八千穂事件 11
「私、初めて泣いた」泣きやんだ八千穂が呟いた。
「本当に? どうだった?」
綾音は、赤ん坊のときはどうなのだ、などという野暮なことは言わずにいてくれた。
「すっきりしたみたい」
それは、雨上がりのような清浄感だった。涙が、いろいろなものを洗い流してくれたようだ。
「ねえ、八千穂。今私が思っていることを言っていい?」
八千穂が無言で頷いた。
「八千穂は、友達とか、仲間とかに慣れていないんだと思う」
今度は、八千穂は小首を傾げた。
「八千穂は向井君が好きだよね? どの位好き?」
「すごく好き」
「うん。じゃあ、戸時先輩は?」
「とても好き」
「ええと、私は?」
「大好き」
「それじゃあ、クラスメイトは?」
「……」
「嫌い?」
「嫌いじゃない」
「なら、好き?」
「ちょっとだけ」
「うん。そうだね。いい? 八千穂の中には好きな人が一杯いる。でも、向井君を好きな〈好き〉と、クラスメイトや学校を好きな〈好き〉は違うでしょ?」
「違う」
「それはね、当然なんだよ。人の心には大きさがあって、すべての好きを同じに収めることはできないの。八千穂が、向井君に頼まれて〈霊鬼割〉の力を使うのは、向井君が好きって気持ちが起こさせる行動なんだ。わかる?」
「なんとなく」
「そうして、今回の件ね。八千穂が鶴牧先生からあの二年生の男子を守ろうと思ったのは、とどのつまり、向井君のためよね? それは、この前八千穂も自分で言っていたわよね? ほめてもらいたいって」
「そう」
「なら、向井君以外からは、何かを期待しちゃダメよ」
「?」
「さっきの八千穂の話を聞いているとね、〈霊鬼割〉として命を張ってがんばっても、それが見えない普通の人は評価してくれない……そういう風に聞こえた。友達とかに慣れてない八千穂はさ、敵じゃない人はすべてが味方、みたいに思っちゃってたんだよ。きっと。でも、それは間違い。人の心は揺れ動くの。友達と友達じゃないの間、仲間と仲間じゃないの間くらいの人は大勢いる。八千穂がクラスメイトを好き、程度の〈好き〉は、もっと好きな人が何かを言ったら、簡単に流れちゃうものよ」
「ええと……」
「わからない? たとえば、好きでも嫌いでもないクラスメイトがいたとするわね。でも、向井君がその子を嫌いだって言ったとする。そうしたら八千穂はどうする?」
「……」
「今朝、校門のところに集まっていた生徒たちはその程度なのよ」
「なら、私はどうしたらいいの?」
「そうね……すべてを助けようとか、全部自分でどうにかしようとか、思わないことが大切だと思う。自分の好きな人だけ助ける。ぶっちゃけ、それ以外の人は放っておく」
「いいの?」
「逆に訊きたいわ。ダメなの?」
「……」
「向井君はさ、変な正義感からいろいろ言うかもしれない。男子って概ねそういうところがあるのよ。理想論ていうかね。でも、女の子はもっと現実的じゃなきゃ」
「現実的?」
「そ。実のあることを最優先。自分の好きなことを最優先。自分のできることを最優先。自分のやりたいことを最優先」
「じゃあ、私は……」
「それを考えるのは八千穂自身よ。でも、今言ったみたいに、余計な雑音はカットして、何が最優先なのかを考えるの。恐らく……あなたのおばあちゃんも、同じことで悩んだんじゃないかしら?」
八千穂が目を丸くした。
「同じように悩んで、結局、被害者には目を向けず、他人にもあまり関わらない生き方を選んだ。でも、それでも生きていけたんだよ。何故だかわかる?」
「わからない」
「八千穂のおじいちゃんがいたから」
「おじいちゃん?」
「たぶん、そういうことよ。おばあちゃんが言っているのは、大事なことだけに集中しなさいってことじゃないのかなあ」
「綾音……すごい」
「普通のこと。〈霊鬼割〉とか〈魂糸〉とかはよくわからないけど、結局はみんな人間なんだもん。そこは同じだよ」
綾音は八千穂の頭に手を乗せると、くしゃくしゃとやった。
「頑張れ、女の子!」
八千穂は、青く澄み渡った空を見上げた。それは、今日初めて見上げる空だった。