テレパシー事件 3
二年C組の教室に残っている生徒はいなかった。黒板の上に掛けられた時計が、午後四時半まであと少しのところを指している。
入り口の引き違い戸を開けたところで、毅瑠は立ち止まった。渡り廊下から、虫眼鏡様の物はかけたままだ。鼻にかけるようになっているので、むしろ眼鏡の出来損ないと表現するべきだろうか。
「それは何?」と、今度こそ綾音は訊いた。
「片眼鏡。見たことない?」
「ないわ。……探偵気分てこと?」
「そんなところだね」
毅瑠は目を細めて教室内を見渡した。特に、教卓付近を念入りに観察しているように綾音には見えた。
どれ程そうしていたか、毅瑠はふっと息を吐くと、二年C組の教室へと足を踏み入れた。片眼鏡は外している。
「乙蔵さんの席はどこ?」
「ここよ」
綾音は教室中央の自分の席に着いた。毅瑠も手近な席に座る。
「さて、詳しい話を聞かせてくれる?」
「また?」
「今度は、乙蔵さん個人のことを含めて、最初からね」
綾音は机の上で手を組んでしばらく考えた。それから、おもむろに話し始めた。
国語科の蛯原教諭は、授業中によく抜き打ちテストを行うことで有名だった。昨日も、授業が始まって十五分程して、唐突に「これから小論文のテストをやる」と言い出したのだった。
生徒たちの控えめなブーイングもどこ吹く風で、蛯原は黒板に小論文のテーマを書いた。
『国語の勉強をする意味とは何か?』
角張った文字で大書し、嫌らしくほくそ笑みながら生徒たちを見渡した蛯原は、四百字詰め原稿用紙を配り始めた。原稿用紙一枚、最後の行まで書くこと、タイトルと名前は欄外に書くこと、時間は二十五分。そう指示を出すと、蛯原本人も教卓に向かって原稿用紙を埋め始めた。
そこまでの授業の内容とはまるっきり関連のないテーマ――なにしろ、漢字の授業をしていたのだから――に、生徒たちは混乱した。多くの生徒が、教卓でボールペンを走らせる蛯原を呆然と見つめた。
十五分程して、模範解答を書き上げたらしい蛯原は、しっかりやれよ、と言い残して教室を出た。トイレか、一服入れに行ったのか、戻ってきたのは十分ほどしてからだった。
原稿用紙が配られたとき、綾音も他の生徒たちと同じく途方に暮れた。――意味なんてあるわけないじゃん! と心中毒づいてみても、それをそのまま書くわけにはいかない。目立たないように周囲を見渡すと、誰もが鉛筆を手に固まっていた。
綾音は教卓に座る蛯原を睨み付けた。
(あんなに楽しそうに……何を書いているのかしら)
もちろん、それは小論文の模範解答なのだが、混乱した綾音の思考は上擦るばかりだ。なんとか一矢報いたい――これも意味不明だが――と考え、力の限り睨み続けた。
そうするうちに、教室のあちこちから鉛筆の走る音が聞こえ始めた。どんなに理不尽でも、白紙で小論文を提出するわけにはいかない。皆、それなりに原稿用紙を埋め始めたらしい。
さすがに綾音も、何か書かなければと思った。その矢先だった。
唐突に頭の中に言葉が浮かんだ。
あれっと思い、意識を集中すると、それはいかにも蛯原の好きそうな文章だった。綾音の頭の中でそれは、原稿用紙に書き付けられてすらいた。テスト時間は既に十分近く経過していた。迷っている暇はなく、ままよとばかり、綾音はその文章を原稿用紙に書き付けた。その作業はテスト時間をぎりぎり一杯使ってようやく終わった。
ほうほうの体で原稿用紙を提出し、なんとか切り抜けたことに安堵していられたのはお昼休みまでで、五時間目の数学の授業中に、血相を変えた蛯原が飛び込んできたのだった。
「でも、私たちだって驚いたわ」
蛯原の言動を思い出して、綾音は憤懣やるかたないという表情で机を叩いた。
「乙蔵さんも同じ論文を書いた一人なんだよね?」
綾音が頷く。
「他に、どこの席に座っていた生徒が同じ論文を書いたかわかる?」
教卓の中にはクラスの座席表が置いてある。綾音はそれを持ち出すと、端から丸を付けていった。
「この子と、この子……あと、この子ね」
教室の机の並びは六列。一列には六人から七人の生徒が並んでいる。もちろん、殆どの席に丸印が付けられた。毅瑠はそれを見ながら教室を見渡した。
「法則性はないみたいだね」
丸印の付いていない生徒がどこか一画に集中している、ということもなかった。
「テスト中のさ、原稿用紙が思い浮かんだってやつ……他の人たちはどうだったのかな?」
「どうって?」
「どんな風に例の小論文を書いたのか、みんなに訊いてみた?」
