第一話 始まりは暗闇の中から
とある街の高校に通い、放課後は喫茶店で働いている、ごくごく普通の女の子、黒雲美羽のお話。
走る。
私は走っている。
何から? 知らない。
どこを? わからない。
ただただ、得体の知らない何かから、どこまで続くかわからないこの暗闇を、無我夢中で走っている。
地平線の果てまで一切の光が存在しない。かといって何も見えないというわけではなく、自分の姿はちゃんとある。
息切れはしない。疲れもしない。ただ漠然とした恐怖があるだけ。
後方を振り返る。何も見えない。前方と同じく暗闇がある。
だが何かがいる。何かがある。暗闇の中に何かが潜んでいる。
走る私に、つかず離れずの距離を保ちながら接近している。
助けて。誰か、助けて。
声にならない悲鳴は無音の闇に消えていく。
無駄だ。ここには私しかいない。私以外の他者はいない。
ゆえに助けなどない。無明の闇を切り裂いて、光が差し込むことはない。
走る。走る。走る。
永遠にたどり着かないゴールに向かって走り続ける。
縋るように腕を前にだす。求めるように足を前にだす。
だけど暗闇から離れない。離れられない。
――ずる、ぺちゃ、ずる、ぺちゃ。
背後から聞こえる音。水に濡れたような、何かを引きずる音。
背筋が震える。条件反射のように、その音を聞くたびに全身を恐怖が襲う。
来ないで、来ないで、来ないで、来ないで。
逃げないと、逃げないと追いつかれる。
だから走る。走る。走るけれども、
私は、いつまで走ればいいの・・・・・・。
「・・・・・・」
目が開く。目に映るのは白。薄暗い室内。
外からは雀の鳴き声がかすかに耳に届く。
早鐘を打つ心臓。荒れる呼吸。多量の汗を吸って肌にすいつくパジャマ。
夢だ。今さっきまで見ていたもの、夢だ。
「また、か」
時刻を確認する。午前5時21分。
再び眠る気など到底なかった。
■ ■ ■
ピンポーン
鞄の中身を確認していると、玄関のチャイムが響いた。まずい、もうこんな時間か。
「ごめん! もうちょっと待ってて!!」
急いで教科書類を鞄に押し込み、靴を履きながら玄関に向かった。
扉を開く。室内に流れ込む光と風。そして外で待っている見知った顔。
「おはよう、美羽」
こちらを視認し微笑みを浮かべる少年。
白咲蛍。年齢は私と同じ16。黒い髪にちらほら白髪が目立つ。背は私より少し高い。
こうして私の家にチャイムを鳴らしに来るのが日課になっている、私の幼なじみ兼親友だ。
そして、今呼ばれたのが私の名前。黒雲美羽。あまり見ない苗字であることは自覚している。
私も同じように微笑みを返した。
「おはよう、蛍。相変わらず早いね。あ、また白髪増えたんじゃない?」
「え、あぁ。自分でもとったりしてるんだけどね。また先生に何かと言われそうだよ」
苦笑を交えて、通学する。
二人で並んで、肩が触れあうか触れあわないかの距離を維持しながら。
いつもの日常だ。不思議に思うこともなければ、気になることもない。
それから今日のニュースだったり、昨日のテレビの事で話は盛り上がる。
あのテレビのお笑い番組は、ネットのニュースは、今日の温度は、学校の授業は。
熱い日差しに照らされながらお互いに笑い合う。
そうこうしていたら、あっという間に通学している高校に着いた。
機を同じくして、私たちの向こうの通学路から、これまた見知った顔が現れた。
「おっはよ~! 美羽に蛍!」
こちらに向かってちぎれんばかりに腕を振る女性。顔には満面の笑み。ボーイッシュなポニーテール。私の友人。
愛沢奏。私はカナと呼んでいる。
「おはよう、カナ。今日も元気だね」
「おうさ! 元気しか取り柄がないからね私は。しかし毎日とはいえラブラブだね~二人は」
「おはよう、奏。毎回言ってるけど僕たちはそんな関係じゃないよ。ただの幼なじみだから」
「またまた~、非リアの私からしたらお二人はもう恋人みたいなもんだよ~。羨ましいったらないぜこのやろ~」
これもいつもの日常。何かとからかってくるカナの攻撃を躱しながら私たちは校舎の中へ入る。
■ ■ ■
「ねぇ、美羽は部活に入んないの?」
午前中の授業が終わり、昼休みにさしかかったところで、カナが私の近くに寄ってきた。
右手には焼きそばパン。私と話をしながら昼食をとるつもりらしい。
「部活? あ、えっと、塾があって、両立が難しいの」
「ふ~ん、そうななんだ」
どぎまぎしながら答える。困った、不自然に思われたかな。話題をそらさないと。
「カナは何か部活やってるんだっけ?」
「うん! バドミントン部でバリバリ活動してますよ。最近はヘアピンを特に練習してるんだ」
「ヘアピン?」
「簡単に言えばネット近くに落ちてきた球を、そのまま相手の手前に落とす技なんだよ。
