八千穂事件 12
結局八千穂は家に帰ることにした。綾音のお陰で随分と心は軽くなっていたが、今すぐ学校にとって返す気にはなれなかった。
「いい、いい。サボっちゃえ。体調が悪くなったことにでもしておけば大丈夫よ」
綾音はそう言うと、自分は学校へと戻っていった。
ぶらぶらと散歩気分で歩き、お昼前に自宅に帰り着いた八千穂を見て、七穂は「ようやく帰ってきたわね」と、ほっとした表情で言った。
「どうして?」
「向井さんがいらっしゃっているわ」
「毅瑠が?」
「今朝学校であったことを全部話してくださったわ。だから、八千穂がどこかで泣いているんじゃないかって、私もお父さんも心配していたのよ。大丈夫?」
「泣いてない……」
七穂は微笑むと、八千穂の頬に優しく触れた。
「相変わらず嘘が下手ね」
「……でも、大丈夫。綾音がいてくれたから」
「そう。良かった。顔を洗っていらっしゃい。今鏡を見たら、嘘がすぐにばれた理由がわかるわよ」
八千穂が洗面所で鏡を覗くと、頬には涙の跡が残っていた。
身繕いを済ませた八千穂が居間に入ると、制服姿の毅瑠と、着物姿の弦悟が難しい顔をして向かい合っていた。いや、これは睨み合っていると言った方が正しい。八千穂が入ってきたことに気付かないはずはないのに、二人とも微動だにせずに相手を見据えている。
「どうしたの?」
八千穂が訝しげに二人に訊いた。
「この男に訊け」
弦悟が吐き捨てるように言った。お帰り、の一言もない。八千穂はテーブルを挟んで対峙する二人の間に腰を下ろした。
居間の障子は開け放たれ、陽光に輝く庭の緑が眩しい。それがいっそう、室内の重い空気を際立たせていた。
「毅瑠?」
「チホ」毅瑠は弦悟から目を離さずに言った。「チホはこの先どうしたい?」
「?」
「先に八千穂の言質を取るつもりか?」弦悟が凄む。
八千穂には、さっぱり話が見えなかった。毅瑠は八千穂を心配して、両親に今朝のことを知らせに来てくれたのではないのか――
毅瑠は小さく息を吐くと、視線を八千穂に向けた。
「チホ。俺は今日、一つの提案を持ってきた。これは、ご両親にも話した方が良いと思って、さっき神坂さんに話したところだ。……今学校にいる鬼を施術して、なおかつ、これからも二人で一緒に学校に通うための提案だ」
「毅瑠……」
八千穂が小さく身を乗り出した。本当にそんな妙案が――しかし、弦悟の声が割り込んだ。
「八千穂! 最後まで聞きなさい」
「チホ。〈魂糸〉を全校生徒に見せよう」
「え?」
毅瑠が持ってきたのは、とんでもない提案だった。