狂人懐疑
疑うというのは必要なことである。しかし、物事を疑うことを過剰にしすぎれば、生きる事さえ困難になる。ある程度は妥協し、折り合いをつけなければならない。普通の人間は、自然とそれができている。信じる事が出来るからだ。究極的には、己と己の判断を。他者に従っているだけだとしても、その誰かに従うという己の判断を信じている事に間違いはあるまい。
私は、己を信じられない。己の判断が信じられない。それは、私に不利益をもたらしている。仕方ないのだ。素直に己を信じていた私は死んでしまったのだから。それが他殺であれ自殺であれ、結果は変わらない。こうして、己を信じられない私だけが残ったのだ。
私は大層素直だった。素直だったから、生き残る事が出来なかったのだ。耐えられなかったのだ、それまで生きてきた価値観の崩壊に。
全てを疑わざるを得ない私は、私がものを疑うという事をしていたか疑わしいと思っている。今の私に過去の私の考えはわからない。今の私と過去の私の間には、何時の間にか越えられない断絶があった。断絶のこちら側とあちら側でわかりあう事は出来ない。類推に意味があるかは定かではない。死者の思考に思いをはせるのはただの感傷だ。
私が己を信じられないということと、己の判断を信じられないということの意味を端的に語ろう。
私は刃物を手にした時、それを自他を傷つける為に使わないと断言できない。
私は走る車の中で突然窓を開けて手にしたものを投げ捨てないと言い切れない。
私は己が描いた図形が丸であるという確証が持てない。
私は己が泣いている理由を理解できない。
私は他者の感情を類推出来ない。
私は己の発する言葉が偽りでないと誓えない。
私は全てを疑っている。私の学習した全ての確かさを疑っている。私は知っている。一つの偽りが価値観を崩壊させてしまうことを知っている。一つを誤認していた事が確かであるなら、他の何を誤認していないという保証はない。
彼らの欺瞞が、それを見抜けなかった私が、私を殺した。彼らにその意図はなかっただろう。意図を向けるだけの興味もなかっただろう。それでも私は死んでしまった。否、だからこそ私は死んでしまったのだ。彼我の認識の差が、私の小さな世界には重すぎた。重かったのだ、私の軽さが。
私にはわからない。他の人間が何故疑わないでいられるのかが。世界はこんなにも不確かでいい加減なのに信じられるのかが。己の価値観が間違っていない、絶対的だと信じられるかが。
論理は私に合わない。私は根っからの感覚人間だからだ。だが、私は私を信じられない。私の判断を信じられない。だから、感覚で納得できるはずのことを納得することができない。論理を信じた事にする事しか出来ない。だが私は、論理では納得できないのだ。だから私は何時まで経っても何もわからないし納得できないのだ。
他人に己の正しさを担保してもらおうと思うのは不毛だ。己以外の誰かが、どれだけ真剣に命題に向き合って指示してくれたか定かではない。命題の解釈が異なっているかもしれない。己以外は己ではないのだから、同一の思考をしていると思うのはナンセンスだ。思考にはそれまで経験してきた全てが影響する。完璧に己と同一の経験を経てきた他者などまず存在しないのだから同一であると信じるのが間違っている。
否定形だけでは物事は確かにならない。それはわかっている。肯定できるものがあってこそ、意味がある。だが、私にどうにか確かに運用できる判断は否定しかないのだ。それが確かなものでないと否定する以外に、私は確かに判断する事が出来ない。否定するのは簡単だ。当てはまらないというだけでいい。だが、当てはまらないそれが本当は何処に当てはまるのかがわかるわけではないのだ。
今の私が死んだ時に、次に生まれるのはどんな私だろうか。もしも己を信じられる私であるのなら、私は死ぬべきだろう。己を信じられない私より、己を信じられる私の方が私にとって有用有益だ。だが、その可能性は限りなく低いだろうとも思う。私の死因にもよるだろうが、新たな私はまた1から学び直さなければならない。無邪気に確かだと信じられる指針もないのに。それなら、また別の信じられない私が生まれるだけだろう。だって、私がそうだったのだから、次もそうならない理由がない。