八千穂事件 6
生徒会室を飛び出した毅瑠は、知らず神坂神社へと辿り着いていた。
一昨日学校で別れて以降、八千穂とは会っていない。何度か電話がかかってきたが、出ることはできなかった。どんな言葉をかければいいのか、それがわからない。
この数ヶ月で、自分が八千穂を変えたという自覚が毅瑠にはあった。もちろん、綾音や、夏目や、生徒会の皆の影響もあるだろう。でも、きっかけは自分なんだという自負があった。すべては、良い方向に向かっているのだという自負があった。しかし――
一昨日の始業式での鶴牧教諭の騒動。まさか、あそこで八千穂が剣〈髪逆〉を抜くとは思わなかった。どれだけ鶴牧が危険な鬼だったとしても、以前の八千穂なら、剣〈髪逆〉を衆人環視の中に晒すなどありえなかったはずだ――〈霊鬼割〉としての理性が効かなくなっているのだ。
今、校内は八千穂が振り回していたものは何だったのかが話題になっている。当然だが――好意的な噂ではない。二日が経ち、生徒たちは自分の記憶に自信が持てなくなり始めている。結果、気味の悪さだけが残ってしまっている。
毅瑠は、八千穂にどうなってもらいたいのか、それがわからなくなっていた。八千穂には、普通の女の子として高校生活を楽しんでもらいたい。しかしそれは、〈霊鬼割〉の宿命を蔑ろにしろと言っているわけではない。八千穂が普通の女子高生として学校になじめばなじむほど、それが原因で立場が危うくなるのでは、本末転倒だ。
あの、始業式での八千穂の行動をどう評価するべきか――毅瑠は迷っていた。
「向井君?」
「乙蔵さん……」
神社の鳥居の下で二の足を踏んでいた毅瑠に声をかけたのは、驚いたことに綾音だった。
「なんでここに……」
「それはこっちの台詞よ」
「毅瑠」綾音に続いて現れた八千穂が、毅瑠に気付いて足を止めた。
「やあ、チホ。久しぶり……」
「毅瑠。綾音に謝って」
「え?」
「泣かせたでしょ? 謝って」
「……」
綾音が八千穂に泣きついたのだろうか? なんとなくそれはしっくりこなかったが、とにかく綾音は、涙の理由を八千穂に打ち明けたらしい。毅瑠は素直に頭を下げた。
「乙蔵さん……ごめん」
綾音は、毅瑠と八千穂の顔を交互に見ると、深いため息をついた。そして「向井君。ちょっと来て」と毅瑠を誘うと、八千穂の目の届かないところまで移動した。
「ええと……本当にごめん」
「それはもう良いわ。それより、八千穂のことよ」
「チホの?」
「向井君、八千穂の前で必要以上に自分を責めないようにしてね。あの子、あなたが教えた道が正しい道だと、そう信じてる。今回の件だって、自分の行動をちっとも後悔してないわ。なのに向井君が迷ったら……あの子どうなっちゃうと思う?」
「……」
「だから、向井君は、いつもの毒舌で趣味の悪い向井君のままでいいのよ」
「ありがとう」
「私が感謝される筋合いはないわ。あなたを信じているのは八千穂なの。私はねえ……酷い目にばっかりあわされて、ちょっとむかついてるわ。そうね……一発くらい殴ろうかしら」
「……わかった」
毅瑠は目を閉じて、歯を食いしばった。綾音は躊躇なく毅瑠の頬を張った。
「て――――」
「当然。これは、私の分じゃないもの」
「え?」
「戸時先輩を侮辱した分よ。私の分は、たぶん先輩がやってくれたんでしょ?」
毅瑠は頬を抑えた。まさに、図星だった。
「何やってる?」
毅瑠と綾音がなかなか戻ってこないのを怪しんで、八千穂が顔を覗かせた。
「なんでもないわ。こっぴどく叱っていたところよ」
八千穂は毅瑠の顔を見た。そして、腫れた頬を見て納得したようだった。
「さて、私は帰るわ。ミルクごちそうさまって、七穂小母様に伝えておいてね」
綾音は軽く手を振ると、さっさとその場を後にした。
残された毅瑠と八千穂は、しばらくその後ろ姿を見送っていた。