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ひきわり  作者: 夏乃市
第四章 八千穂事件
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八千穂事件 15

 弦悟は毅瑠を神坂神社のやしろの中へと導いた。

 板敷きの本殿は、九月だというのにひんやりとした空気が満ちていた。本殿の奥には、標縄しめなわのかかった桐の箱が祀られている。ご神体なのだと思われた。弦悟は桐の箱に正対すると、板の間に直に正座をした。毅瑠もそれに倣う。

「この神坂神社には、古い言い伝えがある」

 弦悟は桐の箱に目をやりながら言った。

「昔、鬼がいた。比類なき力を持ち、悪行の限りを尽くしていたその鬼が、あるとき、ひとりの娘に恋をした。美しく心優しいその娘は、しかし、重い病気を患っていた。鬼は自らの持つ力で娘の病を治そうとしたが、できなかった。娘の容態は悪化し、いよいよその命が尽きようというとき、鬼は自らの力の源である二本の角を折り、それを娘に差し出した。力そのものを手にすれば、娘の病は治るはず、鬼はそう考えたからだ。しかし、娘は自分が鬼の重荷になっていることを嘆き、手にした角を自らの心の臓へと突き立てた――

 すると、不思議なことが起った。突き刺さった角が光り輝き、娘は命を落とすどころか、見る見る回復したのだ。そして、角を失った鬼は、ただの人となっていた。

 この奇跡に深く神に感謝した鬼は、折れた角を神の御業みわざの証として祀り、ここに神社を建立した。そして神逆かみさかと名乗り、添い遂げた娘と共に、子々孫々まで神に仕えることを誓ったという……」

「かみさか……」

「この場合は神の逆と書く。わかるかね?」

「神の逆……つまりは、鬼?」

「そうだ」弦悟は立ち上がった。桐の箱の標縄を外し、観音開きの扉を開く。「これが、折れた鬼の角だといわれている」

 箱の中に収められていたのは、十センチ程の小さな剣だった。そこだけ世界が空白になったような、白く輝く石の剣。

「〈神逆左かみさかさつるぎ〉……もう一本の〈かみさか〉だよ」

「じゃあ、チホが持っているのは……」

「あれは、正しくは〈神逆右かみさかうつるぎ〉という。剣〈髪逆〉は、〈神逆右の剣〉を核にして、代々の〈霊鬼割〉がその〈魂糸〉を髪に込めて編み上げてきた物だ」

〈神逆左の剣〉を前にして、毅瑠は唾を飲み込んだ。その小さな剣には、なんともいえぬ存在感がある。それは、八千穂が振るう剣〈髪逆〉の、外へと放たれる凛とした存在感とは違う――内へと吸い込まれるような、粘り着く重さともいうべきもの――

「これが本当に鬼の角なのかどうかの議論は置いておく。しかし、力の内包した存在であることは間違いない。八千穂の持つ剣〈髪逆〉が〈魂糸〉を繋ぎ止める力を持っているのは知っての通りだ。そしてこちらの〈神逆左の剣〉は……〈魂糸〉の能力を活性化する」

「〈魂糸〉の能力ですか?」

「以前、私は〈髪逆〉で〈魂の要〉を貫いて〈魂見鏡〉を使う力を手にいれた……と話したのを覚えているかな?」

「はい」

「正確にはこの〈神逆左の剣〉で貫いたのだ。八千穂の剣〈髪逆〉でも一時的に能力は活性化するが、長くは持たない。鬼も、施術が完了すれば〈魂糸〉が見えなくなるだろう? しかし、〈神逆左の剣〉で活性化された能力は消えない」

 弦悟が静かな視線を毅瑠に向けた。

「向井毅瑠君。君は、八千穂のことが好きだと言ったね。一緒に生きていきたいと」

「はい」

「その気持ちに変わりはないかね?」

「はい」

「……ここから先は、進んでしまったら戻れない。だから、これから言うことをよく聞きなさい。聞いた後でやめても誰も咎めない。……この〈神逆左の剣〉で〈魂の要〉を貫くと、その個人が持つ〈魂糸〉の能力が活性化する。前に言った通り、私の場合は〈魂見鏡〉が辛うじて使える程度だった。しかし、君は、顕現した八千穂の右の三つ編みに触れただけで〈魂見鏡〉が使えるようになった。それが今でも続いている。さらに、山奥の診療所で、八千穂でさえ意識を取り込まれた〈魂糸〉の網の中で、君は意識を保ち続けた。……恐らく、君には〈夢飼い〉の素質がある。〈魂糸〉が活性化すれば……間違いなくその力が使えるようになるだろう」

