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「さて、ティカさん。貴方が我が国に来てからもう一ヶ月ほど経ちますね。どうですか?ここでの生活は。何か不便な所や改善を望む所があればできる限り改善していきますが」
イヴァンさんは、柔らかな笑みを浮かべながらそう言った。実は私、こういう優しい視線や笑みが苦手だったりする。落ち着かなくなる、というか、なんというか。
「そう、ですね。率直に言わせてもらうと、この中途半端な軟禁状態を解いて欲しいですね。好待遇ではあると思うのですが、やっぱりつまらなくて」
私のたどたどしい返答に、イヴァンさんは「なるほど」と大げさなほどに頷いた。
「私も、この状態はどうにかしなければと思っています。貴方に不自由な思いをさせてしまい、本当に申し訳ない」
イヴァンさんは軽く目を伏せると、懐から書類を取り出した。
「一ヶ月後、この国で秋の収穫祭があることはご存知でしょうか」
「はい、ラグナさんから聞きました」
「そうですか。……今回の収穫祭は、サクヤさんが巫女として出席することになっています。ティカさんは今掛け合っている途中なのですが、恐らく参加は難しいかと」
なんだろう。彼の物言いが、何か心に引っかかった。
しかし、その引っ掛かりを掴もうと伸ばした思考を、何かが絡め取る。絡め取られて、さらさらと、流される。
腹の奥のほうがじりじりと疼いた。ゆっくりと温度を上げる感情が、体の奥を焦がす。
気持ちが悪い。思わず視線を逸らすと、青い瞳が割り込んできた。青空のような晴れ渡った瞳が私の視線を捉え、釘付けにされる。
「どうなさいました?大丈夫ですか?」
「……大、丈夫、です」
思考が青の瞳に吸い込まれ、そしてたゆたうようなまどろみを生み出す。その中で激しく燃えていたのは、嫉妬だった。
見ちゃいけない。見たくない。それは私にはないはずのもの。私は決して抱いていないと、何度も暗示をかけて押さえ込んできたもの。
「ティカさん」
「……何ですか?」
イヴァンさんが私を見ていた。鮮やかな青の瞳で。酷く澄んだアイスブルーの瞳で。
「ここから出たいですか?」
焦げた真っ黒な感情が顔を出す。あぁ止まらない。気持ちが悪い。
「もし、私に協力していただけるなら、貴方を自由にしてあげましょう。そう、サクヤさんのように、自由に」
それは焼け焦げた地獄に垂れた、一本の蜘蛛の糸のようだった。
何で私だけ、こんな所に押し込められてなければいけないのか。
何で私は、サクヤのようにいろんな場所に足を運んで、いろんなものを見て、いろんな人と話すことが出来ないのか。
何で私だけ。
一度顔を出した感情は、堰を切ったようにあふれ出す。頭の芯が歪んだように、まともな思考が消えていく。
私だけ、何で私だけ。
そうだ。私だけがそんな思いをする必要なんてないはずだ。彼の手を取れば、私だって。
……私だって?
噛み締めた唇を開き、伏せていた顔を上げ、しっかりとイヴァンさんを見返す。
「……お断りします」
酷く澄んだアイスブルーの瞳は、僅かに驚いたように揺れた。そして浮かんだのは、落胆の色。
ふっ、と頭が軽くなった感覚。夢の中をたゆたうようなぼんやりとした意識は一瞬で現実へと戻り、焼け焦げていた心もいつもどおりに戻る。暴走していた感情がやっと制御下に置かれる。――私は、操られてた。
「いいんですか?自由になりたいんでしょう?」
「そんな安い餌に釣られて利用される気はないんだよ、宰相さん」
心の中の黒いものを、人に誘導されて暴かれてしまった自分に腹が立つ。
「二人の召喚者。一人は特別扱いされて、それにもう一人が嫉妬。嫉妬をした巫女が暴走し、何かを起こす。さて、あんたらは私を使って何をしたかったのか。でも、そう簡単にいくと思わないで欲しいね。私と咲夜の絆、そんな軽いものだと思われちゃ困る」
思えばもう何年の付き合いになるか。おそらくもう十年近く。いつも彼女は『特別』だったけど、その『特別』のせいで、彼女がどれだけ傷つき、苦しみ、心を閉ざしかけたのか、一番知っているのは私だ。
今だって、彼女はただ特別扱いされてるだけじゃないし、それが幸せだなんて絶対に彼女は感じてない。警戒心の強すぎる素の彼女を知っている私にとって、彼女が巫女の仕事をこなせているというだけで、どれだけ苦労しているかが分かる。
私だって?残念ながら私にゃそんな重責には耐えられない。だからこそ私は彼女を支える役であり、彼女を守る役なのだ。
嫉妬なんて、恐れ多くて出来やしない。
「私たちは異世界人なんですよ、宰相さん。自由だから何なんですか。どうせ餌に持ってくるなら元の世界に帰れる方法にでもしてくださいよ。こんな世界に定住したくないし、観光旅行に行く気もない。私を利用して何しようと考えてたのか知りませんが、貴方の道具になってやるつもりはさらさらありません。この檻の中のほうがよっぽど安全そうですしね」
一息に言い切ると、さぁどう返す、と宰相を睨む。イヴァンさんなんてもう二度と呼んでやるもんか。お前なんぞクソ宰相で十分だ!
