八千穂事件 10
八千穂は、自分が何故逃げているのかわからなかった。
今朝は、倒すべき鬼のことばかり考えながら学校へ行った。その鬼が、自分を退学させようと画策していた。そこまでは状況として理解できた。しかし、その鬼に狙われている生徒たちが、鬼と一緒になって八千穂を糾弾した。それがわからなかった。八千穂は混乱し――逃げ出してしまった。
どれくらい走ったかわからない。しかし、とにかくまっすぐ走ってきた。気が付くと、小さな児童公園の前にいた。
八千穂はベンチに腰を下ろすと、大きく息を吐いた。これからどうすれば――
「足、速いのね」
「?」
顔を上げると、綾音がいた。苦しそうに肩で息をしている。
「隣、いい?」
綾音の息が整うまでのしばし、二人は無言で座り続けた。平日午前中の住宅街は、人通りもなく、とても静かだった。
「あれは……酷いね」綾音が言った。「戸時先輩が随分と追い詰めてくれたんだけど……でも、先生方が誰も出てこなくて。どうなっているのかしら」
「先生方が?」
「うん」
八千穂は閃くものがあった。そうか、そうきたか――八千穂は歯ぎしりをする。
「どうしたの?」
「あの男は鬼だ」
「うん。そうだろうと思っていた」
「だから、生徒たちには気を配っていた。でも、先に先生方をやられたみたい」
綾音が息を飲んだ。
先生方が鬼に〈魂糸〉を操られている――それならば、今朝の状況も説明が付く。八千穂が停学中だった二日間で、鶴牧は大人たちから地固めを行ったということだ――
でも――だとしても、どうすればいいのか。八千穂は途方に暮れた。
「綾音」
「なに?」
「私、学校やめないといけないのかな」
「馬鹿なこと言わないで」
「鬼を施術することはできる。でも、人の記憶は操れない」
「……それにしたって、八千穂はみんなを守ろうとしているのに……」
「だからかな」
「何が?」
「先代の〈霊鬼割〉、おばあちゃんが私に言ったの。〈霊鬼割〉は鬼を狩ることだけに集中すればいい。鬼に〈魂糸〉を切られて命を喰われた人は、それが寿命だ。〈霊鬼割〉が関わることじゃない……って」
八千穂は自分の顔が強ばっていることを自覚した。こんなとき、どんな顔をしたら良いのだろうか。
「たとえ私が〈魂糸〉を環に繋いでも、普通の人にはわからない。鬼の凶行を防いでも、普通の人にはわからない……ただ、変に思われるだけ……」
「八千穂?」
「あれ?」
八千穂は、自分の頬を何かが流れていることに気が付いた。手の甲でそれを拭っても、後から後から、何かが流れ落ちてきた。
「なんで……」
物心ついた頃から、八千穂は泣いた記憶がない。だから、泣いている自分に戸惑った。どうしたら良いかわからず、ただ、手の甲で涙を拭い続ける――
「泣きたいときは泣いて良いの。人はね、泣くようにできているんだから」
「でも……」
「女の子の涙に理由はいらないわ。今は思いっきり泣く。理由は後で考えればいいのよ」
そうして、綾音は優しく八千穂の肩を抱き寄せた。
泣いて良い――八千穂は心の枷を解き放った。ひっ、と喉が鳴り、知らず声が溢れた。溢れたら止まらず、八千穂は今までの分を取り返すかのように、大きな声を上げて泣いた。