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第7羽-1 にぬ奈ちゃん

 起きて身支度を整えたなら、まずは外に出て家の周りを軽く走る。

 その後、道場へ入り家族の誰かしらと手合わせする。

 やはり道場主、師範である祖父とが多い。次に父。

 この二人は今日のように一緒のことも少なくない。

 母や祖母は朝餉の支度があるから、時々。祖母とのときだけ薙刀術を教わる。

 手合わせが済んだなら床を雑巾で丹念に拭く。朝餉に呼ばれるまで。

 にぬ奈は自らの、そして他人の人生を賭けた闘いの日であっても習慣を変えることなかった。


 朝と夕は極力家族揃って食べること。根野家の決まりである。

 六人集う朝餉の卓は静か。黙々としているわけではなく、会話もあればテレビも点けられているが、朝特有のせわしさと言うべき気配がない。

 時刻は七時を少し過ぎた頃。ましてや日曜であるから他所の家庭でもそうかもしれないが、根野家に関しては平日であろうとこうである。

 食後の茶を啜って、祖父が口を開く。


「今日だったな」


 家族の誰もが、今日これからのにぬ奈を知っていた。

 にぬ奈は祖父を一瞬だけ見ると「はい」とだけ答え、自身の湯呑にふーっと息を吹きかける。

 それから小さく頭を下げた。


「すみません、おじい様。折角、紹介して頂いたのに辞めるなどと……」

「構わんよ。元々、そういう約束だった。とりあえずやってみよ、後はお前に任せる、とな」


 しかし顔に泥を塗ってしまった。にぬ奈はそう思い、もう一度頭を下げた。

 本音、間違いない。けれど今そのことを謝った理由わけは、今日のことをあまり訊かれたくないと心の隅で思ったから。下手な話題逸らしだった。

 湯呑を底の方までじっと見つめながら、ゆっくり円を描くように傾かせる。

 祖父が「ふむ」と唸る。


「なあ、にぬ奈」

「はい」

「もしや緊張しているのか?」


 湯呑を持つ手が止まった。

 顔は上げずに「いえ」と言う。


「そのようなことは、決して。何故、私が。あり得ません」

「取り繕わずとも良いさ、自然なことだ。もしも勝てば、お前にとって初めてのことになろう……他人の道を絶つのは。そりゃ緊張の一つもする」


 にぬ奈は少し悔しく思う。


(もしも、ですか)


 自分が勝つことは既に決まっている。祖父は違うと言うのか。情けない。

 恐らくは見たことも会ったこともない相手に、敗けるかもしれない、と思わせてしまっている自分自身が。祖父から見れば、己などひよっ子に過ぎず誰とも等しく未熟という事実を突き付けられたも同然。


(いや……事実、私は未熟。僅かながら精神を揺らがせてしまっている。それどころか、察せられてもいる。おじい様が凄いから……それは言い訳でしょう)


