銅像生け贄事件 26
向井家では、客に出すのは日本茶だ。八千穂の土産の饅頭が、早速お茶請けとして並んでいる。
「あれからどうだ?」
「変わりない」
「変な嫌がらせとか、ないか?」
八千穂が頷く。
嫌がらせはなくても、友達もあまりいないのだろう、と毅瑠は思った。
「そういえば、松広孝司君の事件さ」毅瑠は話題を変えた。「道生が面白いことを言っていた。懺悔室に松広君が来たって言うんだ。それで、屋上から落ちたあの日、自分の意志で屋上に行ったっていうんだよ」
「何で?」
「上級生の女子に誘われたって。屋上でいいことしないかって」
「いいこと?」
八千穂が小首を傾げる。毅瑠は苦笑した。
誘ったのは恐らく佐藤正子。孝司は当初、分別したごみを捨てに行って、そこから先の記憶がないと言っていた。考えてみれば、先週は正子もごみ係だった。
恐らく正子は、孝司をからかっただけなのだろう。一年生を誘惑してみて、赤くなる顔を楽しんだ。そんな些細なことも、病弱だった彼女には新鮮だった。
放課後の教室で、あの一年生はどうしたかしら、と想像を膨らませて楽しんだのだろう。もし彼が落ちたらどうなるかしら、と考えたかもしれない。それが〈魂糸〉によって孝司を引きずり落とすことになったのかもしれない。もちろん、憶測の域は出ない。しかし、今なら毅瑠は確信できる。正子は孝司をどうこうしようとして誘ったわけではないのだ。
正子が言った「私だって……」という言葉。あれは「私だって責任を感じているんだからね」と言いたかったのか。それとも、「私だって本当に落ちるとは思わなかった」だろうか――
とにかく、孝司にしてみれば、誘惑されてふらふら屋上に行ったなどと、口が裂けても言いたくなかったに違いない。
「佐藤さんはどうしてるかな」
「登校している」
「そりゃ……」
当然そうだろう、と言いかけて、毅瑠ははたと気が付いた。八千穂の顔をまじまじと見る。八千穂は毅瑠が何を言いたいのか察したようだった。
「死んだ人間の〈魂糸〉は、もう本人には戻せない。毅瑠、見ていたでしょ?」
だから、あの非常勤の養護教諭の〈魂糸〉を、全部正子に収めたということか。人の〈魂糸〉の総量がわからない毅瑠は、それに気が付かなかった。
「たいした量じゃない。でも、環になっているし、前よりは元気」
結局、正子によって命を落としたのはあの養護教諭だけだった。正子の生と、名前も知らない養護教諭の死。天秤にかけてはいけないと知りつつ、正子が元気になったことが嬉しいと感じる自分の心が辛い。
「そうだ。あのとき、佐藤さんは〈魂糸〉が見えるようになったよね。まだ見えるの?」
八千穂は首を振った。
「〈髪逆〉で〈魂の要〉に触れた。そうすると、誰でも見えるようになる。でも、施術をすればその力は消える」
ふいに、八千穂が毅瑠の側ににじり寄ってきた。
「?」
「でも、毅瑠は平気」
その近さに、毅瑠は鼓動が跳ね上がる。
――いいことしない?
正子が孝司に言ったであろう言葉が、頭の中でリフレインする。
八千穂は毅瑠に顔を近づけると――「施術する」そう言った。
「え?」
「あのとき、毅瑠の〈魂糸〉も傷ついた。だから施術する。でも、毅瑠の力は消えない」
八千穂は左手を毅瑠の額にあてた。低い詠唱が漏れる。
(これで、命を救われるのは二度目だな……)
車で駐輪場に突っ込んだとき、毅瑠はブレーキを踏んでいなかった。普通なら、こんな短期間で退院できるような怪我で済むはずがなかったのだ――それは、五階から落ちた松広孝司と同じ。八千穂が〈魂糸〉で守ってくれたのだ。八千穂は言わないが、毅瑠にはその確信があった。
額の上でリズムを刻む八千穂の左手から、暖かい何かが流れ込んでくる。それは〈魂糸〉。命の環の復元――
「動かないで、毅瑠」
ずい、と目の前に八千穂の胸元が迫り、毅瑠は慌てて視線だけを泳がせた。
右。
左。
どちらを見ても、腰までの長さの三つ編みが揺れていた。
翌週。
人気のないところで突然幽霊に首筋を捕まれる、という新たな噂話が学園中に蔓延した。
どうやら、八千穂が毅瑠のお願いを実行に移してくれているようだった。
《銅像生け贄事件 了》
「銅像生け贄事件」はこれにて完結です。
幕間を経て、第三幕「夢喰い事件」が始まります。