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複雑に曲がりくねった裏路地を抜け、富裕層の屋敷が連なる区域に入る。私はマントを頭からから被り、ラグナと共に連なる屋敷のひとつに身を滑り込ませた。
「ただいまー」
「遅いですよ」
入るなり冷ややかな一言が飛んできて、ついムッとしてしまう。
冷ややかなアイスブルーの瞳を持つ宰相サマは、ティーカップ片手に机の上の書類に目を通していた。
「遅いって何ですかちょっと。家で優雅にお茶飲んでただけのくせして人の仕事にケチつけないで下さりますクソ宰相」
「今まで衣食住を保証してあげていたのは誰だと思っているんですか穀潰し。これぐらい大した量の仕事でもないでしょう」
「私が養ってもらってるのは目の前のクソ宰相ちゃうし。国だし。ていうかそっちの手違いで召喚されちゃったんだから生活保護してもらうのは当然の権利です偉そうに。これまでの悪事全部ひっくるめて国王陛下に告げ口してやりましょうか」
「はっ、小娘が偉そうに。自分ひとりでは鳥かごから出ることすらできない小娘に私の悪事が暴けるとは笑止。騒ぐ暇があったらとっとと着替えなさい。これ以上遅れるようなことがあれば王都の一番治安の悪い路地裏に放り出しますよ」
「そういうところを取り締まるのがあんたのお仕事でしょーが」
「それは騎士団の仕事であって私の仕事ではありません」
そう言って再びゆっくりとティーカップを口に運ぶ宰相。さらに言い返してやろうかと思ったものの、時間の無駄だと自分に言い聞かせ、素直に着替えることにする。
「まったく……私は月の巫女としての仕事をしてきてほしいといったのですが、何故血だらけ泥だらけで帰ってくるんですか」
「平たく言えば人助けです。奴隷商に捕まりそうになっていた女の子を助けてきたんです。ってか奴隷制度とかあるなんて聞いてないですよ。今すぐ撤回すべき」
泥だらけの上着を脱いで新しいものに袖を通すと、宰相がヒョイ、と眉を上げるのが見えた。
「奴隷商?嫌ですね、またこの国に手を伸ばしてきていたんですか……。一応、うちの国では人身売買は禁止されているのですが」
「ほら宰相が仕事しないからー」
「全て私のせいにするのはやめて頂けませんか。私はこれでも毎日身を粉にして働いている勤労者なのですよ」
小さくため息をつくと、宰相は部屋の端に控えていたラグナに視線を向ける。
「ラグナ、報告を」
「……は。巡回中に奴隷商に追われていると話す少女を発見、追いかけてきた男七名を捕縛し、都騎士に引き渡してまいりました。男たちの中に、真っ先に逃げ出そうとした商人風の男が混ざっていたことから、彼らは奴隷商とその用心棒と見て間違いないかと。その件も含めて都騎士に調査を依頼してきました」
どこか言いづらそうな顔をしているラグナさんに、私は首をかしげた。
「ラグナさん、どうしたんですか?」
なんでもない、という視線だけこちらに投げかけてきたラグナさんを見て、宰相の口が面白そうに弧を描く。
「その奴隷商は、君が左遷された件と同一人物でしたか?」
「……宰相殿、今その話題を引っ張り出しますか」
その時のラグナさんの表情は見ものだった。苦虫を噛み潰した顔とはこういう顔なのか、というほど苦々しい顔。
「え、ラグナさん左遷されたんですか?」
「元々彼は有能な人材でしてね。近衛士副隊長を任せられる実力者ですよ。ですがまぁ、少々仕事熱心すぎるところがありましてねぇ」
「宰相殿ッ!」
ラグナさんが慌てて止めに入るが、もう既に話を振った時点で止める気はないのだろう、宰相はサクサクと話を進めていく。
「王宮警備の近衛士にもかかわらず、どこで聞きつけたか奴隷商の捜査に乗り出して、王都騎士団のテリトリーに乗り込み騎士団は激怒。その後王都騎士団の団長と決闘騒ぎまで起こして、王宮騎士団と近衛隊で斬った張ったの大騒ぎ。結局最後に元凶の彼が、アルフレッドから謹慎代わりに君の護衛任務を与えられたんですよ。女性嫌いの彼がこの任務を断れないのは謹慎も兼ねてるからなんです」
「うわぁ、ラグナさんやるなぁ……」
ちらり、と視線を向けるとラグナさんは部屋の隅で聞こえないふりをしていた。ちょっと反省しているのか、肩が落ちている。申し訳ないことをしたかな。
「……俺のことなんてどうでもいいでしょう。問題は奴隷商です、宰相殿」
「……、あぁ、えぇ、分かっていますよ」
宰相の瞳が、一瞬だけ不思議な色を帯びた。後悔と躊躇、……痛み?
それはあまりに苦しげで、私は思わず宰相の顔を覗きこもうとした。しかし、そんな表情を見せたのも一瞬で、すぐにいつも通りの薄い笑を貼り付けてしまう。
「……わかりました。その件については私も時間を作って追ってみましょう。ティカ、帰りますよ。これ以上遅れるとあなたの不在が公になってしまう」
「はいはーい」
肩にかかる髪を軽く革紐で束ねてから、私は早々に歩き出した宰相とラグナさんの後を追った。
王宮の出入りは、やはり国王や国の中心人物が集まる場所であるだけあって監視が厳しい。ので、私は宰相の用意したドレスの中に埋もれるように身を隠している。
私と咲夜へのプレゼントに、という名目のドレスは、ちらりと確認されただけであっさりと王宮に運び入れられた。後に聞いた話、これは宰相が身分も信頼度も高い人間であったかららしい。この狸の信頼度が高いとかこの国の未来が不安すぎる。
「もう出てきていいぞ」
別口で王宮内に戻ってきたラグナさんが、私入りの衣装箱を受け取り、私を箱から出してくれる。
「うぅ……酸素が……。服に押しつぶされてここで死ぬかも、って本気で思った……」
「大丈夫だ、人間はそう簡単に死なないもんだ」
深く深呼吸を繰り返していると、ふとラグナさんが険しい顔をしていることに気づいた。
「どしたの?」
「…………何でもない。お前には関係のないことだ」
ぐちゃり。心の中で何かが蠢く。
嫌な感覚。嫌な予感、といったほうがいいのかもしれない。モヤモヤしたものが、膨らんでいく。
ラグナさんは「しばらくは部屋でおとなしくしてろ」と言った後、離宮を出て行ってしまった。私は一人、気持ち悪い感覚とどうしようもない不安を抱えたまま取り残される。
「……帰りたいな。お母さんのシチューが飲みたい」
呟けばさらに故郷が遠くなった気がして、続けようとしていた言葉は飲み込んだ。静かに首を振り、立ち上がる。
稽古をしよう。魔術の勉強をしよう。それがきっと、私と咲夜を守るための手段となるから。
故郷への道を開くための、大切な鍵になると信じたいから。