銅像生け贄事件 8
(放課後の体育館裏に呼び出すなんて、我ながら芸がないな……)
体育館の壁に寄りかかって、毅瑠は思った。手にはあの片眼鏡が握られている。
一年F組を訪ねた時点で、昼休みは残り十分もなかった。少々後ろめたく思いながらも、毅瑠は、放課後体育館裏にくるように彼女――神坂八千穂に言った。
「何故?」
「あの片眼鏡、君の物だろ?」
「……」
毅瑠はそれ以上は言わなかった。片眼鏡をポケットから出しもしなかった。
しばしの沈黙の後、八千穂は小さく頷くと、自分の席へと戻っていった。その後ろ姿に――やはり、三つ編みは左一本しかなかった。
昨日は確かに左右二本あった。なにしろ、右の三つ編みを毅瑠が引っ張ってしまったのだから、間違いようがない。しかし、道生の話では、入学当初から一本だったということだった――それを信じるならば、毅瑠と会って以降に切った、ということもないはずだ。
さらには、昨日の放課後、松広孝司の落下騒ぎの直後に、屋上からの階段を駆け下りる二本の三つ編みを見た――あれも、彼女ではなかったか?
毅瑠は手の中の片眼鏡を眺めた。孝司を見て以降、これをかけてはいない。何が見えてしまうのか、それがわからずに怖い。
「向井君?」
物思いに耽っていた毅瑠は、ふいに声をかけられて、思わず片眼鏡を取り落とした。
毅瑠の狼狽ぶりに逆に驚いているのは、正子だった。
「何しているの? こんなところで」
正子は、分別したごみの袋を抱えて小首を傾げている。
「佐藤さんこそ、どうしたの?」
「今週は掃除当番。私、ごみ係なのよ」
見ればわかることだった。しかも、毅瑠と正子は同じクラスだ。微妙に気まずい空気が流れた。
「ええと……あ、何これ?」正子が毅瑠の足下に落ちている片眼鏡を拾い上げた。「めがね?……かな」
屈託なく、正子はそれを右目にかけた。毅瑠は唾を飲み込んだ。
「どう? 似合う?」
「似合わない」
「……」
「……」
ぶっと正子が吹き出し、片眼鏡を返してよこした。
「変な向井君」
「佐藤さん。これかけて……何か変な物が見えなかった?」
「変な物? 変な向井君なら見えたわ」
「なんていうか、世界がぼやけて見えるっていうか……」
「何を言っているの?」
コスプレでもするのか、と訊く正子に答えつつ、毅瑠は首を傾げた。昼休みに見たあれは気のせいだったのだろうか。
毅瑠は片眼鏡を右目にかけた。
そして、正子を見た。そこには――
色取り取りの糸がはみ出し、それらが醜く絡み合い、暗く不吉な色を纏った――見るに堪えない正子の姿があった。
毅瑠の背を冷たい汗が伝った。血の気が引き、気が遠くなる。呼吸が速く浅くなりあえぐ――
「向井君? どうかしたの?」
正子がそう言ったとき、一人の女生徒が現れた。――神坂八千穂だった。
八千穂は正子を一瞥すると、毅瑠に近付いた。そして、迷わず右手を振り上げる――
ぱんっ、と乾いた音が体育館裏に響いた。
叩かれた勢いで片眼鏡が飛び、毅瑠は我に帰った。
八千穂が正子を睨み付ける。
「あ、ごめんなさい。そうじゃないのよ」何を誤解したのか、正子は顔を赤らめて首を振った。「私と向井君はなんでもないの。たまたまここで会っただけ。誤解しないでね。……じゃあ、ごゆっくり」
正子はそう捲し立てると、慌てて走り去った。
毅瑠は、体育館の壁に背を預けて息を整えた。
地面に落ちた片眼鏡を八千穂が拾い上げる。
「それ、君のだろ?」
「見えたの?」
「え?」
「あの女の、つぎはぎだらけの〈魂糸〉、見えたの?」
毅瑠は先ほどの光景を思い出して震えた。
「いったい何だったんだ……あれ」
「あれは〈魂糸〉。たましいのいと」
「たましい?」
「そう。あの女は、人の命を自分の命に継ぎ足している」
「何を言って……」
「昨日の事故は、あの女が犯人」
場違いに爽やかな春の風が吹き抜け、八千穂の一本だけの三つ編みが揺れた。