八千穂事件 30
「そうか。左右の剣は円を描いたか」
すべてが終わった翌日の土曜日。毅瑠は神坂神社を訪れていた。ことの顛末を弦悟に報告し、〈神逆左の剣〉と〈魂見鏡〉を返すために。
弦悟は〈神逆左の剣〉を受け取ると、それを桐の箱に安置し、丁寧に標縄をかけた。
「二本の剣は陰と陽……一対で初めて本当の力を発揮したんだな」弦悟が感慨深げに呟いた。
「どちらが陰で、どちらが陽だったのでしょうか?」と毅瑠。
「どちらがどちら、ということはないのだろう。色は白と黒。気配は内と外。力は〈魂糸〉を麻痺させるか、その力を解放するか。両方が揃って環を描き、〈魂糸〉の環を繋ぐ力を発揮した……というところか」
「そうすると、神坂神社の言い伝えは、どう解釈すればいいんですかね?」
「?」
「左右の剣を角に持っていた鬼は、そのままでも娘の命を救えたはずではありませんか?」
「想像だが、力が鬼の中で完結していたのだろう。角が折れることで左右の均衡が崩れた。そうして初めて、娘を救うことができたのではないか? 今回は、二本の剣の間に、歴代〈霊鬼割〉の〈魂糸〉と、奥義〈髪逆〉という媒介が存在したから、体育館の中にいた全員が、一つの存在として認識されたんじゃないかな」
「……難しいですね」
「まあ、言い伝えについては、あくまでも想像だ。結果的に上手く施術できたのだから、本当に良かった」
「はい」
弦悟と毅瑠は桐の箱を見つめた。静謐な空気が満ちている。屋外で猛威を振るっている残暑が、剣の力に恐れをなしたように、本殿の中はひんやりとしている。
「しかし、無茶をしたね」弦悟が口を開いた。「あれほど八千穂に使わせろと言ったのに」
「そうですね。自分でも、今考えると震えます」毅瑠はまだ傷の塞がらない左胸に手をあてた。「それ程に、あの鬼は手強かった」
「〈魂の要〉が右目に位置していたんだって?」
「はい。そんなことがあるんですね」
「何事にも例外はある。その目が、人を惹き付けたり、無意味に苛立たせたりしていたのだろうな。そして、何かの拍子で〈魂糸〉がはみ出し、鬼となった」
「〈魂糸〉の理屈は知らなかったようですが、その扱いは天才的でした」
「才能があったのだな。迷惑な才能だが……そういえば、君だって才能があったのだった」
「はあ……」
「〈夢飼い〉とは、どうやって夢を操るのだ?」
「〈魂糸〉を弾くんです。楽器のように奏でるというか」
それが、毅瑠が手に入れた力だった。人の〈魂糸〉をつま弾き、その音色で夢を知り、夢を操る。夢は記憶そのものだから、結果的に記憶を操ることができる。〈夢飼い〉本人の〈魂糸〉が切れてはみ出している必要はないが、基本的に直に人に接触しないことには力が使えない。導いてくれるものがなくなってしまった今、毅瑠は自分一人で他人の夢を操れる自信などなかった。唯一、常に〈魂糸〉を視認することだけはできるようになっていた。
「それだがな、訓練すれば、〈魂糸〉を見る見ないは自在になるだろう」
「本当ですか?」
「たぶん……だがな」
「二人とも、お昼ご飯」
社の外から二人を呼ぶ声がした。八千穂だった。
「おー、今行く」弦悟が声を張り上げた。「さて、難しい話は終わりにしよう」
「チホは大丈夫でしょうか。物心ついた頃から〈髪逆〉と一緒だったんですよね」
すべての施術が終わったとき、残ったのは白黒二本の剣だけだった。かつて剣〈髪逆〉を構成していた歴代〈霊鬼割〉の〈魂糸〉を込めた髪は、一本も残っていなかった。それでも、残された小さな〈神逆右の剣〉は、八千穂の右のうなじ辺りに消えた。単体で、今でも八千穂の〈魂糸〉を繋いでいる。
「……完成した〈神逆〉をもってしても、八千穂の〈魂糸〉の環は繋がらなかったか」
「はい」
「でも、それは考えてもしょうがない。言っておくが、君のせいでもないぞ、向井君」
「……」
「色々あったが、とりあえず、八千穂を頼む」
「はい」
毅瑠が頷き、弦悟も頷き返した。
「二人とも、何やってる?」
二人が一向に現れないからか、八千穂が本殿に顔を出した。
「いやあ、すまん。向井君と男同士の話をしていたんだ」
「男同士?」
そうだ、と言って、弦悟はさっさと本殿を出て行った。粛かな板敷きの本殿に、毅瑠と八千穂の二人が残された。昨日の舞台上での大告白劇から一夜。二人きりになるのは初めてだった。
「毅瑠、お昼」
「うん」
しかし、二人とも何となく、その場を動くことができなかった。
「そういう髪型も似合うな」
三つ編みをばっさり切ってしまったので、今の八千穂は涼しげなボブカットだ。〈霊鬼割〉の力を使えば右の三つ編みが顕現するかもしれなかったが、まだ試していないらしい。
「その……驚いたよ。昨日。結果的には……良かったかな」
二人の大騒動は、生徒集会の空白の約三十分を吹き飛ばしてしまうほどのインパクトがあった。
「毅瑠が白い剣を使ったでしょ? 私は毅瑠のお陰で良い方に変われた。でも、毅瑠が〈夢飼い〉になったのは良いことではない気がした。それは、私が責任を取らなくちゃいけないって、あのとき思ったの」
八千穂の言葉を聞いているうちに、毅瑠は頬が緩んできた。そして、ついには吹き出した。
「なに?」
「俺たち、似た者同士だな」
「?」
「深く考えるのはやめよう。俺はチホが好きだ。それだけだ」
「私も毅瑠が好き」
靴下を通して伝わる板敷きの感触は、硬く、ひんやりとして、毅瑠には妙に印象的だった。それは、八千穂の柔らかい唇と、正反対の感触だったからかもしれない。
毅瑠の記憶操作は上手くいった。
週が明けると〈神坂八千穂事件〉は、生徒集会での八千穂の告白事件ということになっていた。
《八千穂事件 了》
 




