八千穂事件 8
八千穂の停学が明けた日、朝早く登校した毅瑠は、予想を遙かに越えた光景を目にして固まった。
『神坂八千穂を退学にしろ!』
そう大書した横断幕を持った鶴牧が、朝早くから正門前に陣取っていたのだった。
「あんな野蛮で得体のしれない生徒と一緒に、君たちは勉強ができるのか? 私は、間違いなく、黒い剣でこの胸を貫かれた。傷跡が残っていないというのが、また不気味ではないか。君たちも見ただろう? あれは夢ではない。自分たちの目を信じるのだ。いいか! 神坂八千穂は得体がしれない。本当に人か? 今一度問う。本当に君たちは、あの女と一緒に学園生活を送ることができるのか? どうだ?」
拡声器を使って、鶴牧は声を張り上げた。登校してくる生徒たちが、呆気にとられてその様子を見ている。
「一学期、銅像絡みの事件のとき、神坂八千穂が関係しているのではないか、という噂が立ったそうではないか。それは、たぶん真実だ。君たち、自分の直感を信じたまえ。Believe Yourself!」
不思議なことは、教職員が止めに入らないことだった。それを良いことに、鶴牧の言葉はエスカレートする。そして、次第に観衆――生徒たちも、その論調に同調し始めていた。朝の校門前に、異様な熱気の集団が出現していた。ついには、シュプレヒコールを始める。
「神坂八千穂をやめさせろ! 神坂八千穂をやめさせろ! 神坂八千穂をやめさせろ!」
「やめなさい!」
シュプレヒコールに負けない大音量の声が降り注いだ。一瞬、声が止む。
「鶴牧先生、何を考えていらっしゃるんですか! 馬鹿もほどほどになさってください」
声の主、生徒会長戸時夏目は、やはり拡声器を持って校舎から正門に向かって歩いてきていた。
「先生が、一人の生徒をやめさせるために生徒たちを焚き付けるなんて、聞いたこともないわ」
「これはこれは、生徒会長さんだね」
「戸時夏目です」
「戸時君か。ときに、君はあのとき、私と神坂の一番近くにいた。違うかね?」
「その通りです」
「それなら見たはずだ。あの女が、私の胸を貫いたのを」
「見ていません」
「何だと?」
「見ていません」
「ふん……こざかしい。そうか、あいつは生徒会の関係者だったな。自分の生徒会に傷が付くからなあ。不利なことはもみ消しか」
「見ていないものは、見ていません。集まっている皆さんも、何を見たって言うんですか?」
夏目は自信満々で言い放った。鶴牧に先導されていた生徒たちが、ざわっと不安げに揺れる。そこまで自信たっぷりに訊かれて、大概の生徒は自信が揺らいでいるのだ。
「私……右側にも長い髪の毛を見たような気がする……」人垣の中から、誰かがそんな呟きを漏らした。
「俺も見た気がする」「うん、確かに左右に髪があったよ」「何だったんだあれ」――
「そら見ろ、やはり神坂八千穂は得体がしれない! あんなの、恐らく人じゃない!」
鶴牧は勢い込んで言った。その目が異様にぎらついている。
「ではお伺いします」夏目が冷静な口調で言った。
「なんだ?」
「神坂さんが飛び出してきたとき、先生はこうおっしゃっていました。『俺に逆らったり、俺を馬鹿にした奴がどうなるか』と。いったい、何をなさろうとしていたのですか?」
どよっ、と群衆が揺れた。
「そんなことはどうでもいい!」
「よくありません。あれがなければ、神坂さんが飛び出してくる必要もなかったんですから」
「結果的に俺は何もしていないんだから、問題ではない」
「結果的に? じゃあ、何かをするつもりだったのですね?」
「屁理屈をこねるな!」
「質問に答えてください。先生は、あの二年生に何をなさるおつもりだったのですか? 私のことが気に入らないなら、今ここで、私にそれをやってみますか?」
今や、正門前はしんと静まり返っていた。誰もが息を詰めて、鶴牧と夏目のやりとりを見つめている。
「殴るおつもりですか? それとも蹴るのかしら? あのときもそうだけれど、これだけの観衆の中でそれをやったら、先生の責任も問われますわね? それとも、学園長にコネでもあるのかしら?」
鶴牧の顔が憤怒に彩られた。夏目を睨み付けている。夏目はその視線を受け止めた。
「それとも先生、手も足も出さずに、私をどうにかする術をお持ちなのかしら?」
その言葉は、鶴牧だけでなく、その場にいる全員に衝撃を与えた。鶴牧は虚を突かれたような顔をして、一歩下がった。
「もし、先生が一歩も動かずに私をどうにかできたら、先生の方が人外のものだということになってしまいますけれど」
艶然と、凄惨な笑みを浮かべた夏目に、今や鶴牧は完全に押されていた。これは鶴牧の負けだ――誰もがそう思ったとき――
「神坂だ」
その一言で人垣が割れた。正門の手前に、呆然と立つ八千穂の姿があった。
「チホ」
毅瑠はその側に駆け寄った。
八千穂は鶴牧が持つ横断幕を見上げた。
集まった生徒たちは、一様に怯えた目で八千穂を見た。
八千穂が一歩前に足を踏み出すと、周りの人垣が半歩下がった。
そして――誰かが呟いた。
「よく出てきたな……」
その声に誘発されて、少しずつ、さっきのシュプレヒコールが再現される――
叩き付けられる言葉の暴力に、八千穂は踵を返すと、正門に背を向けて走り去っていった。