八千穂事件 プロローグ
お前の目つきのせいだ、と奴は言った。
俺の目を見ると、嗜虐的な気分が喚起されるのだという――いや、奴はそんな語彙に満ちた言葉は発しなかった。ただ、「その目を見ていると痛めつけたくなる」と言っただけだ。それは、日本語ですらなかったのだから――
物心ついた頃から、俺は極端な扱いを受ける子供だった。大人や、一部の友人たちからは熱烈に可愛がられた。彼らは一様に「その目が魅力的だ」と言った。一方で、不良どもからは、ことある毎にちょっかいを出された。奴らは意味もなく俺を攻撃し、こう言った。「その目が気に入らない」と。
自分の目が、曰く言い難い存在であることを、俺は徐々に自覚した。俺の目は、人の心をかき乱す――
それでも、俺は普通に暮らしていた。敵は多かったが、味方も多かった。他人はそのどちらかに分類できるのだから、それなりに処すれば良いだけだった。
しかし、大学三年生の夏、留学していたアメリカで出会った奴は、今まで会った連中とはわけが違った。奴は俺と目が合うなり、俺の腕を掴んで路地裏に引っ張り込んだのだ。都会の人混みが冷たいのは世界共通だ。引っ張られる俺を助けようとする人間はいなかった。
俺は、今までの経験則に基づいて、大人しく暴力を受け入れることにした。怪我をしない殴られ方、蹴られ方、倒れ方――それらは充分心得ていた。俺に暴力を振るう連中の大概は、気が済むまでやれば大人しくなる。挙げ句、俺に優しく手を差し伸べたりする始末だ。それは、俺の目が持つ魔力故だ。
しかし、奴はどこまでいっても満足しなかった。殴り、蹴り、自分の拳から血が滲んでも、まだ飽き足らなかった。ついには、ポケットから何かを取り出すと、それを俺に向けた。黒光りする金属の塊――拳銃だった。
「その目のせいだ。忘れていたのに!」
いったい奴は何を忘れていたというのか。そして、俺の目で何を思い出したのか。俺はそんなことに興味はなかった。重要なのは自分の命だけだ。しかし、俺は奴に物理的に対抗する術を持っていなかった。体を動かすことは苦手ではなかったが、武術などは野蛮な人間のやるものだと思っていた。
だから、俺に残された手段は、もう睨み付けることだけだった。幼い頃から人生を左右してきた自分の目に、すべての想いを乗せて、俺はただひたすらに奴を睨み付けた。
死んでしまえ――と。