――そういえば、昨日の今日で皆興奮していて、そんな細かい話はしていないような気がする。
「あ、でも、厚子は私と同じようなこと言ってたなあ」
「厚子さん?」
「羽田厚子。この子よ」綾音は、座席表の彼女の名前を指さした。
毅瑠は顎に手をあてて考え込んだ。座席表を睨み付けている。意外に眉毛が太いんだなあ、と綾音は余計なことを考えた。
「変なことを聞くけど」毅瑠が顔を上げた。「乙蔵さんが小論文の文章を思い浮かべたとき、その文章は最初から完成していたの? それとも、順次浮かんできたの? どっちだったか覚えてる?」
「?」
綾音は面食らった。質問の意図がわからない。しかし、毅瑠の真剣な眼差しに気圧されて、自分の記憶を辿る。
「……完成していたと思う」
「そのとき、蛯原先生はまだ模範解答を書いている最中だったかな? それとも書き終えていた?」
「まだ書いていたわ」
綾音は視線を教卓へと泳がせた。そこに昨日の蛯原の姿を幻視する。そして、視線を戻した。そのとき――
「ひっ……」
毅瑠が、例の片眼鏡をつけて綾音の顔を覗き込んでいた。顔の近さと、その射るような視線に、綾音は思わず腰が引けた。ガタガタと椅子が音を立てる。
「ああ、ごめん。驚かすつもりじゃなかったんだ」
毅瑠は笑いながら片眼鏡を外した。その、爽やかな笑顔に、綾音は憎らしさが募った。
「うそ! 向井君、サドでしょ?」
「え?」
「私、向井君に驚かされたの、今日三度目だもの」
「は? 乙蔵さんが勝手に驚いただけじゃない?」
「記憶にご・ざ・い・ま・せ・ん! 明日、クラスのみんなに報告するわ。生徒会書記の向井毅瑠君はサドだから、気をつけるようにって」
「な、ちょ……。どっちがサドだよ!」
年相応に――そう、綾音が思っただけだが――顔を赤らめて慌てる毅瑠に、綾音は少し溜飲を下げた。とどめにと、悪戯っぽく上目遣いに見上げてみると、毅瑠はため息をついて肩を竦めた。
「今日はここまでにしようか」
時計は四時五十分を指していた。
「何かわかった?」
「事件……あえてそう呼ぶけど……それについての仮説はいくつか立った。でも、まだなんともいえない。蛯原先生との件は、これから生徒会で検討するよ」
「そう」綾音はちょっと肩を落とした。
「タイムリミットは来週の火曜日の三時限目開始までだろ? 焦りは禁物だよ」
「うん」
「それはそうとさ」
「?」
「このクラスで、何か最近流行っているものってない?」
毅瑠の口調は雑談に入ったようだった。
「たとえば?」
「おまじないとか、占いとか、アクセサリーとか」
「それなら……」綾音はスカートのポケットから携帯電話を取り出した。そのストラップとして、フェルト製のマスコット人形がぶら下がっている。
毅瑠は気楽にそれを手に取った。
「うわっ……何これ? 不細工だなあ」
「それが逆に可愛いでしょ?」
小さな男の子を形作ったそのマスコット人形は、細工は非常に細かいものの、如何せん可愛さが欠けていた。
「女子のセンスってわからないなあ」
「あら、男子も結構買ったわよ」
「自分で作ったんじゃないの?」
「駅前の露店で売ってたんだって。先週、秋山さんが買ってきて、かわいいねって話になったのよ。私たちも欲しいって言ったら、じゃあ買ってきてあげるって。しかもね、これ〈お願い事が叶うお守り〉なの」
「お守り?」
「半分眉唾だけどね。露店のお姉さんがそう言って売ってたんだって。そういうの、よくあるじゃない? で、その話をしたら、今度は男子連中が、俺たちも欲しいって」
「どの位の人が買ったの?」
「クラスのほとんど……三十人ぐらいかなあ……あれ?」
綾音は背中に何か冷たいものが走るのを感じて、慌てて座席表に目を落とした。丸印の付いている三十人は、人形を買った生徒ではなかったか――
「最初に買ってきたのは、秋山さん?」
「うん。秋山彰子。……なに? これ、どうかしたの?」
「いや。別件でね。校内の流行の広がり方ってテーマで色々調べているんだ。学園祭向けのネタだよ」
「ふーん……」
「その秋山さん、部活は?」
「帰宅部だったと思うけど」
そうか残念、と毅瑠は笑った。
「ねえ、これって」
「俺も欲しいと思ったんだけど。また明日にでも秋山さんに訊いてみるよ」
――何かをはぐらかされた気がした。毅瑠をやりこめたと思っていたら、完全にやり返された感じだ。綾音は、あんなにかわいいと思っていたマスコット人形が急に薄気味悪く思えて、携帯電話をポケットに戻すことができなかった。