第三章 真夏の夜の悪夢〈16〉
こちらへ1歩ふみだした男の姿が青白い光にてらしだされた。男は黒いスーツとネクタイに赤黒いシャツを身にまとっていた。
髪はオールバックになでつけられ、ワシのような鼻にかかる黒ブチメガネを鼻梁におしあげた手には五芒星の赤い刺繍をぬいつけた黒い革の手袋をはめている。
〈朱都理酒真里!?〉
「ごぶさたしております、桐壺雷華さま。先日すれちがったおりにご挨拶いたしませずご無礼いたしました」
酒真里の言葉に雷華も思いだした。金龍斎のアトリエを訪れた日、酒真里の乗った黒塗りの高級外車とすれちがったことを。
〈陰陽省特別監察官のあんたが、こんなところでなにをしている?〉
「あの人、ライカさんの知りあいなの?」
〈念話〉のきこえない明宏が千草へ小声でたずねた。
「陰陽省特別監察官・朱都理酒真里だって」
(陰陽師なのか……)
口話と同時に〈念話〉できるのは感知退儺師だけだと思っていた明宏は内心驚嘆した。
厳密に云うと、酒真里の〈念話〉は退儺師の〈念話〉とは異なる陰陽道の〈心話術〉なのだが、明宏や千草には知るよしもない。
「いやなに、ご懸念にはおよびません。みなさんにはなんの危害もご迷惑もおかけいたしません。もうすこしですべておわりますので、ご静観たまわりたくぞんじます」
〈なんの危害もくわえねえだと? あんだけ式神蟲をしこんでおいてよく云うぜ〉
雷華の皮肉も意に介さず酒真里が平然とつづけた。
「あれは反体制派の陰陽師対策としてもうけたもの。あなた方を想定したものではございません」
〈反体制派の陰陽師?〉
「私は国家の密命をうけてうごいております。先日、金龍斎翁にもご相談もうしあげたのですが、ご賛同いただけなかったので強硬手段に訴えざるをえなかったのでございます」
〈……国家の密命? その土鬼蜘蛛をつかって、一体なにをたくらんでいる?〉
「積極的平和主義の実現でございます」
〈積極的平和主義だと? またキナくせえ言葉を吐きやがる〉
「積極的平和(positive peace)」であれば、絶対に武力(暴力)をもちいず、あらゆる知恵で諍いをおさめる活動をさすが「積極的平和主義(proactive contribution to peace)」はまったく意味が異なる。
ひらたく云えば「積極的平和主義」とは、自分たちのかかげる平和(あるいは正義)のためならどんな暴力も正当化される危険思想なのだ。
「……みなさんはここがどのような施設だったかごぞんじですか?」
酒真里がだしぬけに話の矛先をかえた。
「……落ち武者の洞窟じゃなかったっての?」
千草のつぶやきに酒真里の目が笑った。
「ここは日露戦争のおりに誕生した陸軍の極秘研究所だったのです。〈905〉と呼称されていました」
〈……100年以上前からこんなところでなにを?〉
明日香が即座に疑問を呈した。日露戦争は明治37~38[1904~05]年のことだ。
「ここでは太平洋戦争末期まで土鬼蜘蛛を兵器として用いる研究がつづけられていたのです」
酒真里のこたえに退儺師たちが息を呑んだ。退儺六部衆の桐壺雷華ですら知らなかったことだ。
〈金龍斎のジジイは〈905〉にどうからんでる?〉
「退儺師がわからの唯一の協力者でした。正確には先代の〈創譜師〉金壺龍炎斎の助手として参加していました。……そうそう、今あなた方の重宝している〈結界符〉は金龍斎翁が〈905〉での研究で創譜したものです」
〈結界符〉は金龍斎の代名詞とも云える鬼道譜である。
〈結界符〉の発明で土鬼蜘蛛との戦闘による退儺師の死亡率が半減したとも、土鬼蜘蛛から身を守る術をもたなかった感知退儺師の死亡率が70%も減ったとすら云われる。
「現在の防衛省はおろか陰陽省にすら〈905〉の資料はのこされておりません。戦後、金龍斎翁がこちらへアトリエをかまえたのは〈905〉を陰陽省や追儺局から秘匿するためだったのでしょう。……あるいはここでの研究を独占したかったのかも」
そう語る酒真里が悪意のある笑みをみせた。
「そもそも、とおい卑弥呼の時代に生物兵器として異界から召喚されたのが土鬼蜘蛛だったことはごぞんじですね? われわれも土鬼蜘蛛を異界より召喚するための〈呪法具〉をつくっているのでございます」
西暦248年。卑弥呼の邪馬台国は狗奴国と干戈をまじえていた。
敗色濃厚だった邪馬台国の形勢をくつがえすべく卑弥呼が画策したとつたえられるのが土鬼蜘蛛の召喚である。
〈鬼導門〉とよばれる時空の扉をひらき、異界から召喚した土鬼蜘蛛を生物兵器として狗奴国へぶつけようとしたのだ。
その目論見は卑弥呼の死によって水泡に帰したとつたえられる。しかし、卑弥呼のひらいた〈鬼導門〉はいまだとざされていない。
〈鬼導門〉によって生じた時空の穴が土鬼蜘蛛の道をつくる。
〈鬼導門〉さえとじれば時空のひずみは解消し、やがて土鬼蜘蛛がこちらの世界へあらわれることもなくなるはずなのだが、現在にいたるも流動すると云われている〈鬼導門〉の出現地を特定することができずにいる。
退儺師の最終目標は〈鬼導門〉をとじて土鬼蜘蛛の棲む異界とのつながりを断つことなのだ。




