第三章 真夏の夜の悪夢〈27〉
ただし、その諜報活動は政治的な繊細さを要する。場合によっては、国家や陰陽局、はたまた追儺局の暗部すらあばくことにもなりかねないからだ。
もちろん、頭脳労働専門外の雷華に諜報活動などと云う器用なマネができるはずもない。
雷華はおなじ退儺六部衆でもっとも怜悧な〈百眼〉椎名季武にすべてをたくすつもりでいた。彼なら〈905〉の残党について隠密に調査することも可能であろう。
それと同時に明日香と千草には箝口令をしいた。今夜の一件および〈905〉については一切他言無用であると。
〈905〉の資料がのこされていることを知っているのは雷華だけだ。
金龍斎の口ぶりからすると、呪符をたくされた金龍斎の娘・麻鈴も呪符の役割や呪句まではきかされていないようだし、明日香と千草も知らない。雷華は真知保にも黙っていた。
雷華が金龍斎へ〈905〉の資料の有無をたずねたのは、よしんばそんなものがあれば人知れず破棄するためだ。
〈905〉の事跡が露見すれば、すくなからず金龍斎の功績に傷がつく。
土鬼蜘蛛の存在を心底嫌悪する退儺師にとって人儺の存在を秘匿しつづけていたことは最大のうらぎりである。到底、許されることではない。
また、雷華は土鬼蜘蛛を兵器利用する研究の断片ひとつでものこしておきたくなかった。
退儺師は土鬼蜘蛛から人の命を守ることが仕事だ。人の意思によって人が土鬼蜘蛛に傷つけられるようなことなど未来永劫あってはならないと思う。
戦後、金龍斎が自身で出入口の封印を解くことのできない〈905〉近くの廃神社へアトリエをかまえたのは、〈905〉の邪な意思を継ぐ者たちから〈905〉を守りかくすためだ。
いわば金龍斎は〈905〉の墓守だった。
人儺と酒真里によって出入口の封印を解かれた〈905〉を己の命とひきかえに消滅させた金龍斎は、ようやく墓守としてさいごのつとめをまっとうした。
それは先の戦争が金龍斎にむりやり背負いこませた呪いであり、負の遺産だ。
金龍斎はそんな負の遺産を一馬や明日香たちのような若き退儺師へひきつがせてはならないと云う想いでいたはずだ。
〈905〉のすべてを闇へ葬りさることが金龍斎の死に酬いることにもなろう。
(……安心しろ、ジジイ。〈905〉の呪いは私がまるっと断ち斬ってやる)
胸の内でしずかに決意する雷華だったが、彼女にはもうひとつ、べつの懸念があった。それは明日香と千草の胸中にも困惑となって冥く渦巻いていた。
明宏が人儺すなわち土鬼蜘蛛と人間のハーフと云う事実である。
にわかに信じがたい話ではあるが、そうかんがえると説明のつくことがある。
一般人であるはずの明宏が退儺師とおなじように土鬼蜘蛛の結界へ出入りできる理由だ。
本来、土鬼蜘蛛の結界へ出入りできて、土鬼蜘蛛の結界内での記憶を保持していられるのは目や耳に障碍をもつ退儺師だけだ(陰陽師のなかにも例外はいる)。
退儺師(たいなし)以外の人間は土鬼蜘蛛の結界へ出入りすることはできないし、土鬼蜘蛛の結界内での記憶は結界が消失した瞬間に忘れてしまう。
退儺師によって土鬼蜘蛛の餌食をまぬがれた人間は星の数ほどいるが、その人々は自分が土鬼蜘蛛におそわれかけたことも退儺師に救われたこともおぼえていない。
そう云った土鬼蜘蛛の結界特性があったからこそ、土鬼蜘蛛や退儺師にまつわる一切が巷間でうわさや伝説にもならず歴史の闇にかくれつづけてきたのだ。
明宏の身体に土鬼蜘蛛の血が半分流れていることを思えば、彼が土鬼蜘蛛の結界へ出入りし、土鬼蜘蛛の結界内での記憶を保持していることにも得心がいく。
明宏の父・光寿は数ヶ月前の飛行機事故で亡くなったはずだった。明日香たち退儺師たちは飛行機事故以前の光寿と面識がない。
雷華と明日香は千草の〈念話〉中継や酒真里の言葉で人儺・光寿と明宏が父子であることをきかされただけなのでいまだ半信半疑だが、千草はちがう。
千草は退儺師たちの死角となった手術台のかげで、明宏から発せられた土鬼蜘蛛の波動を感知している。土鬼蜘蛛へと変貌しかけた明宏の咆哮をきいている。
千草にとって明宏は、穢れた土鬼蜘蛛の血をひくもうひとりの人儺と云っても過言ではない。
山道をくだりながら千草もぐるぐるかんがえつづけた。




