八千穂事件 1
九月。
始業式に集まった涼心学園高校の生徒たちは、夏休みの余韻を引きずっていた。
ざわざわと落ち着かない体育館の片隅で、生徒会の面々が勢揃いし、出番を待っていた。生徒会長戸時夏目を筆頭に、生徒会副会長縁田太一と山瀬道生、書記の木谷希奈と向井毅瑠、会計の水村作、事務員の水村力と神坂八千穂だ。二学期は生徒会が関わる行事が多い。始業式の式次第が終了した後、生徒会から体育祭と文化祭についての説明が予定されているのだ。
舞台上では校長先生の話が終わり、夏休み中に行われた部活動の各種大会の結果報告が行われていた。真っ黒に日焼けした生徒たちが舞台上に整列し、進行役の教頭先生が順番に結果を発表していった。
「さて、この後は生徒会ですが、その前にお知らせがあります」紹介された生徒たちが舞台上から下りると、教頭先生が言った。「英語科の山科先生が産休に入られました。代りに、新しい先生がお見えになりましたので、この場でご紹介します。鶴牧先生、舞台上にお願いします」
促されて、二十代半ばの細身の男が舞台に上がった。少し色を抜いた柔らかそうな髪を持ち、端正な顔立ちをしている。一部の女子生徒の間からため息が漏れた。
「ただいまご紹介にあずかりました鶴牧有人です。担当は英語です。山科先生が戻られるまでの短い間ですが、仲良くやりましょう。よろしくお願いします」
にっこり笑う鶴牧に、さらに黄色い声があがる。「かっこいー」「こっち向いて」「彼女いますかー」などの声に、男子生徒のやっかみが混じる。
「はい、静かにして。シャーラップ。これから生徒会からの連絡があるからね」
鶴牧はオーバーアクションで手を広げてそう言うと、踵を返した。騒いでいた生徒たちも、潮時と見て静まり返る。しかし、タイミングのずれた声が一つ、静かになった体育館に響いた。
「何がシャーラップだよ。きもっ」
言葉を発した男子生徒は、意外に響いてしまった自分の声に驚いている。鶴牧も聞こえたらしく、舞台上隅で足を止めた。居心地の悪い沈黙が体育館を支配する。
「はいはい。それじゃあ、生徒会からの連絡を始めるわね」
絶妙のタイミングで、マイクを持った夏目が舞台上に飛び出した。体育館全体がほっと息をつく。それで終わるはずだった。しかし――
「ちょっと待て」
舞台上から退きかけていた鶴牧が、中央へと戻り、夏目を制した。
「え?」
「今、言った奴誰だ!」鶴牧は舞台の縁まで出ると、生徒たちを見渡した。
鶴牧の予想外の行動に生徒たちは動揺した。その動揺は、声の主に目を向けるという行動で現れた。だから、自然、発言の主が誰なのかが鶴牧に知れることとなった。
「お前か……」
鶴牧の視線は、ひたと当該の生徒に向けられた。二年生の男子生徒だった。
「今日は最初だからな。はっきりさせておいてやる。俺に逆らったり、俺を馬鹿にした奴がどうなるか」
そのとき、八千穂は舞台袖にいた。微妙な空気を感じ取った夏目が先に飛び出したため、他の面々は、出て行くタイミングを伺わざるをえなくなっていた。
「やばいな。止めないと」
太一が舞台に飛び出した。鶴牧が悪口を言った生徒を殴ると思ったに違いない。しかし、鶴牧が舞台から下りる気配はなかった。
「?」
唐突に、八千穂の背筋を悪寒が走った。嫌な気配が舞台上に溢れる――これは――
「チホ?」
八千穂の異変に気付いた毅瑠が声をかけた。
「鬼だ」
「え?」
八千穂の呟きに、毅瑠の顔色が変わる。
「みんなもよく見ろ。そいつがどうなるかをな」舞台上で鶴牧が叫んだ。
八千穂は周囲を気にする余裕なく〈霊鬼割〉の力を解放した。一瞬で右の三つ編みが顕現し、その目に、鶴牧の体から伸びた〈魂糸〉が飛び込んできた。それは、件の男子生徒目がけて一直線に伸びている。
「だめだ」
毅瑠がそう言ったのが聞こえたが、体が反応していた。
八千穂は右の三つ編みの中から剣〈髪逆〉を引き抜くと、舞台上に飛び出した。鶴牧の〈魂糸〉を一刀両断し、返す刀を鶴牧の胸元へと向ける。剣〈髪逆〉は、鶴牧の胸を深々と貫いた。
「なんだ? これは」
痛みがないためか、鶴牧は意外に冷静だった。いや、虚を突かれて、感情が対応しきれなかっただけかもしれない。
「?」
そしてなぜか、〈魂の要〉を貫いたはずなのに、鶴牧の〈魂糸〉が麻痺した様子がなかった。八千穂は混乱し、とにかく鶴牧を施術しようと左手を伸ばした。そのとき――
「きゃ――――――――」
生徒たちの間から悲鳴があがった。
それで八千穂の動きが止まった。
鶴牧は一歩後ろへとよろけ、しかし踏みとどまって八千穂を睨み付けた。自分の胸に刺さった〈髪逆〉を見つめて、ごくりと唾を飲み込む。
「チホ!」
舞台袖から飛び出してきた毅瑠の声に、八千穂はようやく我に返った。
「毅瑠……」
毅瑠は無言で八千穂の手を引くと、舞台袖へと引っ張り込んだ。
やがて、鶴牧の怒声が響き渡り、体育館の中は騒然となった。
それが、〈神坂八千穂事件〉の幕開けだった――