八千穂事件 3
「向井君。向井君?……向井君!」
「……え?」
毅瑠の顔を乙蔵綾音が覗き込んでいた。
「ぼーっとして、全然仕事が進んでないわ。そんなに八千穂のことが気になる?」
始業式の事件から二日目の放課後。場所は生徒会室だった。
八千穂のことがあったからといって、学校行事がなくなるわけではない。生徒会の仕事が忙しいのは相変わらずで、毅瑠としても、八千穂が気になるからといってそれを放り出すわけにはいかない。八千穂が抜けている分、綾音が手伝いに来てくれていた。
「乙蔵さんも、正式に事務員になってもらいたいんだけれど、良いかしら?」夏目が言った。
「本当ですか? わ、がんばります」綾音が嬉しそうに手を叩く。
誰からともなく、生徒会室に拍手が沸き起こった。
「さ、今日も、もう一踏ん張りよ」
夏目が檄を飛ばし、生徒会室中が頷いた。
「……ですか?」
「え?」
毅瑠が何かを呟き、一番近くにいた綾音が聞き返した。
「チホは、もう生徒会にはいらないんですか?」
「向井。お前何を」
太一が毅瑠を咎めようとするが、毅瑠はそれには取り合わず、夏目へと詰め寄った。
「乙蔵さんを事務員にするってことは、チホがいらないってことですね?」
「違うわよ」夏目が冷静な口調で返す。
「だって、そうじゃないですか。停学処分になったチホがいたら、生徒会の信用に傷が付きますからね?」
「違うわ。乙蔵さんに事務員をやってもらうのは、もう決まっていたことよ」
「それでも……彼女がいれば、チホがいなくなっても平気ですよね」
夏目は無言で毅瑠を見据えた。
「……あれは何だったんだって、みんな思ってますよね? どうです?」
「やめろ、向井」力が強い口調で言う「俺たちは、八千穂ちゃんが意味もなく人を傷つけようとするような子じゃないって、知っている。何か理由があるんだろ?」
「理由ってなんです?」と毅瑠。
「何?」
「わからないですよね? それは気味が悪いし、印象が悪い。なんとかしないと……このタイミングでの新事務員は……」
「もうやめて!」叫んだのは綾音だった。「やめて、向井君。邪魔なら出て行くから……」
綾音は、溢れる涙を抑えながら、生徒会室を飛び出していった。
「向井君」
夏目が抑えた口調で毅瑠を呼んだ。そして、毅瑠の振り向きざま――ぱんっ、とその頬を張った。
「あ……」
「八千穂ちゃんは、誰がなんと言おうと生徒会の仲間よ。でも、仲間が信じられないなら……あんたは出て行きなさい!」
じわじわと、頬に痛みの波がやってきた。頭の中が真っ白になる。静かな憤怒を湛えた夏目が、毅瑠を睨み付けている。この顔を見たのは二度目だ。一度目は、四月に八千穂がクラスの中でイジメを受けたとき――
毅瑠は、かつて自分も停学処分になったことがあるのを忘れていた。それでも、夏目達の自分への態度に変化などなかった――毅瑠は夏目の顔を見ていられなくなり、ふいと視線を逸らした。すると今度は、他の五組の視線に晒される――
「……」
やがてそれにも耐えられなくなった毅瑠は、自分の鞄を掴むと、生徒会室を飛び出した。