 にぬ奈は湯呑に口を付けて、緊張と悔しさを、同等に渋い香りと共に飲み干した。落ち着いていく頭に一つ疑問が浮かぶ。


「……おじい様は、いえ、師匠せんせいはありますか?」

「はは、ないない」


 と、あっけらかん。

 意外な答えだった。父母の世代ならさもありなん、祖父母ならまだ辛うじてあってもおかしくないやもと思っていた。

 生命そのものを奪うことは当然なくとも。

 誰かの武人としての道を絶つことくらいなら、と。


「だから」

 と祖父。

「貴重な体験となろう。……必ず」


「そうですね。アイドルになって、それだけでも得られて良かったです」

「それだけかい?」

「はい。……楽しくはありました。未経験の面白さと言いますか。でも、私を高めてくれるのは、今日だけです」


 武の道は何かを奪い往く道、殺す道。

 本来ならば、そして、かつてならばそう。

 にぬ奈はそう考える。

 されど乱世ならいざ知らず、この太平の世でそれは許され難い。

 武の本質は今やなくなったに等しい。

 だから今日が唯一の好機に違いない、本質に近づくことのできる唯一の。


 本質失われし今、残るは技のみ。これを磨くことのみ。不満はない。

 にぬ奈は武の本質──奪う道に興味などない。

 ご先祖が築き上げ、後に託した技術を更に次代へ繋ぐ。

 誇らしい。


 家族もみな、その道を往く。

 自分一人だけ往かずという道は、幼き頃のにぬ奈にはなかった。

 今でこそ奈業を継ぐことに人生を見出だし、使命感すら覚えているが、始まりは違ったのだ。そうも高尚なものではなかった。

 ただの、寂しさ。そのことを本人は覚えていない。だから気付いてもいない、それが油汚れのようにべったりとこべりついていることになど。


 今も、にぬ奈が往くはその道。故に生実紗弓の未来を奪うことに興味はない、いや多少の恐れや躊躇いはあった。

 けれど、紗弓によって捨てられた。かつてあった本質備われば、これまで継がれてきた技も新たな輝きを見せるかもしれない。

 その可能性から逃げずに済んだ。感謝するほかない。


 祖父は「そうか」とだけ言った。

 これ以上の話はなさそうだと判断し、にぬ奈は立ち上がる。


「では、少し席を外します」

「にぬ奈さん、着替えは出しておきましたから」

 と母。

「ありがとうございます」


 向かうは風呂場、朝にかいた汗をシャワーで流す。

 その後は家を出る時間まで家族と話したりして過ごした。

 試合は午後から。昼食は採らずに出る。母がお弁当を待たせてくれた。

 靴を履いたところで、ふと思い立つ。


「お母様、お願いがあるのですが」

「あら。なんでしょう?」

「簡単にで構いませんから、お化粧をして欲しいのです」

「まあ。珍し」

「死に戦に臨む者は、その死に様が醜くならぬよう化粧を施して出たと聞いたことがあります」

「にぬ奈さん、貴女は死なないでしょう?」

「はい。今日も私が勝ちます。けれど、だからと言って、敗けたときのことを考えないのは、相手に対して失礼だと思うのです。それに油断していると、思われたくありません」

「……なるほど。分かりました。少し待っていてくださいね」

「ありがとうございます」

「けれど、にぬ奈さん。やはり貴女は死なないでしょう。敗けたとしても」

「武人としては死ぬことになります」


 母は何故か「本当にそうかしら?」と意味深な笑みを浮かべた。




 スタジアム。アイドルの戦場。

 ここでは日々、アイドルが勝ち敗けを繰り返し、去っていく。

 華々しいこともあるが、その多くはひっそりとしたものになる。

 ファンたちが、実はそれが引退ライブであったことを、後々になって知ることも少なくない。


 東館ホールにあるソファで、にぬ奈は来るのを待つ。

 いつも通りの心持ち。胸の鼓動に一切の変化なし。

 指先まで神経が通っている。体調もいつも通り。

 目を瞑り行き交う人々、特にアイドルの足音に耳を澄ます。

 勝者か、弾むような足音。

 敗者か、重々しい足音。

 これからライブに向かうのか、自信ありげに堂々とした足音。

 あるいはその逆。

 いたって平常な者もいる。


 やがて、一人の足音がこちらに向かってくる。

 にぬ奈は目を開け、立ち上がって振り返る。

 生実紗弓がそこにいた。

 以前の、地に足着いていないような浮かれきった足音ではなかった。

 かと言って、緊張や恐れからのたどたどしいものではない。

 威風堂々……それとも違う。喜んだり楽しんだりしながらも、その気持ちに流されることなく、しっかりと地を踏みしめている。

 強いて言えば、元気な足音だろうか。


「こんにちは、生実さん」

「うんっ、久しぶりっ」


 紗弓もまた薄っすらと化粧をなされていた。

 だが彼女は武人ではない。アイドルとしての、あるいは紗弓の美学としてそうしたのだろう。いや、最期のときに、美しくありたいと考えるのは、どの世界にあっても同じ意識なのかもしれない。


 にぬ奈は、紗弓の瞳の奥に強い光を認めて、自分が一つ誤解していたことに気付いた。


(こんなにも貪欲な目が出来たのですね。勝ちを欲する、闘う者の目……。勝ち敗けにこだわらず、どちらにせよニコニコしているものだから、闘う者には向いていないと思っていましたが……その実、闘うことが好きだからこそ、どちらでも良かったのかもしれませんね。ある種の戦闘狂バトルマニア、と言えるでしょうか。今の世だからこそ、生きられる)


