第一節 第一話
――――守りたいものなんてなかった。だって、守られるのが、当たり前だったから。
――――守りたいものがあった。守れると思ってた。でも、それは、傲慢な幻想でしかなかった。
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何度か目をしばたかせてから辺りを見回すと、そこはちょっと古臭い感じがする、それでいてこざっぱりしている床の上だった。ああ、昨日やっと久しぶりに宿屋に泊まれたんだっけ、とひとりごちてから身を起こすと、飾り窓から朝の光が優しく射し込んでいるのが目に入った。その光を見てると、なんだかわからないけれど、祝福されている気分になる。うん、きっと今日はいい日になるに違いない―――。と思ったその矢先。
「あら。今頃起きたの?あんた、幽霊のくせに夜に眠るなんて、職務怠慢で訴えられるわよ。」
一人の少女が部屋に入ってきた。どうやら彼女はだいぶ前に目が覚めて朝の散策に出かけていたらしい。服の前をそっと掴んでできたたわみの中に、瑞々しい、きらきら光る木苺が見て取れた。
「おはようございます。今日はいいお天気みたいですね。」
気分のいい朝の目覚めを迎えられた僕はちょっぴり浮かれた笑顔で挨拶をした。すると彼女はそんな僕の顔をちろり、と見やってこう言い放った。
「はぁ?確かにお日様は出てはいるけど、それがあたしにとって『いい天気』かどうかなんて、あんたにはわかんないでしょ?世間一般に言われてる『晴天』をもって『いい天気』なんていうのをあたしに当てはめて考えないでちょうだい。」
前言撤回。
いい日になんてなるわけないんだ。彼女と一緒にいるのに、「いい日」になるわけがないんだもの。
僕との会話を終わらせた彼女はその物言いとはうって変わって優しい手つきで木苺を円卓に載せていく。ひとつ、ひとつ。丁寧に。それはそれは愛おしそうに、きらきらと黄色く輝く木苺を載せていく。その、優しい微笑を湛えながらも真剣に、―――そう、馬鹿みたいに真剣な瞳で木苺を円卓に載せている。
「華霄。」
ふと、静かに彼女を呼ぶ声。眼をやると入り口に気配もなくたたずむ青年がいた。彼女の付き人の伯陽だ。彼もやはり早く起きて散歩に行っていたらしい。朝露の中を歩いたのか、足元がちょっぴり濡れている。
「あら、伯陽。おはよう。あなたも散歩に行ってたの?」
伯陽は静かにうなずくと、華霄に近づき手元をみた。彼はあまり話をしない。話したとしても、一言二言だけ静かに言葉をつむぐくらいだ。
―――今日はね、木苺を見つけたの。だから、採ってきちゃった。おいしそうでしょ?彼女が楽しそうに彼に話しかけている。笑顔の華霄に比べ、ちょっと表情の乏しい伯陽はただ黙って話を聞いている。彼は表情は乏しいが、その眼はいつも優しい。まるでこんこんと湧き出る泉のように澄んでいる眼だ、と彼女たちと出会った当初に言ったことがある。その時も伯陽は黙ってわずかに首をかしげ、華霄はいたずらっぽい眼で、ふふっと軽やかに笑っていた。今でもよく覚えている、その時の華霄の表情。ゆっくりと瞬きをして、その黒曜石のような瞳をきらきらさせながら、僕の眼を見てこう言ったんだ。
優しく、とても優しく―――あなた、私といらっしゃい―――。
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そのとき、「僕」は「僕」ではなかった。「僕」は存在しなかった。あるのはぼんやりとした闇。いや、闇だと、はっきり断言することもできない。だって、その時、「僕」は存在していなかったのだから。「僕」は存在しなかったが、それでも存在するものもあった。それは何か。「僕ではないもの」だ。
「それ」はまだ「僕」ではなかった。「僕」が「僕」になるにはまだまだ時間が必要だったのかもしれないし、必要でなかったのかもしれない。それは「僕」にはわからない。だって「僕」ではなかったのだから。
「そこ」に時間があったのか、なかったのか。空間があったのか、なかったのか。それもわからない。ただわかることは「僕」は「僕」ではないものから生まれた、ということだ。
