ!!!」
駄々をこねる子供のように、ローランは泣きじゃくる。
それは過去のことだ。君が死ぬ前の話だ。
あの時以来、君は僕の側にいなかった。
「僕が守っていたのは君じゃなかったっ。君がいないと壊れてしまう弱い僕自身だっっ!」
「人は皆そうよ。貴方だけじゃないわ。私もそう。
だから支えあって生きているの」
アンジュが囁くのは優しい言葉。彼女は騎士を非難する言葉を知らないから。そんなもの必要ないから。
騎士の慟哭は続く。その身体が粒子のように細かく崩れていくことすら関せずに。
「僕は、ずっと君を、君を、、、守れなくて・・・・・・騎士なのに、君の騎士なのに!!」
「ええ、貴方は私の騎士ね。そう誓ってくれた」
「ごめん、ごめんよ。僕は、何もできなかった、、君が、君が死んでしまったのに・・・・・・」
「ううん、そんなはことないわ。
貴方はずっと側にいてくれた。小さい頃から、ずっとそうだったじゃない」
気づけば庭園は消えていた。白い世界に二人だけ、ただ抱き合って想いを伝え合う。
「星に届くほど財宝を積み上げなくても、わたし、ずっとここにいたんだよ」
初めて会った時と同様に、アンジュはローランの全てを健やかに照らす。
眠るように意識がなくなっていくローランは最後に、どうしても伝えたいその言葉を、
「ごめんね、アンジュ・・・・・・愛してる」
「ありがとう。私も貴方を愛してるわ。ずっと、ずっと。だから」
今はもう、お休みなさい・・・・・・・
白い世界に溶けるように、騎士と姫は、緩やかに消滅した。
■ ■ ■
「高天原に座します、天照皇尊に奏すところには
ここに死した御霊を、大いなる蛇に奉還し奉る
どうか、次の世において救いがあらんことを」
蛍が唱えるは返還の祝詞。
大地から産まれた命を、再び大地に返すこと。
『魂食い』によって蛍が喰らうローランの魂は、これを唱えることで輪廻へ帰る。そして再び産まれる。
同じ結末が待っているのかもしれない。それ以上の悲劇が待っているのかもしれない。
だけど、再び選択の機会は与えられる。魂ある者として、幸せになる権利が与えられる。
死によって罪は清算された。だからこそ、二人の再会を願わずにはいられない。
さようなら、ローラン。アンジュ。
二人に対して、もはや敵意など欠片も湧かなかった。
崩れていく縄張り。風景に赤味が差し、じきにこの空間は堅洲国の一部に戻るのだろう。
激戦を経て、さらに増大した二人の霊格。
二人は熾天使に匹敵するようになったのかどうか。
兎にも角にも、蛍は背後の美羽に振り向いて言う。
「帰ろう、美羽。桃花へ」
「うん」
短く頷き、美羽と蛍は本来の居場所へ戻る。
背後の縄張りを目に焼き付けて、光るゲートのその先へ足を踏み入れた。
■ ■ ■
花が咲き誇る楽園。青々と草が茂り、満面の花々が太陽に向けて花開く。
空間内に立ちこめる芳醇な甘い香り。加えて太陽から降りそそぐ陽気に満ちた光。数分でもここに存在すれば、たちどころに眠気が襲ってくることは間違いない。
そして楽園を飛び回る蝶蛾の群れ。その数幾万幾億幾兆。花の色彩に負けず劣らず、色とりどりの蝶蛾が翅を休ませまた羽ばたく様は、楽園を見る者に色の爆発とさえ言わしめるだろう。
その花畑の中央。一箇所だけポツンと花が空いた更地で、誰かが椅子に揺られていた。
その人物はマントがついた黒い軍服を身に纏い、軍帽で顔を隠しながら眠りについている。
垂れる黒髪は滝のように地面に到達し、ダラリと脱力した手は死人を連想させる。
何より目がいくのがその左胸。心臓があるであろう箇所には深々と槍が突き刺さっている。
身体を貫通した槍の穂先からポタリと血が滴る。それは連続して地面を濡らし、赤い液体を大地の栄養として捧げている。
しかし、生死の概念を超越した彼女にとってそれは些細なことだ。
彼女の名前はファルファレナ。現在進行形で堅洲国、及び葦の国に多大な災禍を引き起こしている源泉。
最高位・熾天使の一柱にして、咎人を粛正する粛正機関からも恐れられている超存在。
そんな彼女が楽園のような世界で優雅に眠るその姿は、本人には失礼だが想像がつかない。
まるで楽園という絵画に空いた穴のように、その一点だけ異様で、異彩を放っている。
(・・・・・また一人散ったか。しかもこの気配はあの二人。