感情のないアイスブルーの瞳は、しばらく私を眺めていた。何を考えているのか、目を見るだけでは分からない。酷く整った人形のような顔は完全な無表情で、しばらくして、深い深いため息とともにやっと感情が浮かんだ。
ミスったなぁ、めんどくさい、って顔に書いてある。
「…………方法を間違いましたね」
「さっさと帰ってくれません?今あんたの顔見たくないんですよもの凄く。見てると殴りたくなるんで」
「一応私は国王に次ぐ権力者なんですが」
「だから?」
さっさと帰れ、と口調で追い立てるにもかかわらず、宰相は腰を上げる気配がなかった。もう一度深いため息をつくと、再び私と目を合わせる。
そこに、さっきまでの人の良い笑みはなかった。狐のような奥の見えない色もなかった。
「貴方には正攻法で取引を申し込むべきだったかもしれませんね。貴方は聡明だ」
「えぇ、聡明ですから変な取引に応じる気はありませんよ。だから帰れ」
宰相は無言で懐から紙の束を取り出し、机の上に置く。
「……これは?」
「王宮内にあった異世界人の記録です。王宮の秘蔵書庫のものも含まれています」
あるんじゃねぇか、餌。
とはいえこんなあらかさまに釣りに来られると、素直に食いつくわけにも行かない。書類の束を眺めつつ、相手の出方を伺う。
「協力していただければこれを渡します。これが私に出来る、最良のことです」
「……協力の内容による。何しようっての」
宰相はしばしためらうように口を噤み、そして一言。
「現国王を退位させます」
「断る」
よし帰ろう。帰ってまたお役立ち手記を読もう。あれ面白いんだよなー。少なくともテンプレートな悪役に協力するよりもよっぽど面白い。
「ていうか現国王を退位させて自分が天下とろうとか考えてるの?えー、そんな人が私なんかに協力仰いじゃっていいのそもそも。革命は私たちが元の国に帰ってからにしてください。私は無関係」
「んなこと待ってる暇はないんですよ。それに私は玉座になんか興味ありません。あんなめんどくさいものいりませんよ」
眼鏡のブリッジを押し上げると、宰相は疲れたように言った。
「今この国が機能しているのは、私とユリウス殿下が政務を執り行っているからです。それでも、地方貴族は中央を舐め始め、ここ最近不穏な動きの報告が増加しています」
「……待って、どゆこと?国王陛下が仕事してないってこと?」
「そう。ここ数年、国王陛下が行った国務は私が知る限り、この召喚の儀を含め数回しかありません。残りの仕事はすべて私たちが行っています。しかし、国王にだけしか行えない政務ももちろんある。それを放置し続ければ、いずれこの国は滅びます」
私は一ヶ月前に一度だけ会った国王の姿を思い出す。金髪碧眼のあの壮年の男性が?
「国王陛下を退位させて、誰を後に据えるの」
「もちろんユリウス殿下を。まだ彼に話をもちかけることはしていませんがね。ここ数日、ユリウス殿下とサクヤさんに国王陛下の監視の目が光っていて、下手に近づけないのです。本当はサクヤさんに協力していただくはずの予定だったのですが、このせいで計画が狂いに狂ってしまいまして。貴方に協力を仰ぐことにした次第です」
ソファーに座りなおしながら「私に何をしろと?」と訊ねる。
「月の巫女は、神の使い。彼らは神の言葉を伝えるものです。かつては彼女の言葉によって国王が交代したこともありました」
「ははーん。月の巫女が『この国王は王に向いていない』って言えば退位させられるってわけか。でも、残念ながら私が本物の月の巫女じゃないことは、もうみんな知ってるんじゃないですか?」
そこでやっと宰相は笑みを浮かべた。ニタリ、という効果音の丁度よさそうな黒い笑みだったが。
「市政の人々は、月の巫女が黒髪黒目であることしか知りません。そんな人々の前に、黒髪黒目の少女が現れ『私は巫女である』と名乗り、人々のために慈善事業を行いながら『今の国王陛下は王に向いていない』と遠まわしに呟く。それだけで、民の心は揺れ動きます。総仕上げとして、広がった噂について審議を問われたサクヤさんが、『確かに向いていない』というだけで国王は退位を迫られることになる。どうです?」
宰相の笑みに、私は一回天を仰いだ。黒い。黒すぎるぜ宰相。
しかし、楽なことではないだろう。それは多分、反乱への誘いだ。国を二つに割る可能性のある、難しい話。
……咲夜、ほんとごめん。帰る方法のためです。
「乗った!!」
ウソ。面白そうだから参加してきます。