始まりの誘い
ー先輩、箱庭ゲームってご存知ですか?
ー……うん。まぁ、知ってる。
僕は口を閉ざす彼が、ほんの少しだけ悲しげな表情を浮かべてキッチンにいる妻を見つめたのを見逃さなかった。
ー最近、【箱庭の掲示板】というものが流行っているんです。
ー……見てるの?
ー僕ではないですよ。部活の後輩達が騒いでたもので。最後の箱庭ゲーム、ルーム89のことが伝説と化していましてね。
ー……へぇ。
彼は普段穏やかだが、この手の話題に関しては酷く不機嫌になる。
ーそんなに目に見えて不機嫌にならなくていいと思うよ?
ーもう癖みたいなもんだから。
苦笑する彼の妻は紅茶を2つ、盆の上に乗せてキッチンから運んできた。
優しい香りが僕の鼻孔をくすぐった。
彼女はエプロンを外して椅子にかけると、仕事に使うらしいノートパソコンの入った鞄を手に玄関に向かう。
ー……私は仕事だから。
ーおー、いってらっしゃい。
彼女を見送ると彼はすぐに僕のいるリビングに戻ってきた。
ー先輩は、箱庭ゲームのことについてご存知なんですね。
ー別にのめり込んでたわけじゃないけどな。たぶん他の誰よりも知ってる。
やはり。
僕は鞄からある一通の手紙を出し、先輩に見せた。
彼の表情は文面を見ずともすぐに曇り、眉間に皺を寄せたまま内容を読む。
ーこれは?
ー数日前届いたものです。
ー悪戯、にしては行き過ぎだよな。送り主不明か。警察には?
ー届けましたけど相手にしてくれませんでしたよ。
彼は黙り込む。
僕は正直なところ驚いていた。
他の大人とは違って、彼は僕のことを微塵も疑っていなかったからだ。
ーなぁ、箱庭ゲーム、興味あるか?
ー……まぁ、もしサービスが継続していたら1回は参加したかもしれませんね。
ー……オレはそのたった1回で、先輩を命の危機にまで晒したんだけどな。
え?
僕は言葉の意味の理解ができず首を傾げた。
それから彼は観念したようにぽつりぽつりと言葉をこぼし始めた。
それが僕の箱庭ゲームの真実を知るきっかけだった。
しかし、箱庭ゲームは終わっていなかった。
それを思い知った時には遅く、僕は既に残酷な遊戯に巻き込まれていたのだった。
『ーーーー区で30代女性が行方不明になり、』
巷を騒がせるニュースは移ろって行く。
私は今日も退屈な日々を揺蕩う。
何もこれといった目的もなく同じような生活を繰り返す。
「おはよー。」
「おはよう。」
後ろの席の女子生徒に声をかけられ、平坦な声で挨拶を返したのは酒門美波。
黒髪をストレートに伸ばしており、160cmを超えた身体を姿勢良く伸ばしており、凛とした雰囲気を纏っている。
「ねーねー、昨日のドラマ見た?」
「見てないよ、私にその話題を振るのは人選ミスじゃない?」
「えぇー? だって美波ちゃんと話したいんだもん。」
「……勝手にすれば。」
「勝手にする!」
友人、と呼んでいいのだろうか。
彼女は美波が適当に相槌を打つにも関わらず、好きに話し続ける。
時折口元を緩めるが、基本的に美波はクールな面持ちを保っていた。
その友人が他の者に呼びかけられれば、美波は他の者に話しかけることはない。
むしろ、距離を置かれていた。
友人の名は山部羽織。
決して社交的だとかクラスのリーダーだとか、そういったことはないが、人の痛みや感情に敏かった。
しかし彼女自身は、自身に自信を持っているわけではなく、むしろ内弁慶な気もあるくらいだった。
美波自身はなぜ彼女に自分が気を許されているかはわからなかったが、拒否する理由もなかったため流動的に会話をしていた。
「じゃあさ、美波ちゃん【箱庭ゲーム】の掲示板、見た?」
「見てないけど。ああ、でも兄さんが騒いでたかも。」
「大学生の?」
「うん。何か落選メールが来たとか来てないとかで。」
今から約8年前、長らく高校生の間で流行っていた【箱庭ゲーム】のサービスが終了された。
【箱庭ゲーム】とは、当時の社会問題にもなっていた無気力な子どもたちを救済するために作られたバーチャルリアリティゲーム。
仮想空間の中で、友情を、愛情を育み、時には仕事を行いながら過ごすといったいわゆる第2の生活が行われていた。
美波が、当時小学生の時、ゲーム内の世界で重大なエラーが生じる事件が発生し、ゲームの提供は終了された。
詳細は知らされていなかったが、どうやら外部の人間によるウイルス攻撃だったものらしく、その犯人の行く末は世間に知らされることは無かった。
そのような事件から約8年、教育体制は大きく見直され、以前のような無気力な子どもたちは減少傾向にあった。
しかし、現在の高校生は過去の事件など他人事。
【箱庭ゲーム】への憧れや興味や、真実を知りたいという探究心を満たすために、【箱庭の掲示板】というものが何者かにより設立された。
【箱庭掲示板】はアプリを1つダウンロードするだけで登録できるものであった。
トークルームを作ったり、模擬箱庭ゲームを体験したりすることができた。
時にサイバー警察により、トークルームが削除されることもあったが、それさえも高校生には刺激の1つだった。
「私は最近見てない。そのメールって何?」
「よくぞ聞いてくれました!