なるほど、順調に格を上げているのか)
身体を起こすことなく、楽な姿勢のまま思案する。
蝶の刻印を刻まれ、彼女の顕現を受け入れた者は現状9割を超える。
その恩恵を受けた者と、ファルファレナは必要な情報を共有することができる。
今誰が何をしているのか、誰に倒されたのかは彼女にとって筒抜け。堅洲国全土に、広大なネットワークを張り巡らせているようなものだ。
それを利用して、ローランという咎人を倒したいつかの二人を感じ取っていた。
騎士と姫の物語。見事。
その後悔。その憤怒。その想念。
姫を守れなかったことに対する幻想。狂乱の体裁。見ていて飽きなかったよ。
輪廻を巡り、君たちが再び再会することを、赤の他人ながら祈っておこう。
黒と白の粛正者。見事。
格上ではなくても、君たちと比べて明らかに実力は上だった。
狂乱の騎士を、勝負を破棄したとはいえ仕留めたのだ。誇っていい。
君たちの急成長。控えめに言ってありえない。どんな裏技を使ったのか多いに気になるよ。
思い返し、上機嫌で揺蕩っていると、ざわっと蝶の群れが一斉に飛び立つ。
何者かが侵入してきた。彼女の縄張りに。
意識を向けなくても誰が来たかは分かっている。いつもの彼だ。
「経過は?」
無駄を一切そぎ落とした、短い言葉だった。
現われたのは長身の男性。亜麻色の長髪に白いスーツ。
死んだように濁った赤い瞳は、万事に通暁する全知の魔眼でありながら、ファルファレナを視界に映しているかどうかすら怪しい。
総じて美形であることに変わりはないが、どこか超越した雰囲気を纏う、不思議な男。
高天原・葦の国・堅洲国――三界に名高い七大天使の一角、ガブリエルの名を持つ男だった。
「やあ、ガブリエル。君の思惑通り順調に育っているようだよ」
「思惑通り、とは?」
「しらばっくれるなよ。あの二人の粛正者を煽れと言ったのは君だぞ。
挑発する。あるいは誘導するとも言うね」
軍帽の隙間から笑みを覗かせるファルファレナ。
しらばっくれるなと言いながら、特に憤りの感情は持っていないらしい。
「保険のためだ。第一プランでお前が到達できなかった場合、すぐ第二プランに移行するため、利用できると踏んだゆえにお前に指示した」
その問いに関して、いつも通りの仏頂面で答えるガブリエル。
自分には一切の非がないと、自分の判断に誤りはないと、当然のように説明する。
長い付き合いだが、彼はこれ以外の表情は目にしたことがないし、これ以外の態度もあったものではない。
だからファルファレナも、はなから謝罪の言葉など求めていなかった。
「せめてその意図を本人である私に伝えてくれよ。だから君たち七大天使には良い噂を聞かないんだ」
「風評被害は主にカマエルとアズラーイールのせいだろう。私は極めて真摯に務めているつもりだ。
それよりも」
そんなことはどうでもいいと言わんばかりに話を進めるガブリエル。
「人柱は集めた」
「ああ、そう。位階は?」
「全員熾天使には達している。
足止めにもなるだろう」
「ふむ、なるほど。こちらの準備はできたということか。
内心焦っていたよ。準備が出来ないまま居場所を特定されてはたまらない」
「桃花には特定されたがな。明日にも攻めてくるぞ」
「当然だ。私だったら見つけたその日にでも乗り込む。
私としても座して待つことがやっと終わる。いささか退屈だったことは否めないが、寂寥感は少しもない」
ファルファレナの言葉に呼応して、蝶蛾の群れが一斉に羽ばたいた。
春の青嵐のように、億を超える蝶蛾で構成された竜巻は、ファルファレナを中心に渦を巻く。
限界まで力を溜め込み、死を積み重ね、そして転じて天へと至る。
世界が始まって以来、極少数の者しか通過していない、狭き門を通るのだ。
その力を以て、存在しない天の国を再現する。
それを邪魔するのであれば、粛正機関も高天原も薙ぎ払うだけ。
椅子から立ち上がったファルファレナは、亀裂のような深い笑みを刻み、来るであろう明日と粛正機関を見据える。
来い、粛正機関・桃花。
君たちは私を導く炎だ。
完成の暁には、まず君たちを天へと連れて行こうじゃないか。
全ての真意を知るのはファルファレナとガブリエルのみ。
決戦は明日。真相が白日の下にさらされ、彼女と桃花の因縁が断ち切られる。
次回、おまけ。集とエクシリアちゃん




