後悔なきゲームを
「おはよー。」
「おはよう。」
朝起きてカフェテリアに向かうとすでに綾音と久我は来ていた。
小さく挨拶を返すと、美波の視界に血の滲んだタオルが映った。
「……どうしたのそれ?」
美波が尋ねると綾音が慌てて手を横に振る。
「実は料理をしてる時、パックリ切っちゃって。血は凄く出てるんだけど、久我くんが止血してくれたし大したことないよ!」
「……大したことあるでしょ。」
「ね、僕も担当者に相談した方がいいんじゃないかって言ったんだけどね。」
久我は少々呆れたように笑いながら呟く。しかし、彼女は頑なに大丈夫と言って聞かない。美波も早々に諦め、その場は何も言わずに終えた。
それから朝食を終え、モニタールームへ行くと、いつ食事を終えたのか、約束通りモニタールームへ行くとすでに梶谷がモニターを起動しており、千葉もモニタールームで待っていた。
「あ、お前らも一緒か。」
「うん、僕たちも【箱庭ゲーム】については明るくないからね。」
久我がさらりと答える。
「はい、じゃあ皆さん揃ったところで、簡単な端末の講習からはじめるっすよ!」
ぱんぱんと彼が手を叩く。
椅子に座っている彼は得意げに話し始めた。
「まずは、最初の説明にもあった【捕縛】と【強制退場】っす。参加者全員の首裏にコードがあるのはご存知かと思うっすけど、それをカメラモードで読み取ると対象者に使えるっすよってうお!」
説明が終わると同時に彼が崩れ落ちる。
どうやら美波が彼の背後に回り込み、【捕縛】を使ったらしかった。
「急に何するんすか!」
「動ける?」
「動けるわけないでしょ! 辛うじて肘から下と首が動くくらいっすよ!」
「鬼かよ……。」
端末を見ると、【捕縛】終了まで1時間59分と表示されており、端っこの方に【捕縛】終了のボタンがあった。
それをタッチすると、急に梶谷がバタバタと手足を動かし始めた。
まるで水を得た魚のようだ、まさに言葉のままである。
「……私はもう今回のゲーム中は【捕縛】使えないみたいだね。」
「そんな冷静な……、いや使う事態なんてそうないんで大丈夫かとは思うっすけど。」
梶谷は呆然としながら呟く。
「【捕縛】については2時間が制限時間みたいだね。」
「確かにその説明はなかったね……。」
悩ましげな顔をして久我は呟く。
彼も運営に不信感を抱いている身としては気になるところなのだろう。
「はい、じゃあ次っすよ!
アイテムの使い方ね。アプリの【アイテム】を押して購入または使用をするっす。使用を選択した場合、薬剤とかの時はアイテムが実体化せずにそのままアバターに反映されるっす。実体化を選択するとアバターには取り込まれず実体化するっす。ただ薬に関してはオレたちはデフォで風邪薬と鎮痛剤、外傷治療薬しか使えないっすよ。」
「何かピンと来ないけど。」
「なら」
何やら先程からごそごそとスマホを弄っていた久我が唐突に動き、手早く綾音の首筋のコードを読み込む。
何回かフリックをすると笑顔で彼女を見やった。
「さて、寿さん。」
「はい?」
「パックリ割れていた傷はどう?」
ハッとした顔で彼女は不恰好に巻いた止血帯をとった。
血が滲む止血帯の下には傷どころか傷跡さえも残っていなかった。
「凄い!」
「外傷治療薬使ったのかよ?」
綾音と千葉は驚いたように久我を振り返る。
しかし、梶谷のみ少し複雑そうな顔をしている。
「でも、外傷治療薬は1ゲームにつき1人1つまで、もし久我さんが怪我したら……。」
「【箱庭ゲーム】は安全なんだよね? なら大丈夫じゃないかな。もし僕が怪我したら寿さんや酒門さんに助けてもらうよ。」
「何で私……。」
「仲良しかよ。」
久我は大したことはないと言わんばかりに微笑む。
「で、梶谷。今日の本題は? この説明のためだけに呼んだわけじゃないよね?」
「おっ、さすが酒門さんすね! もちろん、昨晩徹夜してプログラムを組んだので良ければと思って!」
梶谷は得意げにモニターを指す。
その画面には常人には理解できないであろう数式の羅列が映し出されていた。綾音と千葉の表情が明らかに曇った。恐らく理解することは難しいと悟ったことが容易に伝わった。
「端的に言うと内容は?」
