八千穂事件 9
〈魂見鏡〉をつけて校内を巡った毅瑠は唇をかんだ。
「うかつだった……」
八千穂が、停学中の二日間に生徒たちに気を配っていたのと同じように、毅瑠も被害を受けた生徒はいないか、ことある毎に注意していた。しかし、今朝の騒ぎで、あることに気付いた。教職員が誰も出てこない――
毅瑠は〈魂見鏡〉をかけて校舎内に入ると、職員室を覗いた。案の定、教員たちの〈魂糸〉が無惨な状態になっていた。もちろん、校舎内のどこに行っても、大人たちの〈魂糸〉が切られてはみ出していた。
〈魂糸〉は心に直結している。〈魂糸〉で編まれた〈魂の要〉に意識が宿るとされているからだ。とすれば、人の〈魂糸〉に干渉する鬼が、その心を操ることもあるかもしれない。恐怖による服従は根源的な事柄だけに、力任せに大勢に行いやすいことも考えられる。
鶴牧有人――あの鬼は、他人の〈魂糸〉を傷つけ、その心を恐怖で縛り服従させる――そういうことのようだった。
八千穂の退学を認めなかった職員たちを、鶴牧は力で服従させた。だから、今朝の騒ぎで教職員は誰一人出てこなかったのだ。恐らく、鶴牧がもう一度職員会議で八千穂の退学を迫れば、今度は間違いなく決議されるだろう。しかし、それだけでは気が晴れないということか――。始業式では、件の二年生男子を全員の前で屈服させようとした。衆人環視の元で、膝を付かせ、屈辱を味合わせないことには気が済まない――
(真性のサディストだ……)
毅瑠は深いため息をつくと、生徒会室へと向かった。まともに授業を受ける気になどなれず、生徒会室でサボタージュを決め込むことにする。考えなければならないことが山ほどある――
もちろん、帰ってしまった八千穂のことが一番気になった。しかし、八千穂の後は綾音が追ってくれた。毅瑠は、今日八千穂が学校で調べようと思っていたはずのことを、代わりにやる必要があった。鬼について――被害者について――
「あら、不良ね」
生徒会室のドアを開けると、中に夏目がいた。
「お互い様でしょ?」
毅瑠は扉を閉めると、ゆっくりと中に入った。昨日の今日だったが、夏目は特に毅瑠を咎めはしなかった。
「今朝、凄かったですね、戸時会長。惚れました」
「その冗談は笑えないわ」
「……すいません」
夏目は、マグカップの中に冷めたコーヒーをかき回していた。毅瑠はポットにお湯を作り、二人分のコーヒーをいれる。その間、二人は無言だった。まだ二時限目が始まったばかりだ。午前中の授業に出る気のない二人には、時間がたっぷりあった。
温かいコーヒーを受け取って、夏目が口を開いた。
「さすがに、そろそろ話してくれるかしら?」
「……わかりました」
四月の〈銅像生け贄事件〉から約半年。〈二年C組テレパシーカンニング事件〉〈夢喰い事件〉と続いて、八千穂が何か不思議な力を持っているだろうことに、気付かない方がおかしい。ましてや、相手は夏目である。
「少し長くて複雑な話になりますが……」
「大丈夫、時間はたっぷりあるわ」
そうして毅瑠は、八千穂との出逢いから、〈霊鬼割〉〈魂糸〉〈鬼〉などのことを、順を追って話し始めた。
開け放たれた窓から、暑さの名残を含んだ風が吹き込む。夏にしがみついたような蝉の鳴き声が時折聞こえる。毅瑠の声だけが響く生徒会室は、話の内容も相まって、夢の中のように現実感がなかった。
「……なるほどね」
すべて聞き終えて、夏目が一つ息を吐いた。毅瑠は、冷めてしまったコーヒーをぐいと飲む。
毅瑠の話に、夏目は特に感想を述べなかった。信じるとも、信じないとも言わない。あるがままに受け取る、それが夏目のスタイルだった。
「それで、この後はどうするつもりなの?」
「鶴牧先生を施術して、それから、チホへの誤解を解きたいと思います」
「どうやって?」
「たとえば……手品だったことにするとか。施術後の鶴牧なら言いくるめられると……」
「向井君」
「いや、集団催眠だったことにして……」
「向井君」
「戸時会長、以前みたいな仕込みをまた……」
「向井毅瑠!」
毅瑠は、びくっとして、口を半開きのまま言葉を止めた。夏目がまっすぐに毅瑠の目を覗き込んでくる。
「向井君。人を欺いて丸く収めることばかり考えていると、大切なことを見失うわよ」
「……」
「君にとって、一番大切なことは何?」
「全校生徒の滞りのない日常……」
「違うでしょ?」
「でも……」
「違うでしょ?」
「はい」
毅瑠は小さく頷いた。一番大切なもの――そんなこと、最初からわかっている。言われるまでもなく、わかっているのだ。
「大切なものを守るために、何かを犠牲にする決断も必要よ」
「……」
「でも、忘れないで。何があっても、私は二人の味方だから」
「先輩……俺、昨日酷いことを……なのに……」
「そうね。でも、誰かのために周りが見えなくなる……それは、素敵なことだわ」
夏目は優しく笑った。窓から入る風に、秋の香が微かに混じる。それを嗅ぎ取って、夏目は視線を外へと向けた。
「最後に一つ……女の子はね、大好きな人が側にいてくれれば、全世界が敵でも生きていけるわ」
毅瑠は生徒会室を飛び出していった。