腕をまっすぐ伸ばしてたらシャトルが高く上がって打たれちゃうから、腕を適度に曲げる必要があるの」
カナが手に持っている焼きそばパンで実演する。哀れ、焼きそばパン。袋の中で焼きそばが飛び出てしいまった。
ふと、カナが教室の窓から外の風景をみた。
私もつられて外を見る。先々月の春の桜が嘘のように、瞳には緑が茂った木々が映る。
「もう6月かぁ。高校生になってからさ、時間が過ぎるの早く感じない?」
「うん、あっという間だね」
小さい頃とは比較にならない。本当に、いつの間にか時間が経過している。
あっという間に、春が夏に、夏が秋に、秋が冬に。
そして雪が降り止むとまた桜が咲く。
年を経るにつれそのサイクルが目まぐるしく変わっていく。
この高校にも慣れたものだ。
一年生の頃は周囲の環境に慣れるまで二ヶ月はかかった。授業の内容、新しいクラス、周囲との関係。初めてのことばかりで戸惑った。
そのまま二年生になり、慣れたクラスメイトとも別れ、新しい環境で再び戸惑いを感じた。
そんな中、私の友達になってくれたのが、今目の前にいるカナだった。
「それよりさ、次って数学だよね。私宿題やってなくてさ・・・」
手を合わせ上目遣いで私を見つめるカナ。私は苦笑しながら数学の教科書とノートを出した。
■ ■ ■
キンコーンカンコーン
放課後のチャイムが鳴り、私たちは解散する。
生徒達の行動は、教室に残る者、荷物を持って帰る者、大きく分けてこの二種類だ。
「そんじゃ美羽に蛍。勉強ガンバ!」
「うん、カナも頑張ってね」
ラケットを持ち部活動に向かうカナ。
それを見送る私達。これまたいつもの光景。
荷物を背負った蛍が近づいてくる。
「じゃあ、僕たちも桃花に向かおうか。そろそろ時間だ」
「うん。今日は私たちの担当だよね?」
「・・・・・・裏の仕事もね」
若干気が滅入ったような声だった。無理もない。例え何年経っても、あれは慣れそうにない。
「僕は一度家に帰るよ。じゃあ、またお店で」
「うん、また」
流れを断ち切り、蛍が帰宅する。校門で分かれ、一人私は自宅とは反対の場所へ足を向かわせる。
歩くこと約20分。住宅街に溶け込むように、一軒の喫茶店が見えた。
全体的にアンティークな外観。鈴のついた白い扉の中心に、OPENと小さな看板が可愛らしく飾ってあった。
店の前には板スタンドにミニ黒板が置かれ、その日の注目メニューが書かれている。
横には季節の花々が咲き誇る小さな庭。今月は紫陽花が鮮やかに咲いている。
喫茶店・桃花。私と蛍がアルバイトをしているお店だ。
店と住宅地の間の裏道を通り、従業員専用の扉を開く。
出入り口として使われる部屋を少し進むと、そこは調理場になっている。
トントン、と包丁で刻む音。そしてお客さんの会話が聞こえてくる。
「こんにちは」
調理場に顔を出す。そこにいたのは二人。一人は眼鏡をかけた初老の男性。もう一人は髪をオールバックにした目つきの鋭い男性。
「おや、こんにちは美羽さん」
初老の男性が微笑みを返す。このお店、桃花の店長である否笠さん。年下の私にも礼儀正しく接してくれる優しい人。私はいつも店長と呼んでいる。
「早かったな、美羽」
「はい。学校終わってすぐ来たので」
髪をオールバックにした男性が声をかけてくる。
無愛想にも聞こえるが、基本無口な天都さんが口を開いてくれるくらいには信頼関係が築けたのは嬉しい。
「お疲れ~美羽ちゃん」
レジの方から活発な声が聞こえた。
茶色の髪に、親しげな雰囲気を醸し出している男性がいる。
海曜 集先輩。大学生で、私たちより二つ上の先輩だ。
「お疲れ様です。集先輩」
「ありがと、蛍君は?」
「蛍もすぐに来ると思います。着替えてきますね」
あいよ~、と軽快に手を振って答えてくれた。
調理場を抜け、奥のドアを開ければ、従業員が着替える為のロッカールームがある。
私は自分のロッカーに立ち寄り、店の制服と帽子に着替える。
そういえば、先ほど見た当番表(現在店にいる人の名前が載っているブラックボードのようなもの)に、アラディアさんの名前はなかった。
上で休憩しているのか、それとも外をふらついているのか。そんなことを考えながら調理場に戻る。
さてと、仕事を始めますか。
■ ■ ■
普段の私の役割は料理の盛り付け、皿洗い、時々接客。
今もお店のメニューのピザ、その盛り付けを行っている。
といっても大したことはない。専用の釜から取り出されたピザの上に、切った果物をのせたり、バジルをのせたり、ハムをのせたりするくらいだ。
今回はフルーツピザ。ピザメニューの中でも店内で一、二を争うくらい人気のピザ。
薄く切ったミカン、イチゴ、リンゴ、バナナ、ブルーベリー、キウイなどを、華やかに、ぎゅうぎゅう詰めにしないよう均等に配置する。
仕上げにアーモンドダイスをぱらぱらと撒く。これで完成。