掲示板で『実際に【箱庭ゲーム】を体験してみませんか?』っていうトークが立てられててね。もちろんみんな最初は疑ってたんだけど、アップロードされてた写真に当時の【箱庭ゲーム】の機器やバーチャル世界が載せられてたの!」
美波は呆れたようにため息をついた。
「……胡散臭くない? しかも前にウイルスでダメになったゲームでしょ?」
「逆に言えばウイルス攻撃が無ければ安全、ってことだよ!」
どこまでポジティブに解釈するのか。
言い返すことが面倒になった彼女は口を閉ざす。
「利用者からランダムに選ぶって書いてあったから美波ちゃんも当たってるかもよ? 見てみたら?」
「そんな確率、当たるわけないでしょ。別にそれで棄権にされるならそれでいいよ。」
「えぇ〜?」
羽織の非難の声とともに教室の前方の扉が開き、教師がやってきた。
後ろの席の友人は慌てて教科書を出すが予習していないことに気づいたらしく、美波の背中を忙しなく突いてくる。
美波自身は気づいていたが、先程興味もない掲示板の話をされた仕返しに、と気づかぬふりをしていた。
慌てる彼女の姿は容易に想像することができ、ふっと小さく笑った。
私はたった1人でも信じられる友人と、かもなく不可もない日常を過ごせれば十分だった。
十分だったのに、
「海斗〜? アンタいるんでしょ? 牛乳切らしちゃったから買ってきて〜。」
「えー、今忙しいー。」
隣の部屋から母親と兄の声が聞こえてきた。
どうせ掲示板でしょ、と母親は憤慨していたが、兄が動く様子はない。
こうなれば夕飯の時間が遅くなることが分かっていた美波は腰を上げた。
「いいよ、母さん。私が行ってくる。」
「アンタ、暗くなるのに妹を顎で使ってーー!」
「あ、そういやお前の自転車パンクしたから。」
「はぁ? 自分のは?」
「大学に置いてきちゃってな。ちゃんと修理代は出すから勘弁!」
「……クズ兄貴。」
そんなの当たり前だ。
怒り続ける母親と、暖簾に腕押し状態の兄を無視して財布を掴んで外に出た。
スーパーまでは徒歩で15分。
彼女はイヤホンでお気に入りの洋楽を聴きながら牛乳を片手に帰り道を歩く。
その道すがら、ふと厚着をした女性が視界に入る。
現在は初夏、暑さも増してきたこの季節に奇特な人物もいるものだなと美波は頭の中で呟いた。
それ以上のことは特に考えることもなく、美波は彼女の前を通り過ぎようとした。
突然だった。
なんの前触れもなく、スマホから流れていた洋楽が止まると同時に肩を痛いくらいに掴まれた。
そしてイヤホンと、イヤホンの外から同じ声が聞こえる。
『遅刻、だよ?』
誰が肩を掴んだのか。
美波は振り返り、その姿を捉えようとしたが、それは許されず。
住宅の塀と、先程の女性のコートの裾を見たのを最後に彼女は意識を失った。