 もしも戦乱の世であったなら、勝ち敗け厭わぬ性質は確実に死を運ぶだろう。


(……そう言えば。西東さんも、そのようながありましたね)


 彼女もまた、闘いを楽しむために舞闘界にやって来ていた。

 修行のためなどではなく。


(もっとも、生実さんの場合は舞闘狂ライブマニアと言う方が正確でしょうか)


 だとすればこの世界は宝の山だったろう。

 舞闘に次ぐ舞闘。浮かれてしまうわけである。


(しかし今、その気持ちは落ち着いている。……一点に留まっている。最後になるかもしれない舞闘を全身全霊で楽しもうとしている。その一方で最後にさせないつもりもある。勝つ気がある……特にここが以前と違う。これは──虚勢の類ではありませんね)


 だが、あったのはたった二週間。気持ちの変化がどれほどの脅威になろうか。

 にぬ奈は紗弓からついと目を逸らして、彼女の隣に最初から立っていた笹野を見る。


「お久しぶりです、笹野プロデューサー」

「はい、こんにちは。私は観客席の方で見させてもらいますね。さ、お二人とも、こちらを」


 と紙袋を渡される。この日のために衣装をクリーニングしてもらったのだ。

 紗弓も同じく受け取り、二人並んで受付に向かう。

 既にフリーライブバトルの予約はされているから、スムーズに自分たちの使うフレーム番号を教えてもらい共用の更衣室に行く。


 他のアイドルたちも当然着替えており、中には、にぬ奈でも知っているほどの者もいる。だが紗弓の様子に変化はない。まるで浮かれることなく、ウサギの衣装を身にまとい、先に更衣室から出て行く。

 そのとき、あることに気付いた。


(しっぽの大きさが、少し違いましたが……)

 ピンポン玉くらいだったはずだか、拳大ほどになっていた。


(人体の大きさと比べたら、その方が尻尾らしいかもしれませんね。あまり小さいと、そもそも遠目からだと、あるのかないのかも怪しくなりますし……それで修正したのでしょう)


 やや遅れて、にぬ奈もツルを模した衣装に着替え終わった。

 廊下に出たところで、互いを一瞥し、どちらともなく頷く。

 二人並んで会場までの道を往く。会話はない。ここに来て語る言葉などもはや、ほぼありはしないのだと二人ともに思っていた。


 会場へと続く廊下。

 紗弓だけが、そこが、涙で固められた道、と囁かれるのを知っていた。


 そこを通って会場に出るや否や紗弓への声援が聞こえる。

 紗弓が手を振る方向を、にぬ奈もちらと見れば家族や友達らしき人の姿を認められた。そこに近づき挨拶を交わす一団がある。


「あれっ。もしかして、にぬ奈ちゃんの?」

「そのようですね。……出るときには、なにも言っていませんでしたが」


 そちらに向かって一礼をし、指定されたフレームに入る。

 出入口からすぐ近くのところにあった。

 その中で二手に別れ、向き合う形で位置につく。

 その距離は羽根が辛うじて届く。


 構える。

 紗弓は少し腰を落として。

 にぬ奈は両手を、卵を模るが如く合わせて。


「わたしが勝ったら……にぬ奈ちゃんはアイドルを続ける」

「私が勝ち、生実さんはアイドルを辞める」


 どちらも独り言のように、そう口にした。

 そして精神を集注させていく。目の前の相手、ただそれだけではなく、自らを中心とした空間に向けて。張り巡らせていく。


 偶像領域が展開される。

 まずは四方、最後に天井が紫色の結界を結んだ。

 スターティングランプの形をしたホログラムが、ステージの真ん中上空に現れる。連なった三つのランプのうち一つが、軽い音色と共に赤く灯った。


「にぬ奈ちゃん」

「生実さん」


「活かすよ」

「殺します」


 三つとも赤色に染まり、瞬間、緑色に転じて霧散する。

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