できたての生地、そのうえに並ぶ色とりどりの果物。お好みでかける蜂蜜。
立ち上がる湯気がいい仕事をしてる。あぁ、私が食べたい・・・・・。
「集先輩。お願いします」
「ラジャー」
元気なかけ声を合図に、集先輩がピザをお客さんのところへ運んでいく。
時刻は4時30分。ちらほらいた客足も今は二人。閉店が5時だから当然といえば当然だ。
蛍も4時頃入店して、煙草を吸いに行った天都さんと入れ替わりで皿洗いに務めている。
これまたいつもの光景。アルバイトを始めた日はてんやわんやだったが、今では店全体を見渡せる余裕がある。
「美羽さん、蛍君」
ふと、手の空いた店長が私たち二人に声をかけた。
「はい、なんでしょうか?」
店長はちらりと時計を見て告げる。
「5時からです。もうあがってもかまいませんよ」
・・・・・・・・。
緩んでいた意識が締まる。若干心臓がペースを上げ、鼓動が走る。
蛍も同様に、先ほどより少し険しい顔をしている。
それを隠して、私は笑顔を作る。
「いえ、待ってるより働いている方が気も晴れますから」
「僕も美羽と同意見です」
「そうですか、ならいいのですが」
店長はサングラスをかけなおし、再び元の作業を再開した。
声色からこちらを気遣っている様子がわかる。
だけどこれも私たちが決断したことであり、決めたからには引くわけにはいかないことだ。
調理場の仕事と一緒。すべては慣れだ。時間が経ち経験を積めば、いつか私たちも余裕を持てる。
・・・・・・・果たしてそうなのだろうか?
結局、その後は特に注文も入らず後片付けに手をつけた。
5時になり、最後に残ったお客さんが店を出ていったのを見て、私は表のOPENの看板を裏のCLOSEにした。
CLOSE。表の仕事はこれで終わり。
テーブルを拭き、床を掃いて、後片付けは終わった。
作業が終わったのを見て、店長が私たちに号令をかける。
「では、今日も皆さんお疲れ様でした。集君。今日はどうします?」
「残りますよ。まあ俺がいてもいなくても変わらないでしょうけど、もしもがあったら大変ですから」
それを聞いて安心した。一人でも多く見守ってくれる、これほどありがたいことはない。
「ありがとうございます。では、場所を移しましょうか」
店長が二階へ続く階段を指し示す。
店長の後に続いて、私たちも二階に上る。
ギシ、ギシときしむ階段。
そして目に見えたのはリビング。ソファーが計三つ。テーブルとテレビを取り囲むように配置されている。壁には窓とカーテン、カレンダーが立てかけられているのみ。
別の部屋に繋がるドアが二ヶ所。一つは物置部屋で、もう一つはとある人の専用部屋になっている。
テーブルの上に置かれている鳥の人形が目立つが、それ以外のものは特にない質素な部屋。面積はそれなりにある分、配置されている物の少なさに気をとられる。
私たちはリビングの奥。奇妙な紋様が刻まれた、白い壁の前に立った。
店長が私たちに振り向き、説明を始める。
「では、今回の粛正対象について説明させていただきます」
今までと同じ声色。だけど普段は使わないおかしな言葉が混じる。
粛正。その言葉を聞いて、まるで異世界にでも来たかのように、現実が一気に希薄化する。
その表現は間違っていない。私たちがこれから向かうのは、非日常が具現化した世界なのだから。
「咎人の非正式名称は骸狼。位階は大天使。数日前から無差別に生物を引きずり込み殺害しています。早急に粛正するように頼まれました。これがその姿です」
店長が、何も無い空間に目を向けると、そこに電子的な画面が開き、私達に骸狼なるものの姿を見せる。
そこに映っていたのは身体がガリガリに痩せ細っている狼。
肉と呼べる箇所が全く無い。皮膚は骨とぴったり合わさって、痩身なその身をさらに際立たせる。
目は飛び出して、皮膚も黒くただれている。
醜悪な姿であることは間違いない。日常生活に慣れ親しんでいる人がこれを見て、絶叫を上げて嘔吐したとしても許される異様さだ。
「彼らは群れを形成しています。数日前に目撃された時も、群れで攻撃をしかけていたようです。つまり、骸狼は複数体倒さないといけないわけです。
まぁ、位階は大天使。あまり気負う必要はありませんよ。いざとなったら集君もいますからね」
私たちを気遣うように、店長は微笑んだ。
「はい。そういうことだから頑張ってね2人とも」
店長の発言に、満更でもなさそうに答える集先輩。
二人の気遣いに感謝しながら、私たちは壁に進む。
「ありがとうございます。じゃあ、行ってきます」
「行ってきます」
続いて礼を言い、蛍が紋様の描かれた壁に手を伸ばす。
触れる。その瞬間、まるで波立ったように壁が脈動する。
そのまま吸い込まれるように、蛍は壁の内側に歩を進める。
それに遅れないよう、私も壁を通り抜けた。
次回、顕現