ある日、と言うと語弊がある。先ほども述べたように「そこ」には時間があったかもしれないし、なかったかもしれないから。ただ「僕ではないもの」に変化が起こった。それは目に見える変化であったかもしれないし、そうではなかったかもしれない。ただ、「変化」があった。「僕」が「僕の存在」というものを認識したのだ。そして認識したことによって世界が、―――少なくとも「僕」の世界が変わった。「僕」が変化を望んでいたのか、望んでいなかったかなんてのは関係なく、世界は変わってしまった―――。
「僕ではないもの」が変化を生み、そして「僕」を生んだ。が、それはまだ「僕」になっていなかった。「僕」が「僕」を完全に「僕」と認識するまでにはまだ足りない「何か」があったからだ。ただ、それでも何故「僕」が「ああ、生まれた」と認識したかと言うと、風を、光を、感じたからだ。それらは少なくとも今までいた「そこ」にはないものだった。それらを感じとき、なんと表現すればよいのか初めはわからなかったが、後々考えるとやはり「生まれた」と言う表現がぴったりくるのではないかと思うので、今でもこの表現を使っているのだがもしかしたら適切ではないのかもしれない。―――まあ、大体、自分か生を授かった瞬間のことを覚えてる人なんていないだろうから、まだぼんやり記憶がある分僕のほうが優秀だろう、と思うのはうぬぼれだろうか。
こうして「未完全の僕」は毎日風を感じ、光を感じ、そして闇を感じた。いったいどの位の時間がたったのかなんて、僕にはわからない。ただ、風を感じ、光を感じ、闇を感じていたからだ。そうしていることが「未完全な僕」には「完全」に思えたし、これ以上の変化はないと思っていた。そして、僕は忘れていた。「変化」はひたひたと音を隠して近づいてきて、あっという間に僕を飲み込んでいくものだったと言うことを。
二番目の「変化」。それは「僕」を「僕」と認識させる、大きな「変化」となった。「未完全な僕」に突然近づいて来た「それ」に対し「未完全な僕」は、初め認識ができなかった。だって、「それ」は初めて見たものだったからだ。だから、なんと認識してよいのかわからなかった。ただ、それは「光」に似ていた。なので初めは「光」なのだと思った。が、「それ」は「未完全の僕」が知ってる「光」と少し違った。では、「光」でないのであればそれは何なのか―――もちろん、今の僕は知っているけれど―――「未完全な僕」は一生懸命考えた。それまで僕は毎日風を感じ、光を感じ、闇を感じていた。けれど、これらのものがなんと呼ばれているか知らなかった。だから知りたくなったのだ。「『風』はなんと呼ばれているものなのか。」「『光』はなんとよばれているものなのか。」など。つまり―――僕は知らなかったのだ。『言葉』と言うものを。
――――『道生一,一生二,二生三,三生萬物。萬物負陰而抱陽。沖氣以為和。』
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その日、結局宿を出たのは、街がすっかり目を覚ましたきった後で。僕はぶつぶつと文句を言う華霄に黙ってついていくしかなかったわけなんだけれども。ガヤガヤといろんな人の声が交じり合ってる市場やら、呼び込みの声が激しい食堂街を通ると、華霄のぶつぶつも少しずつ小さくなっていき、そのうち「あ」とか「ん?」とか、感嘆がもれ始める。こういうところは普通の女の子に見える。いや、女の子であることは間違いではないから、「見える」ってのは失礼かもしれない。
「…春、仲春!聞いてるの?」
「え?」
「…聞いてなかったでしょう…。もう、失礼しちゃうわ!あたしがはなしかけてあげてるってのに!」
ぷう、と顔を膨らませる様子はまるで幼子のようだ。しかし、その表情も長くは続かない。すぐに新しいものに目をやっては興味深そうに瞳をきらきらさせるのだから。
「あのね、今日はどこまで行こうかって話しをしてたの。もう一日この街にいてもいいし、別の街に移動してもいいかなって思ってるんだけど。伯陽は次の街に行くまでかなり距離があるから明日にしてもいいんじゃないかって。仲春はどうしたい?」
