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ひきわり  作者: 夏乃市
第二章 銅像生け贄事件
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銅像生け贄事件 13

 どこをどう通ったのか覚えていなかった。気が付くと、毅瑠は生徒会室の前に立っていた。

 時刻はまだ六時前で、室内にはみんないるはずだったが、毅瑠は立ち尽くしたまま中に入ることができなかった。

「あら」

 扉を開けて出てきたのは夏目だった。

「戸時会長……」

 ふわっ、と空気が揺れた。暖かい体温と、弾力のある感触。毅瑠が避ける暇を与えず、夏目は毅瑠を抱きしめていた。

「酷い顔しているわよ」

 その感触を楽しむ余裕も、慌てて振り払う余裕も、今の毅瑠にはなかった。ただただ抱きしめられるだけ――幼い子供のように――

 やがて、そっと夏目が体を離した。

「付いていらっしゃい」

 促されるままに、毅瑠は歩き出していた。

 夏目は毅瑠を夕方の食堂へと誘った。この時間は営業していないが、テーブルは談話スペースとして使うことができる。夏目は毅瑠を座らせると、自動販売機でカップのカフェオレを二杯買った。一杯を毅瑠の前に、もう一杯を自分の前に置く。

「少しは落ち着いた? 向井君」

「どきどきしています」

「それは結構」

 夏目は、にひひひ、と嫌らしい笑い方をした。毅瑠も釣られて苦笑した。

「今は特別サービス期間だからね」

 本当にこの人は――と毅瑠は感心する。いきなり説明しろとも、相談に乗るとも言わないのだ。抱きしめて、話を聞いてくれる。それが、生徒会長戸時夏目という存在だ。

 しかし、想いはすぐに自分の内側へと向いた。自分はいったい、何にあれほどのショックを受けたのだろうか――と。

 昨日の八千穂の話には、驚きこそすれ、それ程のショックは受けなかった。正子が犯人だと教えられたときも同様だ。〈魂糸〉が見えたときはかなり動揺したが、ショックとは違う。さらに言えば、挽田香の自殺も、松広孝司の事故も、今ほどのショックを毅瑠に与えはしなかった――

(結局、他人事だと思っていたってことか……)

 涼心学園高校の生徒会は、夏目を筆頭に、歴代海千山千の人物が揃っている。学園を向こうに回して堂々と論陣を張り、政治力を駆使してきた。学校内に限ったこととはいえ、毅瑠はそれに憧れていた。

 しかし――自分は、すべてをパズルかゲームのように考えてはいなかっただろうか。人ひとりを、駒のように考えてはいなかっただろうか。

 だから、今回の事件も、八千穂という駒を得て、優越感に浸ってはいなかったか。〈魂糸〉というピースを知り、〈佐藤正子〉に辿り着いた。そのことで、正子をゲームのラスボス(最後の敵)と勘違いしてはいなかっただろうか。

 ――そうだ、と思う。八千穂の話を聞いた毅瑠は、正子のこれまでの言動が、すべて生徒会役員たる毅瑠への牽制だと、そう断じてしまっていた。自分と正子はゲーム盤を挟んで対峙しているのだと、そう決めつけてしまった。

 そして、八千穂の言動がそれに拍車をかけた。

 屋上で無防備でいる警察官を狙う――確かにそれは、正子にとって絶好の機会だったに違いない。しかし、それは知る者の理屈だ。これがゲームなら、きっと予想はあたっただろう。

 しかし、さっき教室で正子と話をして、それらが間違いだったことを思い知らされた。ゲーム盤など存在はしない。正子が毅瑠に向けてくれた笑顔は本物だった。

 そのことが、毅瑠を狼狽させ、必要以上にショックを与えたのだった。

「戸時会長……」

「ん?」

「人間て難しいですね」

「そうね。でも、簡単じゃつまらないでしょ?」

「……ある事件の犯人がいたとします」

「ええ」

「真犯人なのは間違いない。そして、その人は会長に好意を持っている。でも、見逃してしまうと、間違いなく再犯する……戸時会長ならどうしますか?」

「通報するわ」

「即答ですね」

「その真犯人が私に好意を持っていてくれることを、私はいつ知るの?」

 毅瑠は苦笑した。さすがに話のポイントがわかっている。

「今、知ったばかりです」

「そう。でも、罪は罪。私たちは社会を形成して暮らしている。そのルールは守るべきよね。その人が私に好意を寄せてくれているなら、それは嬉しいし、誠意ある対応をしたいと思うわ。でもね、それに引きずられて、犯した罪にまで同情してはいけないと思うの。情状酌量の余地があれば、当然それは考慮するべきだけれど、情状酌量というのは、それ自体社会システムの一部なのよ。私への好意とは別の話よね」

 唐突に始めた漠然とした毅瑠の例え話に、夏目は真摯に答えてくれた。

「もっとも、実際にそういう状況になったら、冷静に対応できるかどうかはわからないけれどね。きっと私、ぐっちゃぐちゃになっちゃうかも」

「まさか」

 ふふふ、と悪戯っぽく夏目が笑った。

「向井君の私を見る目、なんだか危ないわよ。私を万能の超人とでも勘違いしていない? 私だって、十七歳の女の子よ」

 毅瑠は嘆息せざるをえなかった。この人が、ぐちゃぐちゃに思い悩むことなどあるのだろうか?

「もし、私がそんな状態になったら、今度は向井君の番ね」

「え?」

「人はね、自分一人では客観的になれないのよ。だから、誰かがそれを言ってあげる必要があるの」

「はい」

 夏目の言葉が、素直に心に沁みてくる気がした。

「最後に先輩としてアドバイスさせてもらえばね……人は、その時々に、自分が最善だと思ったことを精一杯やるしかない。私はそう思っているわ」

 毅瑠は本当にそうだと思った。正子のことも、八千穂のことも、自分なりの最善を探してみよう。

 方向が定まったことで、毅瑠はようやく人心地がついた。カフェオレに手を伸ばす。

「何かしら」と夏目が食堂の外を気にした。

 見れば、中庭がざわついていた。何やら剣呑な雰囲気が漂っている。

 このとき、事態は最善とはほど遠い方向へと、転がり始めていた。

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