「端的に言うと顔認証システムっすよ! ちょっと、酒門さん、つまらないみたいな顔しないでほしいっす!」
「……別に思ってないよ。」
「その間が全てを語ってますよ。」
梶谷はちぇ、と拗ねて唇を尖らせている。
しかし、一方で綾音はそわそわとしていた。
「それってどうやって設定するの?」
「さっすが寿さん! 今からそのソフトを入れますんでここに繋いでください!」
綾音は嬉しそうにコードを端末に繋いだ。
他の3人は後ろからモニターを覗き込む。
「今プログラムを組み込みました。そのプログラムを起動すると写真も撮れるんで良ければとってみてください。」
「美波ちゃん、一緒に撮らない?」
「えー……。」
「いいじゃない、撮りなよ。」
綾音から端末を受け取った久我はカメラを起動して嬉しそうな綾音と面倒そうに拗ねた顔をする美波の写真を撮った。
「撮ったら、そこから右上の四角を押してもらって、【認証に使用する】を選んでもらえば顔認証システムがその写真に写ってる人の顔を認識してくれます。だからこれを設定すると、寿さんの端末は寿さんと酒門さんの顔で開くようになります。」
「ええそれダメでしょ。」
「でも美波ちゃんはいたずらに開いたりしないから大丈夫と思う。」
どうやら綾音は、美波に対して全幅の信頼を寄せているらしく、大した問題ではないと朗らかに笑うのみだ。
一方で美波はくすぐったいような、居心地の悪さを感じているらしく何とも言えない表情を浮かべていた。
「ちなみに顔認証できなくてもパスコードさえ入力すれば通常通り開けるっすよ。あとはこの世界の備品リストを追加してみたんでどうなるか確認してくださいっす。」
言われた通り、増えたアプリを見てみると倉庫備品一覧や冷蔵庫の食材についての欄が追加されていた。
「とりあえず引き続き色々組み立てるんで何かこういう機能があればいいな〜とかあったら教えてほしいっす。」
「うん、ありがとうね。」
久我が笑顔で彼を撫でると、梶谷一瞬驚いた顔をしたが、嬉しそうに破顔した。
それから私たちは梶谷と千葉と別れ、3人で夜までのんびりと過ごす。
「そういえば久我くんも美波ちゃんと同じでゲームに興味のない素ぶりだったよね?」
「ああ、うん。僕、身体動かす方が好きでずっと陸上やってたんだ。長距離ね。」
「運動部っぽい身体つきしてるし、今朝とかも走ってたでしょ。」
「よく知ってるね。」
彼は自分の身体をペタペタと触りながら驚いた顔をしてみせた。
「朝食の時髪濡れてたし。」
「なるほどね。君らは何かやってたの?」
「私はバスケかな。」
「えっ、かっこいい。」
綾音の目がキラキラと輝く。
「別にそんな大層なことしてないよ、友だちに誘われてやってみようかなって思っただけだし。前は、他にやってたこともあったけど、それは別にやりたいことではなかったからね。」
「……そっか。2人とも凄いなぁ。」
「綾音は?」
彼女は、口をつぐむと困ったように笑う。
「……私は今までそんな風に何かに夢中になったり、何かを真剣に一緒にやってみよう、って思えなくて。だから、【箱庭ゲーム】に参加したら何かが変わるかなって。」
そのように言う彼女はどこか寂しそうで、美波や久我と正面で向かい合うことを避けているように感じた。美波はその様子を見やるとはぁ、とため息をついて口を開く。
「……別に、高校生でやらなきゃいけないってわけではないでしょ。私だってバスケで食べようとか、一生モノにしようとかは思ってないし。
まぁ、その何かが【箱庭ゲーム】にあるなら、ほらそこの久我とかがどうにかしてくれるかもしれないし。」
「あれ? そこは私がどうにかする、じゃないの? もしかして照れてる?」
「うるさいな。」
2人のやりとりを聞いて綾音はふ、と微笑みを漏らした。
「……そうだね、のんびり考えるよ。ありがとう。」
彼女がそのように言うとふ、と綾音は笑った。
先程のような、迷子のような不安そうな気配は消えており、美波も久我も顔を見合わせ安堵の息を吐いた。
それから美波は久我との約束の時間まで3人で何事もなく過ごす予定だった。
予定はあくまでも予定なのだ。
それを思い知るのは、世界に【danger】という文字が広がり、世界が歪み始める、ゲーム継続に関わるエラーが生じたときだった。