案の定、機嫌を直したらしい華霄が屋台を覗きながら話しかけてくる。見ているのは翠の石がついている髪飾り。きっと、挿したら似合うだろう―――黙って笑ってさえいれば、の話だけど。そんな不埒なことを頭の片隅で考えながら、もう一方で近隣の街のことを考える。
「別の街ですか・・・・。次の街、と言うと岱裕が近いって言ってたな・・・。でも、岱裕に行くとなると、この時間ではちょっと遅すぎるかもしれませんね。」
岱裕はこの近隣にある城壁に囲まれた立派な街で、東のほうでは五本の指に入るくらいの商都として栄えているらしい。なんでもその昔、都が置かれたこともあったと言うことなのだけれど、僕自身はよく知らない。行ったことないし、この話だって、昨日の宿屋の宿泊客から教えてもらった情報だ。
「へえ、岱裕を知ってるなんてね。仲春、何時からそんなに物知りになったの?」
簪に向けていた瞳を僕のようによこす。僕はその、華霄が持っている簪の、翠の石の可憐に揺れるさまに一瞬、目を奪われた。
「昨日、宿屋で一緒に食事をした人がいたでしょう?あの人が言っていたんですよ。」
視線を簪に、いや正確には翠の石に向けながら、話す。―――どうも、目が離せない。
「ああ、あの人の良さそげなおじさんね。確か商人だって言ってたけど。あの性格じゃ、もうからないんじゃないかしら・・・?いい人そうなんだけどね。―――で。・・・・気に入ったのね?」
華霄が聞いてくる声が聞こえた。気に入った?何を?おじさんを?それとも―――。
突然、手が伸びてくる。意識が簪からそれる。と、こわ〜い笑顔の華霄の顔が見えた。
「人に話しかけるとき、話を聞くときは目を見なさいっていってあるでしょ!?ぼやぼやせずにお財布を出して頂戴。」
「買うんですか?」
「あ・ん・た・が!!気に入ったんでしょう?だから買うのよ。」
「買ってくれるんですか?」
「まさか。ツケよ、ツケ。しっかり働きなさいよ、グータラ幽霊。」
そう言いながら、財布を出して、かんざし屋に御代を支払うべく話しかける。
暫くして。帰り際にひきつった笑顔で僕らを、正しくは値切りに値切った可憐な少女を見送った店主を見て、僕は思った。―――絶対華霄のほうが昨日のおじさんより商人に向いてるだろうな、と。
「はい、これね。あたしが挿してあげようか?」
しばらく道を歩き、簪屋が見えなくなった頃に華霄がそう言って僕に簪を差し出した。しばらく、簪をみつめて考える。
「あの。別に僕は自分に挿したくて見てたわけじゃないんですけど。」
「え?じゃあ、この簪どうするのよ!?」
きょとん、とした彼女の顔はこの女物の簪を挿すのは僕なのだ、と本気で思ってたことを物語っていて。僕はなんか、微妙な気分になる。
「僕が、こんな女物を挿せるわけがないじゃないですか。」
「だって、気に入ったんでしょう。だからわざわざ簪屋が見えなくなるまで渡すのをひかえてたんじゃない!!気を使ってあげたのに!」
いやいや、気を使うところがずれてます。明らかに。
「だけど、とにかく!僕は挿しません。綺麗だなっておもったけど、自分で挿したいわけではありませんから。大体、女物の簪挿してる男なんて変に目立つし、華宵はそんな人間と一緒に歩きたいですか?厭でしょう?だから、僕は挿しません。」
一気にまくし立てると、華霄がむっとした顔で聞き返してくる。
「じゃあ、これどうするのよ!」
「女物なんだし華霄が挿したらいいじゃないですか。似合うと思いますよ。」
「これを私に挿せって言うの?」
「ええ、そうです。僕が挿すよりも、絶対似合うと思いますよ。」
絶対、の部分に力を込めて言ったからなのか、華霄はふむ、と一つ頷いておもむろに簪を挿してこう言った。
「じゃあ、これは仲春からの贈り物ってことで貰ってあげるわ。でも、御代は仲春もちなんだから、ツケはツケよ。しっかり払ってもらいますから、そのつもりでいなさいよ。」
可憐な翠の石を揺らめかせてきっぱり言い放った彼女を見て僕は確信した。―――やっぱり、昨日のおじさんより華霄のほうが商人に向いている。