 弦悟は一旦言葉を切った。自分の言葉が毅瑠に染みこむのを待つ。

「〈夢飼い〉とは夢を操る者……つまりは、記憶を操る者だ」

「記憶を……」

 毅瑠は探していたピースを見つけた気がした。さっき八千穂に話した作戦――そこに欠けていたピースが、自分の中にある――

「しかし、実際のところ、君がどうなってしまうのかはわからない。〈夢飼い〉の能力と引き替えに……命が大幅に削られることになるかもしれない。何かあっても、八千穂の施術も効かなくなる可能性もある。君の世界は、無傷ではいられないだろう。……正直なところ、お勧めはできない」

「でも、それで俺はチホと同じところに立てるんですね」

「君がチホのことを想ってくれるのは嬉しいし、ありがたいとさえ思う。しかし、あの子の立つところは崖っぷちだ。君をそんなところに追いやるのは……君のご両親に申し訳ない……」

 弦悟は〈神逆左の剣〉を手に取った。そして、懐から袱紗ふくさを取り出すと、それを丁寧に包んだ。その包みを毅瑠に差し出す。

「だから、卑怯かもしれないが、これの使い方は君自身に任せる。私の想いは言った通りだが……君にも八千穂にも、自分の人生を選ぶ権利がある。親は、辛くとも、その選択を認めてやることしかできないもんだ」

 毅瑠は袱紗を受け取ると、その小さな重みを確かめた。

「訊いていいですか?」

「もちろんだ」

「チホはこの〈左の剣〉のことを知っているんですか?」

「なんとなく……教えそびれてしまっている。わかると思うが、それは気配が外に出ずうちに向かう。だから〈霊鬼割〉の能力で気配を探っても、気配の空白が存在するだけのはずだ。……背負わせたくなかったのかな」

「何をですか?」

「いろいろなものを、だよ。〈霊鬼割〉の真実だけでもあの子には荷が重いのではないかと思っていた。だから、もう一本の剣の存在は、もっと大きくなってから教えよう……そう思って今日まで来た。先代〈霊鬼割〉、つまり八千穂のおばあちゃんも、そこは私に任せてくれた。知らずとも〈霊鬼割〉に支障はないから、とね。もっとも……」

 弦悟は少し言いよどんだ。

「八千穂は知っているかもしれない。剣〈髪逆〉は代々の〈霊鬼割〉の〈魂糸〉で編み上げられている。〈魂糸〉で編み上げられたもの……それは〈魂の要〉と同じ存在だと言って過言ではない。なら、そこに幾多の記憶が蓄積されている可能性だってある……」

「……。もうひとつ。神坂さんは、どんな気持ちでこの剣を使ったんですか」

「七穂と一緒に生きていきたい、そう思ってだよ」

 弦悟がまっすぐ毅瑠を見た。その視線を、毅瑠はしっかり受け止めた。

「七穂小母さんが言ったこと、神坂家のご先祖にも想いが届いたって……それは、剣〈髪逆〉が手伝ってくれるという意味ですか?」

「そうだな」

「でも、その後はどうなるんです?」

「わからない。しかし、どこかで断ち切らなければ、この連鎖は終わらない。この神社の言い伝えを信じるならば、神坂家の祖先は、一度は力を手放した。しかし、子孫が再び手を出した……力を使って、金儲けのためにでも〈霊鬼割〉などというものを始めたのだろう。それが、きっと神の怒りを買ったのだ。生来〈魂糸〉が切れて繋がらない子が生まれてくるのは、神坂家にかけられ呪いだ。子孫のためにと伝えられた剣〈髪逆〉が、実は宿命に神坂家を絡め取っているのではないか……。剣〈髪逆〉を解放すれば……この宿命は終わるのではないか、そう思うんだ」

「でも、そんなことをしたら、チホの〈魂糸〉の環はどうなるんですか?」

「核となる〈神逆右の剣〉が残っていれば、それを使って繋ぎ止めることができるはずだ。もしかしたら……剣〈髪逆〉を解放すれば、今度こそ繋ぐことができるかもしれない……楽観的すぎるかな」

「確証は何一つないんですよね?」

「そうだ。しかし……そうやって、二の足を踏んでしまうことが呪いなのだよ」

「……」

 沈黙が下りた。まばらに鳴く蝉の声が遠くに聞こえる。時折、車のクラクションがそれに混じる。時間が縫い止められたような錯覚が、毅瑠を支配した。

 手の中にある〈神逆左の剣〉。これを自らの〈魂の要〉に刺せば、〈夢飼い〉向井毅瑠が覚醒する――それは可能性ではなく、確信だった。毅瑠の魂が確信している――しかし、理性は、弦悟の言うこともよく理解していた。それをやってしまったら、毅瑠の世界は激変することだろう。そして、それが引き金となって、八千穂の世界をも激変させることになる。でも――しかし――そうすることで、毅瑠と八千穂を取り囲む世界を守ることができる。

 何を選択し、何を捨てるのか。

 何を願い、何をなすのか。

 それは誰のために――

 それは何のために――

 思考に沈む毅瑠を、弦悟は静かな表情のままで、いつまでも待っていてくれた。

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